ドル買い増し

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東京時間午前に逆指値が成立。

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Perservation

中国でもっとも驚異的な謎は何かと問われれば、「軑侯利蒼(たいこうりそう)夫人のミイラ」と答えたい。

このミイラは、内臓が完全に残っており、筋肉が張りを残していた。エジプトのミイラなどはこれと比べたら粗悪なものだ。腐敗を防ぐため内臓をとりだしてあるのだから。

しかも発見された場所は、湖南省長沙市近郊の馬王堆墳墓。湖南省は日本の太平洋側同様高温多湿な夏がある。それでも内臓を摘出していないミイラが紀元前168年以来約2千年間腐敗しなかったのだ。これはすごい。

そのミイラは黄色い液体の中に浸されていた。その液体の成分はまだ分析されていないそうだ。

ハウスドルフとクラッサの本には写真が載っている。

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胡と漢(17)

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前回の「胡と漢(16)」にて、「南匈奴+鮮卑がシナ社会にどう影響したか」および「そこから得られる日本人にとっての教訓」について、見解を一通り述べ終わった。

あと3回ほど、「胡と漢」シリーズを読む上で知っておくほうがよい予備知識を説明しておく。そこで一旦お休みとしたい。(西暦755年以降については、再び書く気がおこったときに書く)

「騎馬民社会/政権がどういう性質を持っているか」についての話だ。シナ社会に影響を与えた騎馬民/胡族政権を理解し易くしてくれる。

以下のようなことだ。

① もともと「分散型社会」であり、散居し易い傾向がある。しかし、一旦優秀な指導者が現れると、急激に人が集まる。

② 相続に明確な基準がないので、相続争いがおこりやすい。

③ 自動車が登場するまで馬は強力な戦術兵器であり、豊富に有する騎馬民政権は強力な軍事力を誇った。ただし、高温多湿な気候には比較的弱い。

④ 長距離の移動に便利なライフスタイルを持っている。これは軍事活動に影響しており、「長距離の機動戦」や「大陸を横断するような超長距離の移動」も平気である。

⑤ 「純粋遊牧騎馬民」と「半農半牧騎馬民」が存在する。歴史全体を通してみると、シナ社会との「距離のおき方」が少し異なるように見える。

次回から順次説明する。

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「皇」と「王」

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畏れ多いことを敢えて書く。

せっかくトラックバックステーションの話題設定があるので、敢えてこの話題をこのブログテーマで論ずる。関連はありありだ。

以下、mattの私見だ。

(1)日本の天皇制には、シナを中心とする「華夷秩序」へのアンチテーゼという面がある。シナ人の概念ではこの世に皇帝(天子)は一人しかいない。シナの周辺はすべてシナの皇帝に臣従すべき存在で、シナの皇帝に臣従すれば「王」の称号を与えてもらえる。しかし日本は天皇制を持っている。「皇」という文字を使った時点で、重大な自己主張をしている。「シナとヤマトと対等だ。お宅の支配下には入らないよ」という主張だ。この主張をした上で、距離をおきつつ文物だけ輸入する方針を(ほとんど無意識のうちに)ずっととってきたのが日本である。

(2)こういう伝統がある以上、皇室の伝統は何につけできる限り存続させてほしい、というのがmattの意見。「シナ人から見て、日本の皇室の正統性に傷がついたように見える行為はできるだけ避けたい」という考えだ。それもこれも、「長い目で見てシナに同化されないため」であり、「動乱リスクを伴う社会から、できるだけ距離をおきたいため」だ。この意味については、このブログ上の同じブログテーマに属する「胡と漢」シリーズを参照いただきたい。

(3)皇室の伝統のもっとも核の部分は「男系相続」ということ。「女系」の前例は無い。日本社会の民間とは違う。一方で「女帝」の前例はある。「女性天皇は是か非か?」と聞かれたら、是に決まっている。この点について皇室典範を改正しても伝統に反しない。だが「女系を認める選択をしよう」と言われたら、「その選択の前にやるべきことがあるだろう」と思う。昨今の女性天皇に関する報道はこの点を混同している。無意識に混同しているのか、意図的に混同しているのか、よく分からないが。(誰かが意図的に混同させている可能性は一応あると思う)

