胡と漢(64)

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副題:崩壊へ(3)

白蓮教の乱以後「紅巾の乱」という反乱が起こり(1355年~)、長江中下流域でいくつもの勢力が成長した(註1)。

現在の江蘇省南部に根を張っていた最も有力な地方勢力張士誠をモンゴルは大部隊で攻撃した。(註2)

ところが作戦中に、首都にいた皇帝(大カン)トゴン・テムルは指揮官トクトを捕縛させてしまった(註3)。これでモンゴル部隊は機能しなくなってしまい、撤退した。

張士誠は長江中下流域で最大の軍閥だったが、これが中途半端ながら叩かれることにより、その周囲にいた中小軍閥の一人朱元璋が勢力を拡大した。

朱元璋はそのまま長江中下流域を制圧し、1368年南京で皇帝を称した。

各地の勢力を糾合した朱元璋は、北方へ軍を派遣した。

大都のモンゴル政権は、モンゴル高原やトルキスタン等の諸勢力に援軍を求めたが、誰も動かなかった。そこで、トゴン・テムルは北京地区を脱して北上し、モンゴル高原に移動した(註4)。

これでいわゆる「元朝」は終わり、モンゴルがユーラシア全域における覇権国となっていた状態も終わった。(註5)

では次回から、この「胡と漢」シリーズが本来目的としている作業に入ろう。

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註1: 経済の中心長江中下流域を喪ったため、モンゴル政権は商業活動に課される売上税と塩の専売収入の多くを喪うことになった。また、穀物を中心とするこの地の物産が大都へ輸送されなくなってしまった。

註2: 狙いはやはり、註1に書いた経済的利権の確保にあったようだ。

註3: 与えた部隊が大規模だったためトゴン・テムルがトクトにクーデターを起こされると恐れたためという。

註4: 個人的な意見だが、注意しておかねばならないことに、遊牧民にとって「退却は戦略・戦術の一つに過ぎない」ということがある。反攻するチャンスをうかがい、また後で攻めて奪回すればよいからだ。

それは匈奴以来彼らが何度もやってきたことだ。彼らは本来一箇所に定住しているわけではない。北京を放棄したこともモンゴル側にとっては「長い戦争における一局面」と認識していた可能性はあると思う。

ただ、matt個人としては、政治的・経済的・軍事的にみて、北京地区を喪ったのはモンゴル側にとって非常に痛かったと考える。

註5: この後もモンゴルの後継者たちはユーラシア各地で有力な勢力であり続けた。その話を綴っても面白いが、「胡と漢」シリーズの目的から外れてしまうので、ここでは扱わない。

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FT.com 2月27日付記事 "Taiwan's Chen scraps unification pledges"
http://news.ft.com/cms/s/83573aa2-a779-11da-85bc-0000779e2340.html

李登輝以来の進展で、ようやくここまで漕ぎつけつつある。

もっとも重要なのは「台湾は中国ではない」と宣言することだと考えるが、まだ時間がかかるだろう。

しかし、五輪まであと2年強となった今、そんなに時間がなくなってきつつもある。アメリカが待てと言っても、待てないかもしれない。

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胡と漢(63)

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副題: 崩壊へ(2)

このブログはSinologyなので、東アジアにおけるモンゴル政権の崩壊に焦点を当てる。

クビライは、政権を奪取した1264年から約30年後の1294年まで生き続けた。

その後はトルキスタンをめぐって宗室の血筋の者どうしで勢力争いがあったが、1310年頃には一応の決着をみた。

1328~1330: この時期、大都と上都との間で宗室内二勢力に分かれて内戦が行われた。

モンゴルは「男系相続」ということ以外、相続に絶対的な基準が無く、兄弟と息子たちが全員相続人足り得る。従い大カン位の相続争いがしばしばおこった。これが1328年のような大規模な内戦のきっかけとなり得、政局安定がなかなか長続きしなかった。

