2006-06-24

長可公の遺言状

テーマ:我が家の家史

熱田神宮を辞した後、まだ所用までは時間があったので名古屋市立博物館へ。

ここには、遠祖森長可の遺書とされている史料が保管されている。

初めて訪ねる私としては、それが展示されているかどうかは判らなかったものの、いずれは訪ねてみたいと思っていた場所であった。


特別展と常設展の共通券を購入し、一巡する。
ここの博物館は市立博物館ながらも、史料の管理は徹底しているようで、常設展で陳列されているほとんどは複製品。

 だが、複製品としってガックリするべからず。どれもが現物と見紛うばかりのものであり、どこかの博物館で観たが上質紙にコピーして展示しているというような粗末なものではない。その物をよく観て、解説を読み、隅に小さく「複製」と書いてあって、やられた・・・と感じさせられる。それくらい巧妙にできている。軸物はもちろん、書状一通に至るまで。


また、調査目的を持った特定の人に対しては、必要な手続きの上で現物を閲覧できることになっているらしい。門戸は開かれているというわけだ。 保安上はもちろんのこと、蛍光灯や湿度といった保存の観点からも理想的である。難点は唯一つ、こうした複製品の制作には精巧であるほどお金が掛かるということである。すべての博物館がこれを真似できるわけでは無いだろう。名古屋市は尾張大納言のお膝元だけあってこうした方面への予算は惜しまないと見える。素晴らしいことだ。


さて、残念ながら私の目当てとしていた史料は展示されていなかった。

一巡した後、学芸員に相談すると別室に通されて、遺言状の現物に対面する機会を与えてくださった。 そしてこの博物館に収蔵された経緯などを知ることができた。
事前に連絡もせず、飛び込みできていたにもかかわらず、大変ご丁寧な対応をしてくださった。私自身、ちょっとしたご質問程度のつもりだったのだが、普通ならば適当に門前払いである。


この史料は当時森家の当主であった森長可が、小牧長久手の戦いに参陣するため自信の万が一に備えて、豊臣秀吉の家臣、尾藤甚右衛門に宛てて書き記したものとされる。日付は3月26日、長可は翌月9日に戦死していることから、わずか2週間前に書いた事になる。


内容は、自分の財産処分と、近親の身の振り方について。 自分の手元に無く、預けた先のことまで書いてある。そして、自身の後釜についても言及している。
蘭丸ら3人の弟を本能寺で亡くし、長可が討死した後、森家の当主となるのは、13歳の千丸(後の忠政公)しかいなかった。秀吉の部下である尾藤に、この千丸が秀吉に仕官できるようにお願いした経緯を感じられる。

しかし、遺言状の中には

「せん、こゝもとあとつぎ候事、いやにて候」

と掛かれており、多くの史学者はこれを忠政が跡目を継ぐことを拒んでいると解釈している。文面の最期でも重ねて断りを書いており、どうしても弟に跡目を継がせたくなかったらしい。なぜ、長可はここまでして実弟の相続を拒んだのか。

 単に弟と仲が悪かったというわけではない。 長可が味わってきた苦労を、愛弟にさせたくなかったのであろう、と私は解釈している。父可成は苦境の中で悲劇の最期を遂げており、さらに今又自分も父と同じような境遇で死地に赴くことを脳裏に描いていたのだろう。父や自分と同じような目に、唯一の弟にさせたくないと思うのも兄としての情けであろう。


そして、謎の女性、「おこう」の身の振りも指示している。

「おこう事、京の町人に御とらせ候べく候。薬師のやうなる人に御しつけ候べく候」
つまり、京都の医師に嫁げと書いてある。
だが、この「おこう」が誰であるか判っていない。
江戸時代に書かれた系譜類にも彼女の名前は出てこない。

自分の妻や側室だったらこのような指示は出さないだろう。これを一人娘と解釈する史学者が多い。また、これを根拠として長可の直系子孫を称するお宅もあるようだ。だが、私は長可年齢(28歳)を考えれば一人娘くらいいてもおかしくないと考えている。 その娘を思うばかりに、戦災も置きにくいであろう京都で、戦乱とは縁のない医師に嫁げというのは理解ができる。

系譜類は江戸時代になって長可の弟である忠政公らが幕府に提出するために作成された(寛永諸系図傳)ものであり、兄の子女までを詳細に記載する必要性がほとんど無かったのかもしれない。また側室の子「庶子」であるならば、系譜に書かれることはあまりない。


最後に、恐ろしい記述も書かれている。


「十まんに一つ、百万に一つ、総負けになり候はゞ、みなみな火をかけ候て、御死に候べく候」


万が一にのときは、火を放って一家討死しろと指示している。

後から考えると、小牧長久手に参陣した長可の戦況はあまり芳しいものではなかった。秀吉に懇願されて仕方なく駆けつけたという事情からしても死を覚悟していたことが察せられる。そんな時にこの遺言状を書いていることから、「長可は既に正気では無かった」と解釈している史学者もどきもいる。
幾らなんでも、これは乱暴すぎるわけで、これは当時の武将たるものの意気込みとして解釈するべきだろう。もう一つは、これを秀吉の家臣に当てている書状ということを考えなくてはならない。 秀吉に忠節を誓っているのだから、間違っても二心を起こさないようにと、「形式的に」家族に命じている姿も考えられる。

受け取った尾藤や、秀吉がこれを読んだとき、決して悪い気はしないはずである。


ちなみに、根本的なところではあるのだが、この史料の名前は「森長可遺言状(案)」であり、現物の謄写(=案)と考えられている。
本人の下書きかもしれないが、残念ながら他者による書き写しの可能性が高い史料でもある。


 名古屋市立博物館には、森長可遺言状(案)のほか、林家覚書や林道休画像などが保管されている。林家は森家の外戚で森長可や蘭丸、忠政の母である妙向尼の実家だ。林家のその後については、以前少し書いたことがあるが、江戸時代初期まで森家の重臣として活躍している。
今回は失礼な飛び込み客を演じた上、本来業務のスケジュールもあって、遺言状の拝見のみで辞してきた。


長可が長久手において額に銃弾を受けて戦死したとき、敵方の将・徳川家康は安堵して次のように語ったという。


「鬼武蔵(長可)一人討つは、1000人の兵を討つに等しい。」


敵の言葉とはいえ、あまりにも誉れ高いコメントである。
不意の最期であったとはいえ、泉下の長可公もさぞかし成仏したことであろう。

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