(4)伝統を存続させるに最も良い選択肢は、「旧宮家を復活させること」或いは「生殖医療を総動員する」だと考える。このいずれかが伝統を一番損ないにくいと思う。

(5)他の選択肢としては、1)側室を置く、2)女系を認める、3)大統領制にする、の3つがあると思う。側室を置くのは(全員ではないかもしれないが)女性の有権者の反対を招くだろう。女系を認めることと大統領制にすることは、どちらも皇室の伝統を断絶させることでは同質だ。

(6)「側室を置く」以外の選択肢は、宮家の復活にせよ、女系にせよ、大統領制にせよ、前例のないことばかりだ。もっとも、皇室への先進的な医療の適用自体は広い意味で前例が無いとは言えないかもしれない。過去には「臣籍降下」はあったが、「一旦、民となって、皇(おう)に返り咲いた」前例は無い。こういう政治的・伝統的に前例の無いことをやるには、天皇陛下に一言「旧宮家を旧(もと)に戻す」と宣言していただくのが良いと思う。例えがいまひとつだが、秀吉が関白になるとき豊臣という新姓を創り、「新例とする」との後陽成天皇宣下により実現した。旧宮家復活も、国会で議論し尽くした上で、国民の総意として陛下に「旧に戻す宣言」を奏上するのがよいと思う。

以上の見解の中核部分は、プロパンガスさん<http://propanegas.ameblo.jp/ >が骨太に論じておられるので、そちらを参照されたし。ここでは、「日本のidentityには『華夷秩序の否定』という面が含まれている」という観点を補足することとした。

胡と漢(16)

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5月25日の「胡と漢(12)」の⑥について。

「秦漢帝国~魏晋南北朝~隋唐帝国」について、「統一」と「内戦」はこういう具合に交互に発生している。「内戦」は「割拠」と言ってもよい。

統一:221BC-209BC(12年)
内戦:209BC-202BC(7年)
統一:202BC-AD6(208年)
内戦:AD6-25(19年)
統一:AD25-107(82年)
内戦:107-111(4年)
統一:111-184(73年)
内戦:184-280(96年)
統一:280-306(26年)
内戦:306-589(283年)
統一:589-612(23年)
内戦:612-621(9年)
統一:621-755(134年)
内戦:755-907(152年)

あくまでmattの独断と偏見に基づく区分だが、まあまあこんなものだろうと思っている。

上の区分は「内乱が起こっているかどうか」或いは「分裂割拠しているかどうか」が基準になっている。China proper の外に対する対外戦争を起こしているかどうかは考慮に入れていない。対外戦争は往々にして統一期に起こっているので、ほとんどいつも戦争しているようなものだ。激しい歴史だということが分かっていただけるだろうか。

「内戦(割拠)」の破壊力はすさまじい。統一期が長続きし、平和が続き社会に生産力が蓄積されてくると人口も増える。正確な人口はよくわからないのだが、後漢に最高で5千万程度にはなったらしい。三国時代にはその7分の1程度まで落ち込んだようだ。その間数十年だったとは言え、社会全体の8人中7人がいなくなるなどということは想像しにくい。

おまけに魏晋南北朝期は南匈奴・鮮卑・羌や、南方の南越系?(原始タイ系の人々か?)異種族も戸籍にとりこんでいるので、少数民族が大幅に増えており、地域にもよるが全体で全人口の数十%を占める規模だったらしい。これで人口が7分の1程度まで落ち込んだわけだから、漢代に戸籍で捕捉されていた人々が9割方どこかへ消えてしまったことになる。

どうやってどこかへ消えたのか?

・兵士は戦闘で死んだ
・一般庶民は戦争に巻き込まれて死んだ
・飢饉が起こって飢え死に
・伝染病が流行して病死
・共食い(文字通り人間どうしが食い合う。シナではときどき起こる)
・逃げた/移住した(役所が捕捉できず戸籍に登録できなくなった)

といったことが主な原因だろう。

漢書にはこう書かれている部分がある。「秦から漢にかけてのわずか8年の間に、全国の人口は2千万余から1千万前後と、半数以下に激減した。...(中略)...漢が興ると、秦の弊政のあとをうけて、諸侯が割拠し、人民は生業を失い、しかも大飢饉におそわれた。およそ米価は一石5千銭となり、人と人が食い合い、死ぬ者が半数を超え...」

後漢末期(AD184以降)、曹操が徐州を攻略した際難民数万人を生き埋めにした。江淮地方のその数万人以外の人々は「互いに食い合う」ありさまだったそうだ。(吉川三国志にはそこまで書いていなかったぞ)

