2006-07-07

森忠政公忌

テーマ:我が家の家史

本日は森家中興の祖と讃えられし、初代津山藩主森忠政公の御命日である。

今朝から菩提所の本源寺では本堂に隣接する御霊屋の扉が開かれ、菩提法要が執り行われる。かつては住職と森家の人間のみが昇殿できたこのお堂も、森家が去った今日では例年7月7日に限って一般公開される。


本源寺(岡山県津山市)


多くの日本史ファンでも森忠政と聞いて、いつの時代の人間か思い浮かばない人は多い。だが森蘭丸の弟と聞いたらどうであろう。ホウホウと、納得する人も出てこよう。


 かく言う正雅堂はこの忠政公から数えて“15世代目”に連なる人間で、系図にしてみれば枝分かれも甚だしいのだが、こういう先祖がいたということに誇りを持っている。


私はこれまでも歴史を学ぶ上で色々な人物を見てきたが、森忠政という人間ほど強運で世渡りの上手な人間を他に知らない。どんな些細な事一つでも歯車が狂うようなことがあれば、現在の自分はいないのだと考えると、なおさら驚くべきものがある。


 先ほど、蘭丸の弟と表現したが、森忠政は幼名を千丸(または仙千代)といい、森可成の六男として誕生した。森可成もまた、柴田勝家らと並ぶ信長配下の武将として一角の立場にある家臣だった。浅井朝倉の連合軍に敗れて討死したが、千丸は可成が死ぬ半年前に美濃金山で生まれた。だが、誕生したときには可成は既に戦地にいたことから、千丸は父の顔を知らないで育ったことになる。

金山城址(岐阜県可児市)


戦で失ったのは父だけではなかった。父が死ぬ半年前には姉川の合戦で長兄の可隆が戦死している。彼は初陣だったという。 そのため、千丸はこの可隆の顔も知らないことになる。
父と長兄を失って誕生した千丸の家は、次兄の長可が家長を勤めていた。
長可の下には、蘭丸、坊丸、力丸の3人。そしてその下に千丸と続く。


既に長可は信長に認められ、大名としての地位にあり、蘭丸も小姓に取り立てられ常に信長と動向を共にしていた。
 この蘭丸が長可に続いて大名に取り立ててもらえる年頃になると、蘭丸の後任者として3人の弟が信長の小姓として仕え始めるようになる。 坊丸、力丸、そして千丸である。
だが、上の2人の兄に比べ、千丸はまだ13歳。精神的にも幼く、同僚の小姓達からも軽く見られがちであった。 どうにも我慢ができなかった千丸は先輩小姓の梁田氏を扇子で殴るという暴行事件を起こしてしまう。これを見咎めた信長は、「千丸は幼い故、母の元へ返す」と体よく小姓を解雇されてしまったのである。 天正10年(1582)3月のことだ。

本能寺跡(京都市)


 それからまもなくして、信長は京都に上る。 史上有名なクーデターである本能寺の変が起きたのは、この年の6月2日。 信長以下、蘭丸・坊丸・力丸の3人の兄も討死してしまったのである。梁田氏との事件が無ければ、間違いなく千丸の名もこれに続いていたであろう。


だが、肉親を亡くす悲劇はこれでも止まらなかった。
本能寺から2年後の天正12年(1584)4月には小牧長久手の合戦で、次兄の長可が戦死。
ここに千丸の5人の兄は父を含めて全員戦死を遂げたことになるのだ。


長可は死の2週間前、秀吉の側近に宛てて遺言状を残した。長可は自分たち兄がすべて戦死を遂げることで、末弟の千丸に同じような思いをさせたくなかった。そこで千丸を自分の跡取りにはせず、森家の城(金山城)は適格な者に守備させるようにと書き記している。適格な者であれば、森姓でなくても良いという意味だろう。 


 秀吉はこの遺書に涙し、千丸を元服させて忠政と改め、豊臣家の家臣に取り立てた。そして佐々成政攻略の陣に忠政を加え、初陣とさせた。しかし、金山城はそのまま忠政に与えた。金山城は7万石、長可はこのほかに信濃の領土を合わせて約20万石を領していたが、この領土は長可の退去によって事実上、上杉家の支配となっており、忠政は公称7万石とされた。
 後に忠政は関が原前夜の折、石田三成率いる西軍の誘いに対してこの事実を挙げ、豊臣家に禄を減らされたと非難しているが、この事情からして減封は豊臣家の責任ではなく、これは徳川方に付くための口実だと私は考えている。


