2007-05-05 12:29:03

松戸徳川家の住まいだった戸定が丘歴史公園

テーマ:ブログ

徳川幕府最後の将軍徳川慶喜(よしのぶ)の弟、徳川昭武(あきたけ)が松戸に住んでいたことご存知ですか?

徳川慶喜と昭武は共に、第9代水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の子供でした。慶喜は正室の子供で、昭武は側室の子供。慶喜は7男、昭武は18男でした。共に才気溢れ期待された子供だったようです。

徳川昭武は、徳川御三家、水戸藩最後の11代藩主だったことご存知でしょうか?茨城県出身の方だと知っている方が大勢いると思われますが、それ以外の方ですと、余程歴史に興味をお持ちでないと存知上げないのではないでしょうか?

徳川昭武を時系列的に簡単に説明しますと、次のようになります。


1853年 水戸藩江戸中屋敷(駒込)にて昭武生まれる。この年アメリカの使節ペリー浦賀に来航する。

1858年 井伊直弼大老職に就任。無勅許で日米修交通商条約を締結。尊王攘夷思想の志士を粛清(安政の大獄)。井伊直弼、尊王攘夷派の思想的原点ともいえる水戸藩主徳川斉昭及びその子供一橋家当主徳川慶喜に、登城停止・謹慎を通告。井伊直弼、水戸藩を中心とする尊王攘夷派志士(浪士)により暗殺される(桜田門外の変)。

1862年 孝明天皇に通じ、天皇中心の公武合体政治を目指す薩摩藩主島津久光の画策により、慶喜、病がちであった将軍家茂の後見職となる。

1863年 慶喜、朝廷の要請により、禁裏御守衛総督jに就任。尊王攘夷派志士、過激派公家の取締りを行う。

1864年 朝廷の命により第1次長州討伐。慶喜、京都御所警護のために若干12歳の昭武を京都に呼び寄せる。

1866年 第2次長州征伐。慶喜、将軍職に就任。孝明天皇崩御。昭武、慶喜の強い意向により、時期将軍候補として、徳川御三卿の一つ清水家を相続。(14歳)。フランス公使ロッシュの助言により、慶喜、軍制改革・外国公使との会見・留学の奨励等を実行する。

1867年 昭武、将軍の名代としてパリ万博に参加。ナポレオン三世に謁見。パリ万博表彰式に出席。スイス・オランダ・ベルギー・イタリア・イギリスを訪問。各国皇帝らと会見。パリで留学に専念。留学中に大政奉還、王政復古の発令、将軍職の廃止という事態に直面。(15歳)

1868年 明治維新。昭武、明治政府より帰国命令を受ける。帰国後、水戸藩主徳川慶篤急死により、11代藩主に就任。(16歳)。慶喜、江戸城無血開城した後、水戸弘道館にて謹慎する。謹慎が解かれた後は、静岡に転居。以後約30年間こちらで生活。政治的沈黙を貫徹。

1869年 昭武、版籍奉還により水戸藩知事に就任。(17歳)

1871年 昭武、廃藩置県により、水戸藩知事を罷免。これ以降東京向島小梅邸(旧水戸藩江戸下屋敷)で暮らす。(19歳)。

1875年 昭武、狩猟で正月に松戸を訪れる。これ以降、頻繁に松戸を訪れる。陸軍少尉に任官。陸軍戸山学校教官に就任。年末結婚。(23歳)

1876年 昭武、アメリカフイラデルフィア万博御用係として渡米。その後、フランスに渡り再度留学。(24歳)

1881年 昭武、5年の留学生活を終えて帰国。明治天皇そば近くに仕える麝香間(じゃこうのま)伺候の公職に就任。(29歳)

1883年 昭武、水戸徳川家のを当主の座を甥に譲る。隠居を決意。松戸戸定の地に別邸建設を始める。(31歳)

1884年 昭武、松戸の別邸完成(戸定邸)。(32歳)

1887年 慶喜、静岡から東京巣鴨に転居。

1888年 昭武の嫡男定武生まれる。(36歳)

1892年 昭武の嫡男定武(4歳)、水戸徳川家より分家。松戸徳川の成立。明治政府、昭武の勲功により、その子定武に子爵号を授与。以後、松戸徳川家は華族となる。

1900年 慶喜、昭武同様の麝香間(じゃこうのま)勤務となる。

1901年 慶喜、巣鴨から旧水戸徳川家上屋敷近くの小石川に転居。(現在財務省宿舎)

1902年 慶喜、公爵となる。

1903年 昭武、趣味の写真撮影を本格的に始める。

1910年 昭武、58歳を以って永眠。このとき嫡男定武22歳。墓は代々の水戸藩主が眠る茨城県常陸太田市瑞龍山。(水戸光圀晩年の隠居所から車で北へ約15分。)

