胡と漢(84)

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当時の胡漢国際関係は大きく見るとこうなっていたと言える。

① モンゴル高原の覇権を、タタール部とオイラート部が東西に分かれて争っていた。

② 明はモンゴル高原の覇権を直接取りにいくことまではできなかったが、勢力下に置こうとしていた。

華北に拠点を置くシナ政権が胡漢関係における安全保障を追求する場合一般に言えることだが、シナ側は以下を目的とする。

優先順位1: モンゴル高原からの騎馬民部隊が直接農耕地帯まで攻撃してくるのを防ぐ。

優先順位2: 少なくとも、モンゴル高原が単一の政権の支配下に置かれてその勢力の矛先が南に向かわないよう、分裂状態を維持すること。

優先順位3: できれば、モンゴル高原を直接自らの支配下に組み入れること。

永楽帝は、思い切って3を指向したわけだ。

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胡と漢(83)

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永楽帝の親征は、1410年、1414年、1421年、1422年、1424年の5回行われた。

[最初の遠征]

一気にモンゴル高原奥深く(北京から北北西へ約1000kmくらい)まで入り込み、タタール部君主の中核部隊のいるところを攻撃した。タタール側は敗走した。永楽帝はそれ以上の追撃を諦め、北京へ帰還した。

敗走したタタール部は西へ移動した。その結果、モンゴル高原西部の山岳地帯にいたオイラート部と対峙することになった。

遠征から2年後の1412年、タタール部の君主オンジェトゥをオイラート部の君主マフムドが殺害に成功した。オンジェトゥの部下だったタタール部の有力者アルタイは脱出し、明に支援を求めて投降した。明はアルタイに王号を与えて自陣営に引き込んだ。

これがオイラートの対明敵対的態度を招いた。

[2回目の遠征]

オイラート部が明に対して敵対的な態度をとるようになったのを理由に、永楽帝は1414年に再び50万人を率いて親征した。

現在のウランバートル付近まで侵攻し、その地にいたオイラート部を撃破、マフムドは敗走した。

1回目と2回目の遠征を見ると、どちらも敵の首領を殺害或いは捕縛することに失敗している。そもそも敵の主力を壊滅できたわけではなかった。逃げられてしまっている。遊牧民だから、どこか特定の場所に帰らなければならないわけではない。家畜が草を食える限り、生活に困らない。時間をかければ勢力を立て直すことは可能だ。

叩きのめすのでなければ自陣営に引きずりこみたいところだが、そうできたわけでもない。

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胡と漢(82)

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永楽帝の最初の親征は西暦1410年に50万の兵力を動員して行われた。

50万だ。

皇帝が自ら遠征するのだから、臣下が率いる兵力より圧倒的に大きくなければ面子が立たない。

しかし50万人も出すとなると、補給は大変だ。

(80)で書いたように、まず水が要る。

食料も要る。

(80)では書かなかったが、燃料もいる。薪か石炭だ。

これらの補給を50万人分しなければならない。

50万人といっても、前線で戦闘する兵士ばかりではない。

50万人のうちのどのくらいなのか資料がないが、水と食料と燃料を運ぶ輜重部隊に相当な数が必要になる。

前線で戦闘する兵士だけでなく、こういった輜重部隊に所属する兵士たちも水と食料と燃料を消費する。

農耕民にとって草原地帯への遠征は、「農耕地帯から補給物資を前線に送り届けなければならない。その前線に補給物資を送り届ける輜重部隊にも補給物資を消費させながら」という活動を意味している。

(80)と(81)とここで書いたように、騎馬民は正反対だ。

家畜の乳が食料と水を兼ねている。その食料と水の供給源は、自力で歩いてくれる。

家畜の乳から作った(からからに乾いた)チーズは保存がきくので、戦場に携行できる。

最悪の場合、家畜の血を飲む。血も飲み水と食料を兼ねている。

炊事・暖房の燃料も家畜が供給してくれる。家畜の糞を彼らは拾い集めて火にくべる。草原地帯は乾燥しているので、騎馬民たちは糞をそのまま手で拾い火にくべている。

衣服や靴などの材料もかなりの程度家畜の皮革から採る。

動力付き補給装置を騎馬民は持っていることになる。

騎馬民、特に遊牧民にとって、どうしても(核家族の外部から)補給しなければならないものは、金属製品と茶葉くらいのものだ。

金属はベルトのバックルやナイフや鍋の材料だ。茶は、家畜の乳で煮出したりして飲む。遊牧民にとって茶はほとんど唯一の安定したビタミンC源で、これだけはどうしても農耕地帯から入手しなければならない農産物だ。