秀吉が関白となり、京都に聚楽第を築いて後陽成天皇の行幸を仰いだとき、忠政はこの列に加わり、天皇の御前で和歌を披露している。豊臣姓を拝領し、金山侍従豊臣忠政と称した。
この頃が秀吉にとっても全盛期だったのだろう。


 秀吉が死ぬと、元々仲の良くなかった徳川家康と石田三成の間は急速に冷却化し、忠政は親友の付き合いであった細川忠興とともに、伏見の徳川屋敷に自主的に警護を名乗り出て、弁当や着替えを持参し、3日間泊り込みでこれを勤めた。感激した家康は2人を書院に呼び寄せ、諸将に先駆けた秘密事を彼らに打ち明けたとされる。


 それから2年が経ち、家康は豊臣家を凌ぐための策略に出る。主家を無視した知行状の発給である。当時、家康は豊臣家の五大老の一人に過ぎず、実際に知行状を発給するのは豊臣秀頼というのが筋だった。もちろん事実上は形骸化しているが、お伺いを立てることは必要だった。その第一号となる知行状の発給が忠政に対して成されたのである。


 それは川中島を治める田丸忠昌を忠政の所領・金山とトレードさせる領地替えだった。田丸は同じ石高での転封だが、忠政は加増を伴う転封だった。家康は忠政に対して、この信濃国川中島13万7千石の所領を、「家康の名によって」保障したのである。川中島一帯は兄・長可が治めていた所領で、忠政が最も望んでいた土地でもあった。家康は自分に忠節心を見せてくれた忠政に対して、知行状の発給で恩に報いた形となった。言い方を変えればこの忠政への知行状が徳川家が自分の家臣以外に発給した初めて物といえる。

(※当時森家は、徳川家と同様に豊臣家の家臣)

海津城址(長野県長野市)


 もし後の関ヶ原合戦などで徳川軍が滅ぶようなことがあれば、第一号の知行状を受けた忠政も真っ先に槍玉に挙げられたに違いない。何事もそうだが、1番というものには名誉もあるが、それなりのリスクもあるわけだ。


徳川・豊臣両家のその後の摩擦は多く知られるとおりであるが、関ヶ原の戦いで徳川軍が大勝し、その後の大坂の陣を経て、慶長8年(1603)江戸に幕府が開かれると忠政は新たな所領を拝領する。


美作一国18万6500石

一国、つまり国主大名である。
これは通常の城主級の大名より格が高いことを意味する。


 国主という地位は森家始まって以来の事であり、20万石もあった森家の所領は長可の遺言によって一度はリセットされ、本領の金山7万石からスタートした忠政の知行は、ここに実を結ぶ結果を見た。 森家歴代のうちで、彼ほど出世を遂げた人物は他に居らず、またその一つ一つが正しい選択であり、一度たりとも為政者に睨まれたり警戒されたりということがなかった。その背景には、相手にそう思わせないように配慮した努力も伺え、これが最終的に大きな繁栄をもたらせた原因であろう。


 美作に入国してからの忠政が逝去するまでの34年間には、ここに書ききれぬほどの逸話がある。時間を見つけて少しずつ紹介してゆこうと思う。


信長に仕えて秀吉、家康と主家が変わり、江戸幕府になってからも、家康・秀忠、家光と3代の将軍に仕えた。 都合5人もの為政者を見届けたこの武将は、寛永11年(1634)の今日未明、京都において64歳の生涯を閉じた。


本源院殿先翁宗進大居士


棺は大徳寺門前の船岡山で荼毘に付され、大徳寺山内に建てた塔頭・三玄院に埋葬された。

大徳寺三玄院(京都市)


この三玄院は忠政公が浅野長政と石田三成の2人と共に秀吉政権下に建立した寺院。
当時は三成とも仲が良かった忠政公、関ヶ原の戦いでは三成に加担を求められたが、これを拒否した。その結果、三成は忠政よりも先にこの寺に眠ることになった。
(三成の墓は明治時代に改葬され、現在は忠政公の廟所近くに墓が建っている。)


泉下で、2人の武将は何を思いあっているのだろうか。


森忠政公坐像(本源寺蔵)


本源寺の本堂には、衣冠束帯に身を包んだ忠政公の木像が鎮座している。
これは忠政公の50回忌法要の折に造られた木像とされている。
50回忌というと、2代藩主森長継公がまだ存命中のことであり、生前の忠政公を知る人物らがこの制作に立ち会っていることは明白である。 したがって、この木像こそは忠政公の面影を残す唯一の史料であると、私は考えている。



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