2006-07-11

森長継公忌

テーマ:我が家の家史

本日は、津山藩2代藩主・森長継公のご命日である。

津山藩で最も長く藩を統治した人物で、森家の盛衰を見届けた唯一の人物でもある。長継は初代藩主・森忠政公の外孫で、姓は関氏といい、森家の家臣だった。 そのため最初は関兵助と名乗っていた。


このような身の上であるから、本来長継公は森家の社稷を継ぐべく立場の人物ではなかった。


ところが、忠政の長男・重政は早世し、次男の忠廣は加賀藩主前田利常の娘、亀鶴を将軍徳川秀忠の養女として正室に迎えて、2代藩主の最有力後継者と目されていたが、その亀鶴が僅か18歳で早世すると、それまで品行方正であった忠廣が酒色に溺れるようになり、白拍子を傍に過ごす毎日が続くようになった。この人、かなりプレッシャーに弱かったようである。


 今で言えば、一介の社員が、社長令嬢の奥さんを貰い、その奥さんが亡くなったことで一気に緊張が取れ、開放感からキャバクラに通ってしまうようなものだ。


 もちろん、諸侯の集う江戸においてこんな行状が知れ渡ることを恐れた忠政は、参勤交代によって忠廣を江戸に残して津山へ帰るにあたって不祥事が起きないよう、家臣の高木右馬助重貞に忠廣の品行を矯正するように命じて帰国した。いわゆる保護監察である。


忠政の命を受けた高木は忠廣を藩邸の一室に軟禁し、過酷なまでの生活を強いらせたが、このときの生活が元となってまもなく死去してしまう。忠政ががっかりしたのは言うまでもないが、それどころか、将軍家に不審を抱かせてしまう。 何しろ、家光の義妹が嫁いだ忠廣は、家光のの義兄にもあたる。


家光は、義妹の亀鶴が死去してから、忠廣についての詳細な情報がほとんど家光に届いていなかったことや、亀鶴の死去から僅か数年で、突如忠廣の急死を知らされたことも不審の種であった。


また、亀鶴の実家である前田家にとってもショックと不信感は強いものであり、忠政は将軍家と前田家の両方から叱責を受ける形となった。そして高木は森家を追われて流浪するが、その後柔術の流派の一つ、本体揚心流を創始して紀州徳川家に仕官している。


長継公の話からはややそれてしまったが、この前置きが後の長継公家督相続に大きな影となる。


2人の嫡子を失った忠政は、翌年江戸に参府して忠廣に代わる後継者探しを開始し、津山にいた外孫の関兵助(長継)を江戸に呼び寄せることにした。


しかし、呼び寄せた直後、忠政の脳裏に戸惑いが起こる。


それは、将軍家と前田家に縁を持っていた忠廣の後釜に、孫とはいえ森家の家臣筋である関兵助を据えるには荷が重すぎるのではないかと。

 それだけではない、嫡子がいないとはいえ、この外孫を継嗣に据えることが目的で徳川に所縁ある嫡子忠廣を亡き者にしたと噂されることも恐れた。(我が子であるによって、さすがに考えられぬが)


 深慮の挙句、陸奥白河城主本多忠義の嫡子虎之助を森家に迎えて忠政の後継者に指名することとした。

本多家は森家の外戚にあたり、虎之助と亡くなった忠廣は形式上は徳川家を介して従兄弟の関係だった。しかし、血縁はなかった。しかし、徳川家を配慮すると虎之助を後継者にするほうが良いと忠政は判断した。


本多家の承諾を得た忠政は、津山から呼び寄せ、東海道を東へ急いでいた兵助の行列に、「津山に戻るように」との指示を送った。


参府途上にあった平助にはその取り巻きの家臣を含め数十名が随身していた。この指示を受け取った兵助は籠を停めてしばらく考えた。このとき兵助は24歳。自身の立場や考え方も確りしはじめている年頃でもある。また随身者の多くは関家の家臣であり、彼等にしても自分の仕える主人が藩主の後継者となることによって、自身の出世に期待もできる。東海道中の兵助が西へ引き戻るか、東へ強行するかは大きな分かれ道となった。


おそらく気を揉んだ家臣が兵助に進言したとも思われ、結果的に兵助は忠政の指示を無視して江戸に向かう事を決めた。これは藩主の命令に背くことになるわけであるから、その罪が重大であることは承知のことであり、そのため万が一罪に問われたときは僧籍に入る決意をしていた。