が、茶葉は保存がきくし軽い。あらかじめ貯えて戦場に携行すればよい。

騎馬民、特に遊牧民は身軽で、補給が簡単だということが言える。農耕民の軍事活動との差は大きい。

そういう集団と、50万の農耕民主体の集団とが、草原で戦ったらどうなるか。

1410年に始まり1424年まで続いた永楽帝の5回の遠征を見ていこう。

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胡と漢(81)

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騎馬民政権に対する農耕民政権の軍事的劣勢の背景としては、以前から指摘している「機動力」も大きい要素だ。

騎馬民の軍隊は、草原の騎馬戦力が敵でも、対等の機動力を発揮して戦える。

機動力(馬)も疲弊するが、替え馬は騎馬民社会にはたくさんいる。簡単に取り替えられる。

騎馬民は小さいときから馬に乗って育つから、「馬をあやつれる戦士」も豊富に手に入る。

農耕民社会の軍隊は、馬の頭数をそろえることそれ自体が困難だ。家畜の大半は農業生産のためのものなので、家畜を徴発しすぎると生産力の低下を招いてしまう。

農村で農業生産用に飼育されている家畜は、人を乗せて駆け回るように訓練されていない。

社会全体として騎馬の習慣に乏しいから、馬に乗って戦場を迅速に移動できる戦士を大量に確保するのも難しい。

騎馬民がシナに本拠地を置く政権(隋唐・元・清など)を打ち立てたときは草原地帯へ簡単に勢力圏を拡大できたのに、農耕社会出身者が樹立したシナ政権(宋・明など)が草原地帯の騎馬民勢力に苦戦することが多いのは、(80)とこの(81)で説明しているような背景があるためだ。

胡と漢(80)

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細かい話ばかりしてきた。少し視点を変えよう。

永楽帝はその生涯で5回モンゴル高原へ自ら遠征している。

永楽帝の治世の後は、モンゴル高原へ遠征する明朝皇帝は現れなかった。いや、正確に言うと次代の宣徳帝は一度出撃した。が、比較にならない小規模で、本気でなかったことは明白だ。

明朝は「農耕社会出身者による最後の伝統シナ社会政権」だ。明の後は清だが、清はマンチュリア出身の騎馬民による政権だ。だから、モンゴル高原やチベット高原、トルキスタンにまで軍事力の展開を比較的簡単に行っている。

明はそうではない。

昔の隋唐政権とも違う。隋唐政権は五胡出身者が中核を構成した政権だった。だから、モンゴル高原やマンチュリアへ影響力を及ぼすのはそれほど難しくなかった。

結局、ライフスタイルの問題があるということだ。

馬に乗って育った人達が編成した軍隊は、草原地帯(半乾燥地帯)を簡単に移動できる。通常の生活どおり、家畜を連れて移動すればよい。

遠征しても補給に困らない、ということだ。

家畜をつれて移動する、と書いた。放牧・遊牧生活というのは、「歩き回る食料に囲まれる環境を自ら作り出し、その中に住み込む」ライフスタイルだ。

食料が自力で歩いたり走ったりしてくれる。その食料は飲み物(乳)も供給してくれる。

農耕社会の軍隊が移動する場合は、穀物を車に載せて運ばなければならない。草原地帯は水が簡単には得られないから、水も運ばなければならない。

補給が難しい、ということだ。

胡と漢(79)

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永楽帝が政権を奪取した頃、モンゴル高原では政権争いが起こっていた。