1330年のときはトルキスタンから部隊を China proper まで呼び寄せた側が勝利を収めた。

この頃からユーラシア全体で天変地異がしばしば発生するようになった。

モンゴル高原で寒波のため家畜が大量死し、上都-大都(北京)首都圏に多数の遊牧民が移住してきたこともあった。

China proper でも、10年ほど後の1342年頃から黄河が頻繁に決壊するようになった。(註)

1342年には現在の河南・山東・江蘇北部・安徽北部一帯が荒廃し、白蓮教という宗教集団を核とする反政府運動が拡がるようになった。

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註: 当時は、黄河は河南省開封市近辺からほぼまっすぐ東に流れ、現在の江蘇省北部で海に達していた。

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胡と漢(62)

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副題:崩壊へ(1)

クビライが弟アリク・ブケを下した時点で、チンギス・カンの子孫たちは以下の地域を勢力下に収めていた。

クビライの勢力圏:
・モンゴル高原
・China proper の北部(※)
・マンチュリアと朝鮮半島

伯父チャガダイの曾孫バラクの勢力圏:
・トルキスタン南西部(キルギス~ウズベキスタン~タジキスタン近辺)

伯父オゴデイの孫カイドゥの勢力圏:
・トルキスタン東部(現在の新疆ウイグル自治区付近)

弟フレグの勢力圏:
・現在のアフガニスタン
・現在のイラン
・現在のトルコ東部~コーカサス南部
・現在のシリア~イラク

甥(兄ジョチの子)ベルケの勢力圏:
・トルキスタン北西部~西シベリア南部
・コーカサス北麓
・ヨーロッパロシア+ウクライナ

その後クビライが併合した南宋を加えたこれら地域(※※)は事実上独立した勢力圏となったが、それぞれ相互に交流は続き、いずれの地域の君主も「モンゴルの大カン(カガン)」はクビライ一人(とその後継者)と認識していた。

クビライの曾孫カイシャン(在位1308~1311)の代になると各地の君主同士の関係が良好となり、相互交流が一層進んだ。

緩やかな連合体として意識の上では一定の一体感があったようだ。

前述したような民間企業の通商は、もちろんこれら勢力圏を越えて行われた。

しかし、クビライが政権奪取して100年とたたないうちに、上述したモンゴル政権の広大な勢力圏は散り散りにされてしまう。

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(投稿後に訂正)

※ クビライが内戦を勝ち抜き、政権を掌握した時点では、まだ南宋は存在した。

※※ 上記に従い、訂正した。

不足(2)

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Lester Brown(2004年)によると、山西省最大の河川で黄河の支流「汾河(註1)」は、全く水が流れていないそうだ。彼の著書の当該箇所は1998年の資料を参照して書かれている。ということは遅くとも1998年以降流れていないと考えられるわけだ。

山西省の首都太原市では水の供給を地下水に頼っており、次第に涸れる井戸がでてきているという。(註2)

おお、なんということだ。それはいつかきっと悲惨な結果を生む。あの地域がどんなに乾燥していることか。

10年以上前に、華北に3カ月ほど滞在したことがある。

北京から陝西省西安市に飛行機で移動する途中、太原市の上空を飛んだ。下は見渡す限りの黄土高原。

空から見ると、黄色というより灰色っぽい。森林は全く見あたらない。

そう、華北のつらいところは、森林も草原も貧弱で、それゆえに水も足りないということだ。人口は多いが。

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註1:「汾水」という表記はどうも古いらしい。

註2:「汾酒」(フェンチウ)という度数60度の有名な酒があるが、水が無くなったら生産不能になるに違いない。

The Franco-German Axis (9)

Angela の初予算案が固まったそうだ。

FT.com 2月21日付記事 "German budget shies away from cuts"
http://news.ft.com/cms/s/3bb297b8-a2fc-11da-ba72-0000779e2340.html

Eurozone 共通の目標「対GDP比3%以下の財政赤字」はまたもや未達で、3.4%。

野党はいいとして、Bundesbank も予算案に批判的らしい。

「ドイツの中央銀行は、もし政府が経済成長を促進する政策にかける支出を控えめにすれば、今年3%以下に赤字を抑えるのは可能だ、と述べた」

というくだりがある。

ん? Bundesbank は景気を良くすることに反対なのか?

