前回述べたように日本の武士階層は分散社会を形成した。

中世ヨーロッパの領主達も分散社会を形成した。彼らも領内での支配権を独占した。自治について日本よりもっと明確で、領主どうしの(原則論としての)対等性がはっきりしていた。

だから、複数の王に仕える領主が珍しくなかった。複数の会社と雇用契約を結ぶフリーランスのようなものだ。(註)

これに対してシナ社会は、理念としてずっと中央集権的な行き方を選択した。そこには「儒生」と呼ばれる社会階層が形成され重要な役割を果たした。

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註: "Freelance"という言葉それ自体、この時代のそういう領主たちを含む傭兵から来ている。「自由な槍」は契約次第で色々な雇用主に仕えた。この影響は長く残り、ヨーロッパでは傭兵が広く採用されてきた歴史がある。現在でもフランス外人部隊、バチカンのスイス人衛兵などに痕跡が残っている。

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「各単位は独立自営」

鎌倉時代の御家人はまさしくこういう独立自営土地所有者だった。それが武装していた。もともと武士はそういう社会階層だった。

鎌倉時代には「関東御成敗式目」という法律があった。これは原則として鎌倉殿の部下=御家人に対して適用された法律だった。(一部、寺社などにも適用された)

今日の法律をイメージするとまったく違う。内容の大半は

・相続の基準

・地界の区分基準

に関するもの。当時御家人が鎌倉殿に司法判断を仰ぐことと言えば、

・一族の中で相続争いが起こったときの裁定

・他の御家人との間で土地争いが起こったときの裁定

と、ほとんどこの2つだけだったわけだ。

言い換えると、これ以外のことは「わざわざ鎌倉殿に司法判断を仰ぐ必要は無かった」ということだ。

それは「その土地に地付きの御家人一族内では自治」という原則が貫徹していたからだ。(註)

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註: ずっと以前に、「日本的革命の哲学」(PHP出版刊、山本七平著)を紹介した。絶版だが、入手可能なら参照されたし。

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中世の日本とヨーロッパには、歴史上 "feudalism" と称される社会制度が登場した。

"Feudalism" は「封建制」と和訳される。この訳はやっかいだ。

漢語の「封建」は、周代(西周:BC770より前)のときに、周王族の血縁者などを華北の各地に「封じ」て、都市を運営させたことを元来指している。

19世紀にマルクス主義が資本主義より前の時代を押しなべて「封建時代」と認識してしまった。「古い考え、頭の固い考え方」をする人に対して「封建的だ」と言ったりするのは、この訳語の転用だろうと思う。

これらの「封建」と、ここで言う "feudalism" とは違う概念だ。

ここで言う "feudalism" とは、

・(もともとは土着の)土地所有者が

・その地域の領主として立法・行政・司法の権限を全て握って独立自営しており

・その独立自営の原則が法的に(成文法であろうが慣習法であろうが)認められている

という社会制度のことだ。

念のために述べておくと、「中国社会の超安定システム」の著者金・劉夫妻は、マルクス主義的な「封建」の定義を使っている。mattが上で述べていることを否定しているかというとそうではなく、金・劉夫妻は同書中で「西欧・日本の封建制と中国の封建制の違い」を述べている。一言で言うと、前者は割拠・分散社会で、後者は一体化社会・大一統社会だ、と述べている。

その違いは、ここでmattが書いているような(あるいはこれから書くような)ことだ。

1980年代前半の中共政権下で執筆した金・劉夫妻としては、マルクス主義に依拠しない論文は政治的に書けなかったのだろう。

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さて、官僚機構を編成駆使して、皇帝は社会を儒教イデオロギーに沿って編成していくことになる。

いかに皇帝個人が有能でも、一人では何もできない。部下に分業させ、各地域地域ごとに

(1)徴税とその前提となる戸籍・地籍の整備

(2)治安の維持

(3)民間における(刑事・民事上の)紛争の処理 = 裁判

(4)治水・灌漑設備の維持

などを実施していく必要がある。

ちなみに、こういう行政・司法の機能は必ずしも「官僚機構」がやらなければならないわけではない。

全世界的に見ると、官僚機構が貧弱だった社会は珍しくない。中世の日本なんかそうだ。

伝統シナ社会の基本構造・理念はこういうことだ。

(a)この世の秩序は「天」によって定められている。

(b)「天」の意志「天意」を「天子」が受けてこの世を統治する。

(c)「天意」に従う統治を実現する手段として、「天子」は官僚機構を編成し駆使して社会を統治する。

(d)「天子」は一人の人物(男性)である。

「天子」は「皇帝」と考えてよい。

「天意に基づくこの世の秩序」を実施する基準が「儒教」と総称されている。(註)