 しかし、兵助を出迎える立場にあった江戸藩邸の人々においても、苦悩があった。


本多家から養子が入るということは、可成→長可→忠政と続いた森家の血統が途絶える事を意味したからである。忠政の気持ちは察すれど、家臣としてのモチベーションは図り知るものがある。


このような状況を兵助もまた承知していたはずである。万が一忠政の叱責を受けるならば、このことを説明し、また一族や家臣も味方にできると確信していた。


 かくして、兵助は江戸に到着してしまい、忠政も一度は虎之助を跡継ぎと決め込みながらも愛孫を目の前にすると、それを肯定して兵助を津山に追い帰すことができなくなってしまい、親友の細川忠興に相談をした。その結果、忠政は本多家へ謝罪して虎之助の森家縁組を白紙撤回させ、さらに半年後の寛永10年8月、忠興の意を受けた細川忠利(豊前小倉藩主・忠興の3男)が老中の酒井忠勝と共に幕府に願い届けることによって、関家継(このとき平助より改名)を忠政の後継に正式に認可されたのである。家継はこの後森長継と改名している。


 その翌年、寛永11年(1634)7月7日、将軍家光の上洛準備で京都に滞在していた忠政公が急死すると、同じく京都に滞在していた老中の酒井忠勝からの早飛脚によって、江戸に居た長継は直ちに京都に向かい、二条城で家光に拝謁、美作国の相続を認可され、2代藩主となった。


その後、長継は7人もの男子を設け、また信心深い性格だったことから、領内に多くの寺社を建立し、江戸の社寺においても数々の寄進を行った。 これは後の藩財政を傾ける遠因ともなったが、森家の黄金時代を築き上げたといっても過言ではないだろう。このようにして長い治世を誇ったが、その藩主在位が長かったために、長男忠継は親に先立ちて死去する。 これにショックした長継は忠継の死から2ヵ月後、次男の長武に家督を譲り、長武には忠継の嫡男が元服したら家督を譲るように命じた。


この家督相続も、無事に長武から長成へと橋渡しされたが、長成は27歳の若さで病死。彼には子が居なかった。 長武もその前年に病死しており、80歳を超えた長継は、末っ子の衆利を後継者に指名した。


しかし、この衆利も乱心騒動を起こして、家督相続ができなくなり、ここに美作津山藩は無嗣改易となり、天下の大法によって領地は没収となった。元禄10年(1693)8月2日のことである。

慶長8年(1603)2月、徳川家康によって、森忠政公が美作国を拝領してから、ちょうど90年と6ヶ月を迎えたところだった。


悲しいかな、忠政公を見送り、嫡男忠継を亡くし、次男長武公や孫の長成公にまで先立たれ、自分以外のすべての歴代藩主を見送ることになった長継公、津山藩改易の折に存命だったため、津山から離れた備前西江原に隠居料として2万石を拝領する。

しかし、領地に赴くことなく、2年後に江戸で寂しく世を去った。享年89歳。


長継院殿静林道岳大居士 と号し、


江戸土器町(現在の芝)の瑠璃光寺に葬られた。

長継公の遺領は6男の長直公が相続し、西江原拝領から8年後、播州赤穂城主として転封した。

赤穂藩は忠臣蔵で知られる浅野家5万石の居城。されど、森家は長継から引き継いだ2万石のままこの城を統治し、赤穂藩森家として明治維新を迎えた。




最期にもう一つ彼の業を紹介したい。


津山の郊外に廃寺がある。

元の名を長継山千年寺といい、黄檗宗 の寺だった。

長継が自身の生前墓(逆修塔)を建立した寺である。


「長く継ぐ」


この意味を込めた自らの名を山号とすることで、千年の栄華を祈願したのだろうか。


 だが、いつしか木でできた堂宇は朽ち果てて礎石が剥き出しとなり、そこには彼が建てた石の燈篭と墓塔だけが残されている。 

そしてその墓標は森家の記念碑となり、今に生きる我々に往時の栄華を知らしめてくれている。

写真の掲出を考えたが、その姿はあまりにも悲惨であり、読み手の心の中で描いていただくこととし、あえて掲載しないでおこう。

 (津山市指定文化財)



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