隋の人口は5千万、戸数は9百万戸だった。隋滅亡期の内乱後、唐初は2百万戸で、隋代の2割程度だった。

このような激しい人口変動は、後の宋~明清代まで続く。激しい内戦も繰り返される。一番最近の内戦は「文化大革命」だろう。文革は破壊の程度が少ないほうだ。人口7~8億に対して犠牲者は2千万程度。10年間続いた全国的動乱における殺傷率3%未満は、歴史的に見ると低い。まだ破壊が足りないということを暗示していると思う。

敢えて冷酷な見解を述べる。大陸で今後動乱が起こったら、特に農民反乱が広範に起こったら、億単位の犠牲が出ることを想定しておくべきだと考える。(註1)(註2)

mattは「日本はシナ大陸に深く関与するべきでない。距離をおくべきだ」という意見の持ち主だ。その理由はなんといってもこの破壊のひどさにある。日本がこういう動乱に巻き込まれてほしくない。もう一度言うが、大地震の方がよほどましだ。

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註1: そもそも人口統計が正確かどうかという問題は当然ある。が、とにかく、激しい破壊が史上何度も繰り返して起こっている実績があることは事実だ。

註2: 中国のある顧客を仕事で訪問した際、顧客の工場長(を含む一群の人々)と会食した。工場長が雑談の中で「中国は農民が多すぎる。内乱で数億人死ぬべきだ」と言った。冷酷な意見だが、この見解はシナの歴史への洞察に富んだ意見だとmattは思う。(工場長ともなれば当然都市戸籍の持ち主だから、余計にこういう冷酷なことが言える)

胡と漢(15)

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5月25日の「胡と漢(12)」の⑤について。

524年、待遇が悪化していた北方国境線駐屯部隊が反乱(六鎮の乱)することにより、鮮卑拓跋一族の北魏政権が崩壊したことは前述した。

この後、北魏は東西に分かれ、それぞれが有力な軍人によって奪権されて、東側が北斉、西側が北周となったことも前述した。

577年北周が北斉を制圧し、隋にとって代わられたところで南朝の陳を制圧して、シナを統一(589年)したことも前述した。

実は、隋がシナを統一できたのは突厥のおかげだ。北周の内部要因だけではおそらくない。(註)

北周と北斉とでは、後者の方が人口も経済力も兵力も優勢だった。北斉の方が平野が広がっている国土だから生産力が上回るのは明らか。

劣勢を跳ね返すべく、北周は突厥に接近し軍事介入を要請した。突厥は援軍を華北に派遣した。北斉を突厥軍に一旦攻撃させ弱体化させたところで、北周が北斉を攻撃し滅ぼすことができた。その攻撃の間、北周は突厥に不介入を守らせることができた。突厥が北斉に味方する事態を回避できたわけだ。

北斉を倒して華北を(突厥の庇護の下)制圧した北周を受け継いだ隋は、583年以降突厥が内紛を起こしている間に南征し、シナを統一した。

もう少し続きがある。

617年に唐の建国者李淵が隋に対して反乱を起こして山西省で挙兵したとき、突厥の援軍が彼を支援していた。隋滅亡後弟の李世民が権力を奪取したが、彼は突厥を攻撃して破り、軍事的な優位を確保した上で臣従させている(630年)。自分が力を蓄えた後、かつての味方を攻めたわけだ。

このことから何を連想するか?

「国民党と共産党が争っているとき、マンチュリアにいた日本軍を共産党が挑発して長城以南にいた国民党軍を攻撃させ、国民党と日本軍を対立させ両者を疲弊させることにより、最終的に共産党が勝利を得た」

mattならこの説を連想する。(中国側の資料が全て出てこない限り、真相は明らかにならないだろう)

このblogを読んでくださっている方で、外務省関係者、防衛庁・自衛隊関係者、内閣調査室関係者、警察庁関係者、海上保安庁関係者がもしいらしたら、ぜひとも「胡と漢」の歴史についてじっくり考えていただきたいと心から思っている。

現代より漢籍に詳しい日本人が多かった戦前、旧陸軍はこういう観点で歴史を研究しなかったのだろうか? 旧陸軍にせよ満鉄調査部にせよ、研究していた、という情報をmattは全く入手していない。自分たちが中共に利用されているとは思いもよらなかったのだろうか? 外国の軍隊を自国領内に引き込むくらい何とも思わない人たちだと言うことも、歴史を調べればすぐ分かることなのだが、考えなかったのだろうか?