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註: 上に書いた考え方には、「天子はシナに在する」という重要な前提が、無条件に想定されている。こういうところにシナ歴代政権の外国に対する独善的な態度が起因しているのだが、そのことは当分は取り扱わない。

「中国社会の超安定システム」(原題:在歴史表象背後 - 対中国封建社会超穏定結構的探索、金観涛・劉青峰共著、1983年四川人民出版社刊、日本語訳は1987年研文社刊)

という本について、もう一つのブログが「もっとSinology」と称していた頃に書き始め、ずっと止めていた。

それを再開するとともに、もう一冊の興味深い本の紹介を併せて行おうと思う。

シナ史関連本を読んでいると、次から次へと政権が変わっていくことに気づく。「一治一乱循環の如し」という言葉を見たことがあるが、まさにそんな感じだ。

これは、その治乱興亡の背後にあるとされる一貫性、法則を探る企画だ。

「士」という社会階層はシナ伝統社会に特徴的な社会階層で、「儒教的教養を持っていること」がその基準になっていることは前述した。突き詰めていうと生まれは関係ないから、「世襲貴族」とは異なる。

「士」が社会の中から目立ってくるのは、かなり古い時代からだ。春秋戦国時代にその萌芽が見られる。秦漢帝国以後は、もっとも重要な社会階層となった。

伝統シナ君主制の強化が進むとともに次第に儒教が国家の教条として定着させられてきた。それとともに「士」も制度化されていき、「科挙」試験によって皇帝が選抜するようになっていった。

彼らは皇帝のためにどこへでも赴任した。

儒教イデオロギーに従って、

皇帝

官僚機構(士の集団)

庶民

の hierarchy をシナ中の土地で確立した。

広い中原の地をどこへでも赴任し、各赴任地で実質的に立法・行政・司法を任されていた。権力行使の際必ず儒教イデオロギーを参照し、それに沿うように統治を行った。

地主・自作農の家庭では、男の子が小さいときから官僚の選抜試験に合格するのを目指して勉強していた。

選抜試験の内容は、現代風に言うと、「哲学・政治学・文学・歴史(+宗教学)」だった。儒教的教養を備えているかどうかをテストする試験だったからだ。ただし儒教的教養をつむためには故事を学ぶ必要があるので結果的に歴史学っぽい内容も含むし、詩文を書けることが重要視されてもいたので、文学的要素もあった。

文学と言っても、小説は重要視されていなかった。はっきり言うと、見下され差別されていたと言うべきだろう。儒教的価値観ではフィクションは重要視されていないからだ。詩は、伝統シナ社会では、志を述べるものなので、小説と異なりノンフィクション扱いだ。

小さい頃から受験勉強して、「天からこの世を託されたただ1人の皇帝(天子)が徳をもってこの世をあまねく支配する。男子たるもの皇帝に全力で仕え、経世済民に心を砕くべし」という考え方で世の中染まっていたわけだ。

もう一度整理すると、

儒教の教養を持っていることを基準に選抜された者が官僚機構を構成し、皇帝の指揮の下、統治に当たる。

基本構成(建前)は、

皇帝

官僚機構

一般庶民

というピラミッド構造。

官僚は主に地主出身者。(儒教的教養を積むためには普通経済的余裕が無いといけない)

皇帝と官僚が社会を調節し、社会の破綻を防止する。シナ伝統社会には、基本的にこの2つしか社会の破綻を防ぐ調節機構が無い。

儒教的教養を積み、政府に仕える人々を「士」というある種の社会階層を構成している人々としてとらえることができる。

「士」。「儒生」ともいう。日本の武士とは異質な人々(大陸側から見れば、武士の方が異質だが)。古い時代は大土地所有の世襲貴族から、10世紀以降科挙が社会的に定着してからは地主(ごく一部自作農階層出身者がいた)から、「士」と呼ばれる人材が供給された。

漢字を学び、儒教的教養を積み、詩を詠み、名山・大河に遊び、千里のはるかに師を求め、深山にこもって研鑽する人々。

大土地所有のゆえに出世したのではなく、儒教的教養のゆえに登用された。

一旦官僚として皇帝に登用されるや、天の下どこへでも皇帝の命令に従って赴任し、各地を皇帝の名の下に儒教的価値観に基づいて統治した。

そう、儒教的教養はシナの世界の内でなら、統一された共通の価値観だった。そしてそれを伝達する手段として全国共通の文字、漢字があった。これによって共通の価値観をどこへでも伝達することができ、地方に赴任した官吏-「士」から皇帝への報告も、その「士」の出身地・母国語と関係なく行うことができた。