胡と漢(54)

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安定した支配には、各地域の権力機構の整備も欠かせない。

クビライはモンゴル高原周辺の各地に遊牧集団を配置した。

・マンチュリア西部の興安嶺山脈
・内モンゴルの黄河に沿った陰山山脈
・甘粛省の南部に沿う祇連山

等々、遊牧騎馬集団の族長・有力者が率いる地方政権が置かれた。

彼らはクビライのやり方にならって、夏営地・冬営地に小型の都市を築き、季節移動した。(註1)

クビライはまた、自らの息子たちを「副王」として起用した。現在の北京周辺や西安周辺など、華北要地の統治を任された。

ある者はモンゴル高原中央部の騎馬民集団の長となった(註2)。

ある者はチベット高原の北東端を、またある者は雲貴高原を任された。

上述した、クビライの息子たちや遊牧集団の長たちは、行政の具体的な部分には携わらなかった。行政機構は別に整備されたが、その上から軍事的に睨みを効かせる存在となった。

純粋「モンゴル」、すなわち「騎馬民モンゴル」たちは軍事および政治的意志決定を担当していたと言える。

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註1: 現在参照している文献にはこういう書き方はしていないが、mattはこのやり方を「騎馬部隊をクビライが掌握し続けるため」に行ったのだと考えている。

モンゴル政権以前の騎馬民諸政権は、契丹を例外として、騎馬民こぞって華北の農耕地帯に移り住むことが多かった。歴史を概観すると、それは長期的には騎馬戦力の弱体化を招いている。

上述の興安嶺・陰山・祇連山はいずれも草原地帯でありながら農耕地帯に隣接する山脈だ。「草原の豊富で夏でも気温の低い山地を夏営地とし、冬になると山を降りて農耕地帯に入り込む」という生活を送るのが、遊牧民のライフスタイルを維持しつつ農耕社会に権力を行使することができる「生活形態」だった、と考えている。

註2: 抜け目無く、最良の遊牧地を自分の息子に押さえさせ、騎馬部隊を掌握している。

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胡と漢(53)

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海への出入り口よりも前から、陸上交通網も整備されてきていた。もとから存在する街道・通り道に沿って、「ジャムチ」と呼ばれる駅伝制度が設置され、中央政府との情報伝達を改善した。(註1)

当然内陸ユーラシアとの連絡も活発になった。単に連絡をとるだけでなく、中央アジアからの文化導入・移住もあった。

大都には、ヒンドゥー・ティベット系の建築物もしばしば見られたらしい。

海陸の交通網整備といい、文化導入といい、当時の知識人を集めて行われたものだ。「知識人」もユーラシアの広い地域から招聘した者たちだった。

別にシナ農耕社会の人々をとりたてて差別したわけではなかった。それどころか積極的に登用している。漢人で登用された者の中には「モンゴル」の範疇に含められた者もいた。

例えば、大都と海をつなぐ運河工事は、郭守敬という漢人が登用された。大都と天津(直沽)を結ぶ運河工事は難工事だった。

現在北京の東郊に「通州」という都市がある。運河はこの都市を経由している。大都-通州間は37mの高低差があり、十箇所の閘門(水門)があった。(註2)

漢人社会の工学的知識の持ち主を迷わず登用したわけだ。ちなみに郭守敬は天体観測にも動員されている。

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註1: 駅伝制度は「遼」朝=キタン政権に始まったらしい。

註2: 運河を水門で堰きとめ、その周りに半円形の水路を作ったもの。

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胡と漢(52)

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クビライが建設させた「首都圏」には大きな特徴があった。海への出入り口が作られた。

現在でも天津から北京へと河川をさかのぼることができる。この河川は北京市内に入ると「中南海」、「北海公園」という2つの有名な場所につながる。

実はこの2箇所、クビライの都市計画が出発点になっている。

クビライは大都市内に港を作った。その痕跡が中南海・北海公園(註1)として残っている。

大きく見るとこういう工事をしたわけだ。

① 北京の北西部から流れ出ている川を大都(北京)まで引き込む。

② 大都市内の港湾機能を持つ池につなぐ。

③ さらにそれを天津へと流れる川へと下流側でつなぐ。

④ 天津には海港(直沽)を置く。

こうして、遊牧民政権モンゴルは、海への道を得た。

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(投稿後に一部書き直した)