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註: モノの本を読むと、「北周政権の中核集団武川鎮軍閥の団結が抜群だった。それに比べて北斉政権は内紛に明け暮れてしまった」という感じで記述していることが多い。本当だろうか。上記のような即物的な説明の方が、あるいは以前書いたような「主導権を巧妙に把握しつつ、漢人を仲間として参入させる政治的制度を導入した」というsystematicな説明の方が、mattはよっぽど納得できるのだが。

胡と漢(14)

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前々回の「胡と漢(12)」の④について述べよう。

304年の南匈奴の事実上の独立以来胡人系北朝諸政権は次第に成長し、最後の後継者隋唐政権は最終的に軍事力によってシナを制圧し、さらにモンゴル高原・トルキスタン政権の突厥やチベット高原の吐蕃に対してまで軍事的な優位を確保し、臣従させた。

これは軍事力が強力だったからだ。「徳」でも何でもない。上層部が農耕社会出身の漢王朝が匈奴相手に大苦戦したのと比較すればすぐに分かる。

この時代強力な軍事力と言えば騎馬戦力のことだ。草原・砂漠地帯を制圧しようと思ったら、騎馬戦力が無いとどうにもならない。そして、支配階層も含めて南匈奴・鮮卑出身勢力を抱えていた唐王朝にはその戦力があった。

漢王朝は農耕社会から出てきたので、騎馬戦力を確保するのに非常に苦労した。死闘と謀略の末、匈奴の臣従を一時取り付けたが形式的なもので、匈奴を思いのままに動かせたわけではなかった。(後に東の匈奴が南北に分裂した後、その南側だけを中原に移住させて始めて匈奴系勢力の一部を意のままに動かせるようになった)

ところで、本屋で中国史関連のコーナーにおいてあるシナ史戦争モノの本はだいたい以下5つに分類されると思う。

A.三国志
B.漢楚(項羽vs劉邦)
C.漢vs匈奴
D.日中戦争
E.成吉思汗/元代モンゴル伝記モノ(シナ史と呼ぶのが妥当かどうか疑問があるが)

これ以外について書いてある本があったら、かなりマイナーな本だと思う。上記でもC.とE.はまだまだ少ないと思う。

注意喚起しておきたいことは、D.とE.を除いては「中国史上の英雄たちの人間模様を、中華至上主義的な見地・儒教的な見地から書いたものが多い」ということだ。全部ではないが。中華至上主義で書くと必ずといっていいほど、「徳で統治する為政者が善=善玉は徳を持つ人物だった」という色分けが入ってくる。こういう書には本当は十分注意しなければならないと思うのだが、とても多い。

mattは司馬遼太郎の「項羽と劉邦」および「吉川三国志」を高校時代に読んだ。大学生になってから歴史小説を読まなくなった。ノンフィクションばかり読むようになった。今から思い返すと、シナ社会とそのイデオロギーの恐ろしさに感づいていたのだろうと思う。

歴史小説は楽しい。のめりこみたくなる。だが、歴史の真実が書いてあると思ってはいけないと思う。あくまで娯楽と割り切るべきだと思う。

例えば「吉川三国志」なら、最初から劉備が善人・徳のある人物として描かれている。現実の歴史では、蜀の存在は瑣末なものに過ぎない。重要なのは魏だ。魏晋政権と呉との対立を主軸に書くべきだし、それと胡人の動向を合わせて書くべきだ。

「漢vs匈奴」も、漢の側の英雄について書いてあるのがほとんど。漢が非常に苦戦させられたことの理由を深く掘り下げている本はほとんどないといっていいだろう。なぜ匈奴が強かったのか? そんなに「徳」が重要でかつ漢の側に「徳」があるのなら、最初から匈奴が恭順してくるはずではないか。実際はそうではない。そういう疑問は誰も提示しない。

魏晋南北朝期の南匈奴・鮮卑系北朝政権について書いてある本は僅少だ。隋唐政権について書いてある本はいくらでもあるが、隋唐政権がなぜモンゴル高原やトルキスタンへの遠征を実施し、かつ唐王朝が最終的に成功できたのか、という観点で評価している本はほとんど見当たらない。漢王朝との比較など誰もしていないようだ。

隋唐政権絡みの歴史モノと言えば、

・煬帝の悪政
・唐太宗(二代皇帝李世民)の善政(貞観の治と呼ばれる)
・安禄山が反乱を起こしたときの、玄宗皇帝と楊貴妃の悲劇

といったことがよく取り上げられる。歴史小説やアニメーションやTVドラマのノリを超えていない。そういう本が出るのは別に構わない。それだけが歴史そのものだと思われるのが困るのだ。政治家・財界人・自衛官・学者・高級官僚といった人たちにそう理解されるのはまずい。(註1)