1916年 定武、東京帝国大学工科大学造船学科を卒業。以後、海軍技術中将等を歴任、日本の造船技術部門で活躍。

1947年 華族制度廃止。

1951年 定武、戸定邸を松戸市に寄付。松戸市、戸定が丘公園として整備、一般に公開。

2008年 戸定邸、重要文化財の指定を受ける。


ところで、徳川御三家水戸藩の江戸屋敷がどこにあったかご存知でしょうか?上屋敷は小石川後楽園(99,753坪)、中屋敷は駒込(54,200坪)白山(97,000坪)、下屋敷は本所小梅(14,700坪)となっており、上屋敷は現在の東京ドーム周辺、下屋敷は隅田川公園周辺にあったといわれています。上記年譜からも分かりますように、1871年水戸藩知事を罷免されてからは、本所小梅の下屋敷に居住していたようです。1881年からは、天皇そば近くに伺候する麝香間(じゃこうのま)勤務となってますから、昭武は本所小梅邸から皇居に通っていたものと思われます。1883年水戸徳川家当主を甥に譲った後は、公務があるときは本所小梅邸から、それ以外の場合は松戸の戸定邸で暮らすというふうに使い分けていたようです。


1892年、昭武の嫡男定武は、若干4歳にして、明治政府より子爵の位を授かり、晴れて華族の一員となります。松戸徳川家はこうして成立することになったわけですが、このことは松戸に華族が居住していたことを意味します。華族の暮らしぶりなど想像も出来ないほどに遠い昔の話になってしまいましたが、華族が松戸に居住していたとは、ちょっとした驚きです。


ところで、隠居後の昭武ですが、慶喜同様、政治的沈黙を固守し、趣味の世界に多くの時間を費やしていたようです。魚釣り、狩猟、焼き物、自転車でのサイクリング。とりわけ、慶喜にしても昭武にしても、写真撮影の趣味は徹底していたようで、撮影から現像まで全部自分で行っていたということです。政治的な沈黙の裏返しとして、失われ行く江戸と変貌を遂げていく明治の今を、写真を撮り続けることによって脳裏に刻んでゆく、そのような強い思いがあったのかもしれません。慶喜は900枚以上、昭武は1500枚以上の写真を撮影したといわれてます。二人の作品は、今日では、時代を知る貴重な文化財となっています。松戸市では戸定館傍らに歴史館を設け、昭武の写真の保存・展示に努めているとのことです。3ケ月に1回の割合で、展示品は変更しているようです。5月の連休の合間に、ちょっと寄ってみましたが、連休ということで、たくさんの人達が見学に訪れ、昭武関連の写真・遺品に見入っていました。当日は、昭武の父斉昭の写真、母万里小路睦子の写真、兄慶喜の写真、京都滞在時代の写真、マルセイユでの昭武一行の写真、ナポレオン3世と一緒に撮った写真、パリ万博会場の写真、戸定邸での慶喜と昭武家族の写真、戸定邸眼下を行き交う江戸川の帆船郡の写真、戸定邸周辺の松戸の風景と人々の写真等が展示されていました。


さて、この戸定邸ですが、平成18年7月5日、重要文化財の指定を受けることになりました。戸定邸は江戸時代の大名屋敷の系譜を引く邸宅で、木造平屋建て、一部二階建ての建物、延べ床面積668㎡(202坪)の広さとなってます。部屋数は20以上あり、板廊下が建物内を縦横に巡り、表庭、裏庭、中庭等が各部屋の中から眺められるようになっています。武家の屋敷らしく、華やかさとか、きらびやかさ、豪華さといったものは排除され、質素な中にも剛健といった風情が住まいの隅々に感ぜられます。慶喜はこちら戸定邸を東京小石川から頻繁に訪れていたようです。自らの手で幕藩体制を葬り去らねばならなかった慶喜にとって、弟昭武の存在は、時代を共有した同志であり、同時に安らぎであったのかもしれません。慶喜のほかには、徳川一門の人々や、華族の人達、東宮時代の大正天皇も訪問されたそうです。こちら建物、110年前の建物ですが、手入れが行き届いているせいか、まだまだしっかりした建物です。建物から眺める前庭と眼下の江戸川の眺めは絶景です。かつてはこの部屋から東京方面を眺めると、遥か彼方まで広がる田園風景が眺められたに違いありません。こちら建物、常時一般公開されてますので、歴史に興味のある方は、見学にいかれてみてはいかがでしょう。最後の将軍慶喜と、慶喜に寄り添うように生涯を生きた昭武が、静かに迎えてくれます。


戸定が丘公園には、この他に、2.3haのきれいに整備された洋式庭園があります。その向こうは千葉大学園芸学部のキャンパスとなってます。








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