2006-06-20

森長成公忌

テーマ:我が家の家史

本日は、美作津山藩4代藩主、森長成公のご命日である。今から遡ること312年前の1694年6月20日。永い間患っていた結核の病により、江戸藩邸において死去した。享年27歳。


長成について語る前に、まずはその父、森忠継の話からはじめなくてはならない。
長成は、2代藩主森長継の長男、森忠継の長男として江戸に生まれた。長成が生まれた当時、父忠継はそのまた父長継の継嗣として江戸藩邸内に屋敷を構え、老いた父に代わって政務を執ることもしばしばであった。 忠継は冷静沈着で情けも厚く、さらに容姿も美しかったことから、類稀なる美男子という評があったという。そして多くの家臣からも慕われ、地道に3代藩主への足固めをしていたのだった。

だが、不幸は突然に起こる。


延宝2年(1674)正月、父と共に国許へ帰っていた津山で、忠継は俄に風邪を引いてしまった。それでも最初は軽い風邪だと思っていたのが、病から約1ヶ月であっけなく病死してしまった。それもわずか38歳で。この時、長成は僅か3歳だった。


忠継の臨終に際して、長継は自分が長く在位したために家督を譲れなかったことを忠継に詫び、その息子である長成には、なんとしてでも家督を相続させると誓った。忠継はこれを聞いて俄に微笑み、そして旅立ったという。

これは古文書の一伝記に過ぎないのだが、有望な息子に先立たれた父親の感情をよく表現しており、長継の心境としては間違っていないだろう。


忠継の死から1ヵ月半後、江戸に参勤した長継は隠居を決意し、次男の長武に家督を譲ること幕府に申請した。だが、忠継との遺言は守られた。3歳の万右衛門(長成)が17歳になるまでの期間限定で長武に家督を譲ったのである。これには事情があった。


大名家の家督相続は、原則として前藩主に縁のある男子であれば相続はできる。だが、未成年の藩主が死去した場合、物理的に嫡子は存在しないことから、家督相続の一切は認められないのである。子供の死亡率が現代より非常に高かった江戸時代において、幼児を藩主に就かせるのは危険だった。また幼君ということで、家臣間で主導権争いも起きかねない。それはお家騒動の元でもある。



だが幸いにも長継は子宝に恵まれ、忠継のほかに6人もの男子がいた。このうちの誰かに一時的に相続させ、成年に達したら家督を譲らせるという約定をつけさせたのである。


兄・忠継の急死によって思いがけず藩主の座が回ってきた長武は、15年という限定期間の間に、自分の立場を確立しておこうと、様々な活動を繰り広げる。それは家臣や領民から非難の的にもされたのだが、彼のこうした行動が反動となり、未来の藩主・万右衛門に期待が一身に注がれたのである。


 貞享3年(1686)17歳になった万右衛門は、元服して長成と名前を改め、叔父・長武から家督を譲り受けた。 しかし、長武の悪政に苦しめられていた家臣はそのまま長成の藩政を補佐する立場となり、それは前藩主に対する隠居料にまで及んだ。


長武の2人の弟、長俊と長治には領土付きの扶持が与えられ、分家大名として独立していた。これらを認めたのは長武自身、だから自分も隠居後はそのような立場になれると思っていたのだ。 しかし、長成は長武の悪政ぶりを理由に領地を与えず、毎年2万石分の米俵を支給することで隠居料としてしまった。襲位したばかりで右も左も知らない長成が決断したというよりは、側近がこうした助言を与えていたのだろう。


領地で1万石以上を食む武士は大名として江戸城に参勤することが許された。
しかし、1万石を越えていても領地が無い武士は大名とは認められなかったのである。
この事が原因で、以後長成と長武は叔父・甥の関係でありながらも険悪化していくのである。詳細は、5月18日の記述・森長武公忌 を参照されたい。


長武との確執はさておき、様々な方面から厚い期待と視線が送られていた長成は、英才教育を受け、父が成し得なかった将来の名君として地道に帝王学を身に着けていく。


津山藩執権・長尾隼人には絶大な信頼を置き、美作一円の郷土史を取りまとめることを指示、長尾は学者を動員して「作陽誌」を編纂した。美作国を東西に二分し、西側6郡についての地誌は完成したが、東側については遂に完成を見なかった。(後世になって東作誌が編纂され、東側も補われた)これらの史料は美作地方の郷土史料として今なお語り継がれている。


長成の高祖父で、藩祖である森忠政公が津山城の築城候補地として城館を建設しかけた院庄(いんのしょう)では、鳥羽に流される後醍醐天皇がこの地を通過した故事を伝えようと、石碑を建てさせた。これも長尾が担当している。


2代藩主長継が次々に建立した華麗な寺社や、3代長武が自身の足固めのために幕閣にばらまいた金銭のために、18万石を誇るさすがの藩財政をしても、明らかに疲弊していた。しかしながら、長成はこうした方面への出費を極力節約し、その労力を文化事業面に向けた。学者を集めて編纂物を作らせたり、石工に石碑を立てさせることくらい、寺社を建立したり、大饗宴を催すことを考えれば安いものだろう。