儒教的価値観混じりで人間模様ばかり追いかけているシナ歴史モノの本はたくさんある(註2)。みなさんには十分注意されたい。無意識のうちに、「勝った側に元から徳があって正義だったのだ」とか、「胡人が野蛮で漢人の側が正義だ」とあなたは誘導されているかもしれない。

(投稿後に加筆)
思想的・イデオロギー的な面を強調して正統性を主張し、軍事的な側面は背後においやってしまう。その手に乗っていると、真実はなかなか見えないと思う。

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註1: Rogers の言うように投資家も歴史を勉強するなら、歴史小説のノリで満足するのは危険だと思っているのだが。

註2: 歴史を分析するときは、一旦人間関係のドラマを捨象する意識を求められると思う。

胡と漢(13)

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では、前回の①~⑥について論じていこう。まずは、①~③について。

少なくとも北方の遊牧騎馬民/半農半牧騎馬民にとって、中華の地の経済力は魅力的だったはずだ。遊牧や粗放な農業の生産力はしれている。維持できる人口も少ない。シナの地は農業がずっと発展していて余剰が生産されている。そこへ行けば「食える」。

牧畜社会では、乳製品を中心に食する。急に穀物ばっかり食えといわれてもなじまないだろう。しかし、世代を下れば次第に食事に慣れていくだろう。

司馬遼太郎が「アメリカ素描」という随筆を昭和63年頃?に書いている。彼は文明論をものしている。「文明の成立条件は『そこへ行けば食える』ことだ」と喝破している。mattもその通りだと思う。広大な農地を確保でき、農業生産が豊富で余剰を得られる社会。そこへ周囲から異種族が入り込んで在地の社会と様々なinteractionを重ねた中から、誰にでも通用する普遍性の高い文明が出てくる。司馬はそう指摘している。

騎馬民にとっては単に食えること以上の魅力を農耕社会の富は提示している。衣類とアクセサリー類は、特に遊牧民にとっては魅力的なものだ。布類は牧畜生活からは手に入らない。皮革類だけで衣服を作ることは不可能ではないが、繊維製品がある方が便利であるのは間違いない。また、遊牧民はアクセサリー好きな連中だ。特に金細工は大好きだといっていい。匈奴が登場するよりずっと前から、モンゴル高原~トルキスタン~シベリアで青銅製のベルトのバックルやナイフ、鍋、矢じりなどが使用されている。たまに金銀製の冠やバックルなどが出土する。遊牧民の権力者には、農耕社会の富を手に入れたいという欲望は常にあるだろう。

シナの地に入り、衣食が同質化し、漢語を受け入れると、周りの農耕民と次第に同質になっていく。これは避けがたい。南匈奴、鮮卑などは結局そこまで行った。それどころか、隋唐まで来ると鮮卑の側から積極的に「自分は漢人だ」と主張するようになった。北周までと異なり、姓名を漢人風にし、出自がもともとから漢人であるかのようにふるまった(註1)。結果、「我々は匈奴/鮮卑系である」と声高に主張する人々は隋唐以後いなくなってしまった。唐の2代皇帝李世民になると、はっきり儒教的秩序観を反映した君臣関係を意識するようになった。だから「貞観政要」が編纂されたりした。

ここまで来ると、もう遊牧の昔には戻れない。

こういう同化プロセスは、現代では内蒙古自治区のモンゴル人や満州人に見られると思う。

日本ではモンゴル国(外蒙古)のモンゴル人が相撲界で目立つので、彼らがモンゴル語の名前を名乗っていると思うかもしれない。外モンゴルではそうだ。しかし、内モンゴルでは多くのモンゴル人が漢人風の姓名を名乗り、漢語を普通に話す人が多くなっている。モンゴル語自体は内蒙古でもまだ生きているが。

同化が進行していることを反映していると思うが、内蒙古自治区で独立運動が起きたとは聞かない。この点、新疆ウイグル自治区とは異なる。ただし、内蒙古自治区の人口密集地は首都北京に地理的に近く北京軍区の管轄下にあるので、軍事力によって反政府運動が強力に抑制されている可能性は一応あると思う。

満州人は、中共政権下の現在でも一応少数民族扱いされているが、彼らはすでに満州語をほぼ失っており、満州語は死語となりつつある。もちろん漢人風の姓名を名乗り、漢語を話す。(註2)

