2006-06-02

本能寺の変

テーマ:我が家の家史

今からさかのぼること424年前の今朝未明、京都にて日本史上に名を残す一大クーデターが発生した。


世に言う、「本能寺の変」である。


今で言う「パワーハラスメント」を受けたとされる明智光秀が、中国征伐に向かうのを装って京都に攻め入り、少数の側近で固めていたに過ぎない、天下人・織田信長を火攻めにしたのである。


結局焼け跡からは信長の遺骸は見つからなかったことから、信長が逃げ延びたとする説もあるようだが、その話題は別の日に譲るとして、今日は信長の命日であるとともに、私の遠祖・森蘭丸、坊丸、力丸三兄弟の命日でもある。彼らもまた信長を警護しつつ、明智勢に討たれた人物である。


今ここで「遠祖」と書いたが、私は彼ら3兄弟の直系子孫ではない。現在、この森家につながる子孫の多くは、3兄弟の弟、森千丸(後の忠政)に由来するところが大きい。系譜の上では私自身もその一人ということになっている。


 森家の家書に「森家先代実録」というものがある。江戸時代に赤穂藩主森家によって編纂された家史であり、現代における森家研究のバイブル的存在となっている。 原本を中心にして、謄写本が3箇所にある。

そのほか、「森氏雑話」、「森家盛衰記」などなど、関連する史料も大変多い。


だが、そうした史料をすべて総合してみれば、その事実には矛盾も多く現れてくる。したがって、こうした史料すべてが史実ではないということを我々後世に生きるものとしては覚悟しておく必要がある。


その上で、これらの史料の中から、本能寺にまつわるエピソードを挙げてみたい。


それは本能寺の変の前日のこと。
蘭丸が京都・油小路の銭湯で、町人の世間話の中から、とんでもない噂話を耳にした。それは、過日に信長が中国攻めを命じたはずの明智光秀が、軍勢を引き連れて京都に向かっているという話だった。兵法にも噂を用いる戦略があるように、それを鵜呑みにするわけにはいかない。そこで蘭丸は供をしていた部下の者に噂の出所を探させるのだが、天下の大都市である京都の町で簡単には見つからない。引き続き部下に捜索を命じて、自身は本能寺へ引き返り、「光秀の謀反疑惑」について一報を信長に言上した。 しかし、信長はこの蘭丸の言を真面目に受け取らなかったのである。


信長が蘭丸の忠言を信じなかったのには理由がある。
光秀の城・近江宇佐山城は、かつては蘭丸の父・森可成の守る城だった。
そのため蘭丸はこの城を所望していたのだが、信長は蘭丸が若いことを理由に、これを認めなかったのだという。「いずれ宇佐山の城は蘭丸にやるから」という信長の返答もあったのだとか。
したがって、信長は「蘭丸が光秀を陥れようとするための中傷」と受け取ったのである。


そして6月2日の夜明けを迎えた。


皮肉なことに蘭丸が報告した情報は現実のものとなり、信長はその判断ミスによって自分の命を縮める結果となったのである。


 史料に見るこの記述は、蘭丸が信長に対して、私情をも挟まない忠実な家臣であるということを証明させるエピソードとして挙げられており、そうしたシチュエーションでの記述に一筋の脚色も入っていないと断言することはできない。しかしながら、当時の蘭丸が置かれていた政治的立場や、信長を取り巻く政情を鑑みるに、大筋では事実としても受け取っても良いのではないかと私は考える。また、当時の武将が京都のような逗留先で街中の銭湯を利用することは珍しいことではなく、さらに情報を集めることを目的とした場合には、銭湯のような場所こそ、有意義な情報集積所なのかもしれない。


このようにして起こった本能寺の変であるが、もう1つ興味深い話がある。


先述の宇佐山城を守っていた森可成には、6人の男子がいた。しかしながら、1人を除いてすべてが討ち死にをしている壮絶な家系でもあった。そして可成自身も宇佐山城下で浅井・朝倉勢を前に非業の討死を遂げている。