だが、そうした節約もまったく効を成さなかった。


かねてより確執のあった前藩主・長武が政権を取り戻そうと目論んで、幕閣に長成の藩政振りを批判し、節約していることを挙げて財を貯めているとも吹聴する。

外様大名に力を持たせないように神経を注いでいる幕閣の役人が、お金を貯めている外様大名がいると聞いたら、どう考えるだろう。 その金銭を出費させようと、儀式の饗応役や、城の修築や建築のお手伝いを命じるのだ。 お手伝いといっても名ばかりで、主導となるのは譜代藩であり、外様藩はその背後で金銭的バックアップをさせられることがほとんどである。そして森家に命じられた「お手伝い」は、犬小屋つくりだった。


犬小屋というよりは、犬屋敷といったほうが良いかもしれない。
時は5代将軍、徳川綱吉の治世である。犬公方とあだ名されたこの将軍は、江戸市中に徘徊する野良犬を一箇所に集めて世話をしようと考えたのである。そのための収容小屋を作るのが森家に与えられた任務だった。現在の東京・中野駅一帯がその場所に指定され、15万匹もの犬を収容する大屋敷を僅か2ヶ月で完成させた。中野には昔、囲町という地名があった。これは「犬を囲う」という由来からきているもので、今は中野駅近くに「囲町公園」の名が唯一の名残である。
入り口に「犬を入れないでください」と書いてあるのが面白い。


津山藩の財政はもはや限界だった。大坂や江戸で莫大な借金を作り、この返済は後の津山藩改易後も続いている。 長成自身も病気がちで、犬小屋が完成すると国許に帰り、有馬や奥津の温泉で湯治を繰り返しながら治癒に励んでいた。


そして国許で治癒している間に、叔父の長武も江戸で亡くなり、その取り巻きの奸臣(かんしん=悪い家臣)も取り除かれ、長武の家督も本家に吸収させられるなど、藩政に対する弊害も少しずつ無くなっていくかのように見えた。問題は藩主の病だけである。


だが、長成の病は簡単には治らず、一進一退を繰り返し、重臣は何度かに渡って江戸への参勤を遅らせる手紙を書いていた。そして、些か病状が良くなったところを見計らって、3月13日津山を出発。病人であることを考え、通常よりも長い日程で江戸へ向かい、4月3日に到着した。 


 だが、江戸に到着してまもなく、病がぶり返して再び病床につく。4月の半ばになると飛脚が江戸と津山を往来するようになる。この頃には家臣もいよいよ万が一を覚悟しなくてはならないときが来ていた。 一度幕府に届けたら中々取り消しにくい手続き、養子縁組である。この時点で、周囲が長成の嫡子誕生をほとんど期待していないことがわかる。


長成には父のほかに6人の叔父がいたことは既に書いた。だが、長武は前年に死去し、その下の兄、長俊と長治は独立して大名となっている。その下、長基は別の理由で蟄居しており、長直と衆利(あつとし)の2名だけが候補者だった。


 しかし、この候補者の中でも、圧倒的に有望視されたのは末弟の衆利。今は森家の家臣筋である関家に養子となっているが、津山藩の家老を勤めており、犬小屋の造営にも深く関与していた。そのため幕府からの信頼も厚く、彼を長成の養子にすることに決めた。


 ところが、衆利もまた気性の激しい性格を持っていたらしい。様々な資料に目を通すと、短気だったとも、精神的な病もあったとか、いろいろ書かれている。その詳細は別の機会に譲るが、これが津山藩存続に大きな影を落とすことになる。


元禄10年4月、津山にいた衆利の元に養子縁組決定、すなわち新藩主就任要請の書状が届く。予期していなかった事態にうろたえる衆利。重臣から説得を受けたとも、病を理由に辞退を考えていたとも言われているが、通知から2ヵ月後の6月20日、藩主長成は死去、数日後には津山にもその悲報が届いた。


津山に悲報が届いた数日後、衆利の一行は江戸へ向かって出発。しかし衆利は参勤途中の桑名で家臣相手に刃傷事件を起こしてしまい、これを理由に長成の家督は相続されないまま幕府に収公される。

ここに津山藩主森家の家名は永久に武鑑から消えることとなった。


後に分家支藩(三日月藩森家・新見藩関家)の存続と、存命中の森長継に対して2万石の隠居料(赤穂藩森家)が与えられ、かろうじて別の形で森の家名は残されたが、外様大藩の夢は潰えたまま、明治の維新をむかえたのである。


長成自身、自らの死が起因となってこのような事態を招いたことは甚だ不本意なことであろうが、周囲から途絶えることの無い期待と注目を注がれ、日々そのプレッシャーと戦いながら藩政を執り続けたことは、少なからず病の種となったではないだろうか。


長成の棺は東京・渋谷の祥雲寺に葬られ、
雄峯院殿賢仲義英大居士
と諡号(しごう)された。


現在同地に墓所は無いが、国許の菩提所・津山本源寺には今も位牌が祭られている。後に長継の隠居料を相続した森長直の家臣、松岡棟房が寄進したもので、森家が津山を去った後に祀られたと考えられる。


僅か3歳にして国主の位を継ぐことを定められ、先代藩主によって傾いた財政と荒んでしまった領民の心を取り戻すことに奔走し、その責を一背に受けたまま、業半ばにして世を去らなくてはならなかったこの若き名君を、遠き末葉に生きる者として私はこれからも敬愛し続けるであろう。

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コメント

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1 ■小説やドラマの題材に

なりそうな、エピソードですね。
外様大名の過酷な境遇と、後継者問題に苦しめられた藩の人々の思いが良く伝わってきます。これからも時々拝見させていただきます。

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