付加価値税率は予定通り16%⇒19%の増加。

褶曲山脈

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Yahoo! Japan ニュース 2月21日付記事:
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060220-00000514-yom-soci

大陸移動を引き起こす地殻変動によって地殻が長い年月の間に曲げられてできた山脈を褶曲山脈(しゅうきょくさんみゃく)と呼ぶ。

日本列島も全体としては褶曲山脈と言っていい。

北米のロッキー山脈
南米のアンデス山脈
中印国境地帯のヒマラヤ山脈
北アフリカのアトラス山脈

みな褶曲山脈だ。

イラン、トルコ、アフガニスタンなどは日本同様「国中が褶曲山脈」状態だ。

なんでこんな話をいきなり始めたかと言うと、地理的に偏在している石油の主な埋蔵地域2種類のうち1種類が褶曲山脈の周辺だからだ。(全てがこの2種類に該当するかどうかまでは知らない)

埋蔵地域は主に以下の2つ。(一部両方にかぶっている地域がある。そういう地域はなぜか埋蔵量が豊富だという印象がある。関係があるのだろうか?)

(1)大陸内の巨大な盆地状地形 ・・・ マンチュリア、渤海、タリム盆地、カスピ海、北海、ペルシャ湾、西シベリア など

(2)褶曲山脈の周辺 ・・・ ペルシャ湾~メソポタミア、カスピ海南部、タリム盆地北部、ペルー~エクアドル~コロンビア~ベネズエラ、メキシコ湾岸、スマトラ島 など

秋田県や新潟県には古くから油田があったが、小規模なものばかりだった。「日本は褶曲山脈なのに、どうして油田に恵まれないのだろう?」と長年思っていた。

ひょっとしたら案外埋蔵量があるのかもしれない。

メタンハイドレートと石油の生成が同一だという確実な証拠はまだ無いが、それでもある種朗報には違いない。

今回発見された海底は佐渡島と直江津の間。

胡と漢(61)

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しばらくご無沙汰していた。

今回はちょっと飛び入り。

Yahoo! News 2月18日記事: "800 years on, Genghis Khan still casts long shadow in China"
http://news.yahoo.com/s/afp/20060219/ts_afp/chinamongoliakhanhistorypolitics_060219034610

そういえば、800周年だ。

私見だが、こういう記事を読んでいると、中共政権は「我々は清帝国の後継者だ」という発想を持っていることが、断片的ではあるが、伺える。

いずれ、論じたいと思っている。

胡と漢(60)

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副題:商業振興・通貨(その4)

銀だけでは拡大する通貨需要をまかなえなかった。

昔も今も銀はシナ大陸ではあまり産しない。銀は外部から移入しなければならなかった。江戸幕府がやった「銀山を直轄地とする」といったことは困難だった。

そこで、実質的な政府紙幣が2種類導入された。

片方は「塩引」と呼ばれた。塩との交換を保証する証券を政府が発行した。こちらは高額紙幣だった。

銅銭の代替物としての紙幣「交鈔」も導入され、発行準備を用意した上で発行された。こちらは小額紙幣だった。

塩引を発行するにあたって、銀を対価として支払わせた(註1)。

塩引を政府に差し出せば、政府しか販売できない塩といつでも交換できることから、塩引は信用され流通した(註2)。

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註1:塩引はモンゴル以前からシナ社会にはあった。通貨(=銀)供給を補うことを目的として発行するようにしたのは、モンゴル政権の特徴だ。

註2:塩引売却収入が政府の歳入に占める割合も次第に大きくなっていき、後には8割に達するようになったらしい。

今日アメリカがドル紙幣を刷りまくっているが、それに少し似た緩やかなインフレ政策だと考える。