長男・可隆は姉川の戦いで討死。 しかも初陣だったという。

二男・長可は本能寺の変後も活躍をしているが、天正12年の小牧長久手の戦いで徳川勢の銃弾に倒れる。

そして三男・蘭丸、四男・坊丸、五男・力丸は先述のとおり本能寺で討死。


そして残る一人は六男の千丸なのだが、本能寺の変のとき、彼は13歳。 最初は上の3人の兄とともに信長の小姓として仕えていたという。

しかし、小姓仲間との間でトラブルを起こし、信長によって母の元に返されていた。

それも本能寺の変の3ヶ月前の出来事である。


 千丸がトラブルを起こしたという相手は、梁田氏という先輩小姓だった。 史料によれば、千丸は自分を幼児扱いした梁田氏に腹を立てて、扇子で梁田氏を殴ったのだという。つまりは彼との相性が悪かったために小姓を解雇されたわけである。


 梁田氏のお陰で、千丸は本能寺の凶変を免れ、信長の遺志を受け継いだ秀吉によって天下が統一されると、豊臣家譜代の家臣として立身出世を遂げ、さらに関が原や大坂の陣では徳川方について勝利軍となり、ついには美作国主18万石の大大名にまで出世を遂げたのである。この千丸こそ、後の森忠政公その人である。


歴史に「もしも」は禁句であるが、あえて挙げてみれば


もしも、

信長が蘭丸の忠言を受け入れていたらどうであろうか。

これについては、私はどうにもならなかったと思う。何しろ史料によれば蘭丸が忠言したのは前夜だという。

近くに逗留していた信忠の軍勢と合併して光秀の軍勢を出迎えても、時間稼ぎにしかならなかったであろうし、そもそも光秀自身もそこまでは計算済だっただろう。また、信長が側近だけで京都を脱出するというのも、およそ天下人を目指す人物の取る行動ではないだろう。信長のプライド的にもその選択肢は無かったと考える。


では、もしも、

梁田氏が居なかったら、または千丸と友好的関係だったら・・・。

それは挙げるべくも無く、行き着く先は本能寺の攻防戦である。そうなっていれば、先述の三兄弟とともに「四兄弟」として信長に殉じることになり、千丸の子孫である赤穂・三日月の両藩主は勿論のこと、必然的に今の私もここに居ないことになる。


これは後世に生きている者だけが感じられることではあるが、なんとも歴史の偶然とは面白いものである。


本能寺の変後、勝利した明智の軍勢によって、信長の遺骸探しが行われたが、結局彼を見つけることはできなかったという。そして勝利したはずの光秀本人も、信長の死を確認できないことを大いに怯えたという。


いくつかの史料には、信長の命を受けた蘭丸ら小姓達が信長の首を爆炎する火の中に投じて完全に焼き尽くさせたとも、畳をかぶせて同じく焼き尽くさせたとも言われる。いずれにしても後になって信長が姿を現していない以上、彼は本能寺で死んだと見るべきであり、遺骸隠匿については小姓達が一役買っていたと考えても何ら不自然な話ではない。しかし、真相を知るものは既に故人であり、その真実は永久に不明である。


 ちなみに蘭丸ら三兄弟の遺骸は発見されて、一説には明智軍によって河原で晒し首になったとも言われるが、京都市上京区の蓮台山阿弥陀寺に葬られた。実際の墓はこの阿弥陀寺にあるが、大徳寺や領国の津山、生国の兼山の寺院でも祀られており、寺院によって戒名も異なる。代表的なものを以下に列記し、本日に因んで遠き祖先の供養としたい。


森蘭丸。享年18歳(伝)

月江宗春居士(京都・阿弥陀寺の霊牌)

正翁定是禅定門(京都・大徳寺三玄院の過去帳)
瑞桂院殿鳳山知賢居士(岐阜・可成寺の霊牌)


森坊丸。享年17歳

祐月宗春信士(阿弥陀寺の霊牌)

睦月宗心禅定門(京都・大徳寺三玄院の過去帳)

夏山清涼信士(岐阜・可成寺の霊牌)


森力丸。享年15歳

花月宗泉信士(阿弥陀寺の霊牌)

一渓宗榮禅定門(京都・大徳寺三玄院の過去帳)

法雲宗心信士(津山・本源寺の霊牌)










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