ある大学生の指導教授は作品を読むということは作者の意図を理解することと指導しているようです。
これは少し厄介な問題をはらみます。
「作者の意図」は第一に作者しか分かりませんし、第二に脳科学的に言えば作者にも意図は無いのです。
いずれにせよナンセンスな質問です。
作者に意図は無いとは「自由意志は無い」に近い議論ですが、作者すらも執筆するまでは、自分が何を意図しているかは分かりません。
表現されたものを論理的に分析することは重要ですが、そのゴールが作者の意図というのでは問題でしょう。
たとえば作家なり学者が頭にある原稿を書いているようでは、良い作品は生まれません。頭の中にある原稿を書いてもOKなのは、小学生まででしょう。
ある程度大人になれば、書く前には漠然としたイメージしかなく、書いている中で自分が何を書きたいのかが見えてきます。もちろんそこで言う「自分が何を書きたいのか」は先にあるのではなく、書いた瞬間に生まれるに過ぎません。
いや、もちろん最初から原稿用紙が頭にあって、すべて書き終わってから、原稿用紙のマス目を埋めるかたもいるのは知っています。しかしそれもまた作業を一段階頭の中でやっているに過ぎません。頭の中の原稿用紙に書くまでは自分が何を書くかを知らず、頭の中で推敲までします。それからその確認作業として、すべてをリアルな原稿用紙に書きます。
サマセット・モームが毎朝必ず机に向かい、何も書けないときはずっと自分の名前をタイプしていたというのは有名な話です。文豪ゲーテですら、大作主義を戒め、日々何かを書くように言います。
書き続ける中で自動書記のように書けるときそのデモーニッシュな働きをインスピレーションとかつては言いました。そのインスピレーションは身体を動かし続け、書き続ける中で育まれます。
だからこそ、モームは手を止めなかったのでしょう。
我々はつい頭の中で考えてからそれを表現しようとしますが、表現も思考も、行動の中にしかありません。数学者や物理学者はひたすら手を動かし、足を動かします。天才が散歩好きなのはそこに理由があるように思います。ジョブズも歩きまわりました。カントも毎日決まった時刻に散歩し、ゲーデルとアインシュタインは一緒に散歩することを好みました。京都の哲学の道も有名です。
ロダンの「考える人」はいわば悪い冗談です。動きながらしか人は思考できません。思考とは情報空間で動きまわることです。情報空間での運動を思考と言います。物理空間でも動いたほうが頭は回転します。
さて、件の大学生の指導教授はなぜかいまだに作者の意図を作品が書かれた時代背景と共に分析するのが文芸批評と勘違いしているようです。
「作者は何が言いたかったのでしょう?」という国語の先生の質問は小学校だけに限定されたくだらない質問かと思いきや大学でもまだ生き残っていました。清水幾多郎氏でしたか、自分の文章について繰り返し「作者の意図」を聞かれて閉口したということを書かれていたように思います。
作者の意図がどうあれテクストとして(テキストではなく)読むというのが最低限の態度かと思います。
もちろん時代状況によって用語の定義が変わったり、表現が変わるのは事実ですので、その配慮は必要ですが、それと「作者の意図、作者が当時の人に訴えたかったこと」にフォーカスさせるのは違います。作者の意図はCrying for the moonでしかなく、当の本人も困惑するしかない質問です。
黒澤明監督に「この映画の意図を一言で言うと何ですか?」と聞いた気の毒なインタビューアーを思い起こします。「一言で言えるならば映画など撮らない」と返答した様に記憶しています。気の毒なのは頭の出来が気の毒ということです。
文芸批評と言えば文學界と大学を敵に回したこの小説を思い出します。
傑作ですし、爆笑です。そしてしみじみと考えさせられます。
文学部の大学教授は必読だと思います。卒論指導も少しは変わるかもしれません。
文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)/筒井 康隆

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以下は上記の本のネタ本と呼ばれる書籍。
新版 文学とは何か―現代批評理論への招待/テリー イーグルトン

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清水氏と言えばこの本。
「思った通りに書く、見た通りに書く」という意味不明な文章作法に対して、「すべては真似から始まる」としごく真っ当な議論から文章作法について教える本。
日本の文章教育や絵画教育の不思議なオリジナル信仰はどこから来ているのか?
達意の文章家が「真似から始まる」と言っている意味を深く考える必要があります。
私の文章作法 (中公文庫)/清水 幾太郎

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純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)/カント

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