「胡」とされる集団で、後日書くつもりだが、契丹や清代までのモンゴルは、シナに隣接しながらも同化しなかった。突厥や古くは南北分裂前の東匈奴もシナに同化しなかった。やはり、地理的・物理的ににシナの領域に組み込まれず独立を保っているかどうかが、同化されるかされないかに大きく影響すると思う。生産力が低いと人口も少ないから、長い目で見ると人口比でシナ人に負けて同化されてしまう。

南匈奴や鮮卑が最終的にシナ社会に同化されてしまったのは、中原に自ら入り込んでしまい、農耕民に人口比で負けてしまったことが大きく影響していると思う。その上、政治的な必要性(?)から、自ら「われわれは中原の支配者にふさわしい、昔からの漢人だ」と最後は自称しているのだ。

朝鮮民族は文化的に同化する方向性・政治的に従属する方向性を選択したとmattは考える。古代においてはトゥングース系言語の名前があったようだが、高麗から完全に姓名を漢語式に変えてしまった。言語的は現代に至るまで完全には同化しなかった。漢語を取り入れたのは宮廷と知識人だけで、一般庶民は漢語を使えなかった。朝鮮半島はシナ政権の直接統治を受けた時期はあるが比較的短く、間接統治でとどまったから、完全な同化を免れてきたのだと思う。

日本の歴史を振り返ると、聖徳太子以来(?)日本人はおおむね中華の文明から距離を置き、文物を取捨選択して輸入し、和風に作り変えてきているのが通常の状態だ。mattは今後とも大陸に日本が深入りしないよう願っている1人である。

逆にシナ人の側から見ると、4月15日の「ちょっと日経(4)」で述べたたように、日本人が中華の文明に参加することには原則として障害は無いと思う(註3)。むしろ、日本人がどうしても参加しようとしないことが不可思議に見え、かつ「儒教的秩序=華夷秩序」を日本人が受け入れようとしない現れと見て、内心不愉快に思っていると思う。朝鮮民族のようにシナの側に引き寄せられ過ぎないよう、我々は心しておくべきだと思う。

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註1: 唐王朝の出自が遊牧民であることを示す証拠とmattが考えている事象が2つある。

1つ目は、唐の初代皇帝の娘が「1万の精鋭を率いていた」という記録があることだ。遊牧民は女性も従軍する。有力者の一族に所属する女性なら、部隊の指揮を任されることもある(註4)。こういうことは、シナ伝統農耕社会ではあり得ないことだ。

2つ目は則天武后だ。彼女は二代皇帝の後宮に入り(日本風に言うと、側室になった)、二代皇帝の死後尼になっていたが、その息子三代皇帝に召されて後宮に入り、元からいた皇后を失脚させて皇后になった。政治の動きを捨象して男女関係だけ見ると「父親の側妻だった女性が未亡人になったところで、息子が目をつけて側妻にし、その後本妻にした」ということだ。3月4日の「華夷秩序・民族意識」という投稿で述べた「嫂婚制」の影響があったのだと mattは考えている。「嫂婚制」は遊牧民の習慣だ。

註2: NHKの新シルクロードで放送されたが、新疆ウイグル自治区には「錫伯族(シボ族)」と呼ばれる少数民族がいる。彼らは遼寧省瀋陽近辺の出身で、清代に皇帝の命令で新疆へ移住・駐屯し、清滅亡後もそのまま住み続けている。満洲語の方言とされる言語を今でも話している。現在北京では清代史の編纂作業がなされているが、錫伯族の人が北京へ呼ばれ、編纂作業に参加しているそうだ。本家の満洲人が満洲語を使えない現在、貴重な満洲語の使い手だ。

註3: 唐朝において阿倍仲麻呂が他の漢人官僚と同じように一官僚として扱われたように、日本出身であっても儒教的教養を積み、その価値観に基づいて行動すれば、受け入れられるわけだ。

註4: 騎馬民族征服王朝説では、神宮皇后による三韓征伐の伝承が存在すること自体が「日本の皇室の出自は騎馬民」たる証拠の一つだとしている。

待ち

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フランス人の反応を見てから、次の手を考えることにしよう。

今週の取引: none
今週末のポジション: EUR/USD @1.2637 売り
今週末の実勢: EUR/USD @1.2582前後 | USD/JPY @107.90前後 (05:50, 05/28/2005 JST)