註1: 今日の、「故宮・中南海~景山公園~北海公園」近辺が、この「池」近辺に相当する。もともと金の首都「中都」の北東にあったこの地はクビライたちの越冬放牧地になっていたらしい。その場所が現在の景山公園~故宮付近に相当する。この地に皇宮を建設するとともにその周囲に緑地帯をわざわざ設定し、そこを遊牧民政権の越冬地とした。

こういうことを見ると、モンゴルが「農耕地帯に進出する遊牧民政権」としてかなり高い完成度に達していると考えざるを得ない。「季節によって移牧し、草地にテントを張る」遊牧民のライフスタイルを、君主一族にいたるまで農耕地帯の中でも維持し続けたわけだ。

遊牧民のライフスタイルを守ることになぜこだわったのか? モンゴル政権について書き終わる段階でひとまずの総括をしようと思っているので、そのとき書こうと思う。一つの理由としては、軍事力 - 騎馬部隊を把握することが挙げられると思う。

註2: 首都圏整備がすぐに終わったわけではない。1260年頃から三十年ほどかかっている。

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胡と漢(51)

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権力を奪取したクビライは政権基盤を固め始めた。

まずは、首都圏の整備について。

それまでモンゴル帝国の首都は、モンゴル高原の中央部、「カラ・コルム」と呼ばれる都市だった。この都市は極めて人工的な都市で、草原の真っ只中に各地から商工業者を集めて形成された。

遊牧民たちは通常都市内には住まず、周囲にテントを張った。

クビライは、政治の中心をモンゴル高原中央部から現在の河北省北部~内蒙古自治区南東部に移動させた。

「金蓮川」と呼ばれた草原地帯に夏の首都「上都」を、そして現在の北京市がある場所に「大都」を建設させた。

この2つの都市の間に小型の都市を点在させ、それぞれを物流・軍事・工芸などの拠点とさせた。

クビライの宮廷は、季節が移り変わるとともにこれらの都市から都市へと移動し、夏は主に「上都」に、冬は主に「大都」に滞在した。

胡と漢(50)

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内戦が起こったとき、モンゴル政権は以下4勢力に大きく分けられていた。

トルイ四男のアリク・ブケ配下 ・・・ モンゴル高原
トルイ次男のクビライ配下 ・・・ マンチュリア、内蒙草原、華北
トルイ三男のフレグ配下 ・・・ イラン高原、アフガニスタン、コーカサス南部、シリア北部、トルキスタン南西部
トルイの兄ジョチの息子バトゥの配下 ・・・ カザフスタン草原、西シベリア南部、コーカサス北部、ウクライナ西部

1260年まで、モンゴル人にとって次代の君主を決める大集会「クリルタイ」はモンゴル草原の中央部で行われていた。

伝統を尊重するなら、アリク・ブケが召集するクリルタイが正統と言えるだろう。君主の死にあたっては、モンゴル高原で留守を預かる者が召集するのがそれまでの慣例だった。

おまけに、アリク・ブケはモンケの葬儀を行っている。この葬儀にクビライは出席していない。

だが、クビライは内蒙古南東部の金蓮川草原で自分に従っていた軍勢の関係者だけを集めてクリルタイを開催し、ここで自らを君主に選出させ、それを押し切った。

アリク・ブケはクビライの反乱を知った後、自派のみで開催したクリルタイで君主に選出された。

4年間アリク・ブケ派との対立が続いたが、アリク・ブケ側にあまり軍勢が集まらなかった。フレグとバトゥは自らの支配地域に滞在したままで、クリルタイに参加するためにモンゴル高原に赴こうとしなかった。洞ヶ峠を決め込んだわけだ。

一方、クビライは南宋攻略作戦以来大軍団を抱え続けていた。クビライ側が軍事的に優勢な状態が続き、決定的な戦闘が行われぬまま(註1)時間が過ぎた。アリク・ブケ派から次第にクビライ派に寝返る者が増えていった。

結局1264年、アリク・ブケはクビライに投降した(註2)。大軍団を抱えたままクーデターを起こしたクビライが勝利した。(註3)

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註1: それまでモンゴル社会には「モンゴル同士は戦わない」という伝統があった。このため戦闘が行われても相互に眺めているだけでなかなか戦わない傾向があった。

註2: 投降後アリク・ブケだけが(2年後に)殺され、他の有力者は許された。註1に述べた伝統のゆえである。

註3: これ以降、現在の河北省北部が首都としておおむね定着するようになり、現代に至っている。