故元(旧元朝政権)が衰退し、代わってモンゴル高原東部ではタタール部、西部ではオイラート部が、モンゴル高原での主導権を争いつつあった。

永楽帝はこれに目をつけ、タタール部とオイラート部の族長を「王」に封じた。一種の勢力均衡策だ。

また、それまですでに支配下におさめていた遼東半島(遼寧省南部の半島。大連などがある)までの地に軍事施設を配置した。

遊牧民政権が大型化しない隙に、西の方現在の新疆にまでも軍事施設を設置した。

ところが、永楽帝が即位して7年目に、タタール部へ派遣した明の使者が捕らえられ殺害される事件が起こった。

永楽帝は10万規模の部隊をモンゴル高原に派遣した。

が、タタールを深追いして高原(草原)深く入り込んでしまった後に壊滅させられた。

永楽帝は自ら遠征することにした。

胡と漢(78)

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クーデターに成功した永楽帝はしばらく南京に滞在していたが、南京に従前からいた臣下達の批判が強いのを嫌って首都を北平に移した。都市名も北京と改称した。

南京で批判が強かったのは、彼があからさまに「正統な君主から位を暴力で奪い取った」からだ。

儒教には建前がある。「王者は徳を以って統治する」という建前だ。

今の日本語では意味が変わっているが、元々儒教では、暴力(実力)で権力を掌握して統治する者は「覇者」と呼ばれる。儒教では「覇者」は正統な君主ではないことになっている。

だから、革命(王朝の交代)に成功して政権を新たに取った者は、「前の王朝は徳を喪った。新君主には徳がある」と主張することになる。

或いは、前の王朝から「徳がある者に支配権を譲り渡す」という建前の「禅譲」をするのが望ましい、ということになる。

永楽帝の場合、あからさまなクーデターだったので、どうしても批判が出てきてしまう。

しかし、北京に遷都するということは、農耕社会の政治の中心を牧畜社会との境界線付近に置くことを意味する。

これ以後、明朝は安全保障上重大な問題を抱えることになった。

胡と漢(77)

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その後20年以上は、モンゴル政権と明との間にさしたる衝突は無かった。

明側は防衛一方で、北方に対しては交易を統制するようになった。自由に交易することを認めず許可制とするようになった。(註)

20年以上経過した1398年、明の建国者(太祖)は死亡した。

その孫(皇太孫)が即位し(建文帝)、北方の各地に分封されていた叔父たち(建国者太祖の息子たち)との間に緊張が高まった。

1402年、北平に駐屯していた太祖の四男は兵を挙げ首都南京を攻撃、建文帝を倒して帝位を奪った(永楽帝)。

クーデターだ。

クーデター側の部隊には、北方騎馬民出身者が少なからず混じっていたらしい。

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註: これは海上貿易も同様

胡と漢(76)

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当時の明皇帝は、王朝創始者の朱元璋(太祖)だった。彼は息子たちを北方の諸地域に「分封」した。(註)

「分封」とは、諸地域に常駐させ、その地域の統治を任せることである。もちろん、最終的な決定権が皇帝にあることは変わらない。

息子9名が北方の任地を任された。任地9箇所は華北の交通の要衝と農耕社会-遊牧社会の境界付近とだった。

・北平(現在の北京)

・西安

・太原(山西省の省都)

・大同(山西省北部の産炭地)

・大同の北東200km付近の地(宣府)

・現在の固原付近(陝西省と寧夏回族自治区との境界付近で寧夏側)

・現在の酒泉(甘粛省)

・現在の河北省北東部と遼寧省に一箇所ずつ

息子たちは安全保障を任され、軍事力を与えられた。

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註: 朱元璋が即位して三年目に形式的に「分封」し始め、その八年後から実際に任地に常駐させ始めた。

胡と漢(75)

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これまで述べてきたモンゴルと明の戦いは、現在の河北・山西・陝西の各省と内蒙古・寧夏の各民族自治区にまたがっている。

明建国直後のこの時期、明の首都は南京にあった。現在の北京は「北平」と呼ばれていた。

明皇帝(太祖朱元璋)は、腹心を北平に常駐させた。

そして、現在の河北省北部の山岳地帯および山西省北端に合計102箇所の塞(とりで)を築き、防御陣地線を敷いた。

これ以後、明側はモンゴル高原へ打って出ることを止めた。(註)

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註: 部隊が打って出た報告を聞いた皇帝が、防御線まで引き返すよう命令した例がある。