日本においてベクテル社はアメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコに本拠を置き、総合建設業を営む多国籍企業。石油コンビナート、発電所、ダム、空港、港湾などの建設を請け負う世界最大級の建設会社で日本においても、あらゆる建設部門に進出しています。いわゆる世界でも最大級の陰謀企業ともいわれています。今までどのようなところを受注しているか・・・参考になるかどうか分かりませんが、日本に大きな災害などがあるとそれを利用する企業と思います。→http://www5.cao.go.jp/access/japan/chans/betten2.html

2017/12/18

弓場清孝

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私のような都会に住む独り者は「カット野菜」というような、どこの産とも分からないしかも次亜塩酸ナトリウムによる洗浄を繰り返され包装パックされた商品をスーパーなどで買って料理して食べなければならないのです。(´・ω・`)

               

私は入院していたどこの病院でも「栄養指導」というのを栄養士さんから受けています。

それによると、どこの病院でも「野菜は一日300gです。」そのうえで「弓場さんの場合はワーファリンを服用されているから、ビタミンkを多く含む野菜と緑黄色野菜は多く摂取しないで下さい。」と・・・・言われています。はぁぁ・・・・?(ノ゚ο゚)ノ

カット野菜の中には、いろいろな野菜が入っています。もちろん緑黄色野菜も・・・

では、どうするか・・・?袋を開けて色の濃い野菜をわざわざ除くのです。こんな面倒な事を毎日繰り返しているのです。(iДi)

 

2017/12/17

文責:弓場清孝

 

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 慰安婦にされた女性たち-フィリピン
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 日本軍は、1941年12月、アメリカ領であったフィリピン・ルソン島へ上陸し、直ちにマニラを陥落させ、1942年1月3日から、軍政を実施しました。日本軍の軍政下で、フィリピン人は激しいゲリラ戦を展開し、抵抗運動を行いました。日本軍はゲリラ討伐を理由に、残酷な作戦を実行しました。フィリピンでのBC級戦犯裁判では、起訴381件の内、住民虐殺が138件、強姦が45件と多数を占めています。
 フィリピンでは、マニラをはじめ、占領地の各都市には軍慰安所がつくられ、日本人、朝鮮人、中国人の慰安婦が送り込まれましたが、現地のフィリピンの女性も慰安婦にされていました。
 
フィリピン地図

 まずマニラ(地図中-2)には、連合軍資料にある警察報告によれば、慰安所12軒、兵下士官用5軒がありました。捕虜の供述では、朝鮮人、フィリピン人、中国人の女性がいる慰安所が5ないし6軒あったとされています。北部ルソン島では、バヨンボン(1)に慰安所がありました。中部ビサヤ地方では、マスパテ島(3)に軍人倶楽部という慰安所がありました。パナイ島のイロイロ市(4)には二つの慰安所があり、1942年には、第一には12人から16人、第二には10人から11人の慰安婦がいたことが確認されています。セブ島のセブ(5)には、慰安所を経営する日本人業者が一名いました。レイテ島のタクロバン(6)には、フィリピン人が経営する慰安所があり、9名のフィリピン人女性がいました。同島のブラウエン(7)にも慰安所が1944年8月までには開設されました。
 南部ミンダナオ島のブツアン(8)には1942年にフィリピン女性3名の慰安所が開設されました。また同島のカガヤン(9)には、1943年2月に第三慰安所ができたので、三つの慰安所があったことがわかります。同島中央のダンサラン(10)にも慰安所がありました。また同島のダヴァオ(11)にも、慰安所があり、朝鮮人、台湾人、それにフィリピン人の慰安婦がいました。

 
 また、フィリピンでは、軍の占領地域で現地部隊が一般女性を強姦した上に、暴力的に拉致・連行して、駐屯地の建物に監禁し、一定期間連続的に強姦をつづけたことも多かったことが証言されています。この被害者達も慰安婦被害者と考えることができます。そのような女性の中には父や夫を目の前で殺された人も少なくありません。
 
フィリピン政府による医療福祉支援事業の評価報告書より全文はこちら

多くのロラ(おばあさん)たちは、日本兵たちによって強制的に自宅から連行された。なかには仕事中や、両親に頼まれた用事で外出した際に連れ去られた者もあった。多くは当時、まだ独身であったが、既婚者も含まれていた。ビコールに住むロラのひとりは、その頃住んでいた村に日本兵がやってきたとき、自宅で眠っていたという。日本兵たちは村中の男たちと若い女たちを集めて村の小学校に連行し、翌朝までそこに留め置いた。彼女たちはその後、そこから市庁舎まで連れて行かれた。また別のロラは、母親に食料の買い出しを頼まれ、近くの町へきていたところを連行された。このほか、マラボンにある埠頭の近くで“シシッド”(ウェット)・ライス(船荷から漏れて海に沈んでいるコメ)を採っていたところを連行されたというロラもいる。

ロラたちは、もとは市庁舎や州政府の庁舎だったもの、個人の邸宅、小中学校や高校の校舎、病院や教会であったものを徴用した日本軍の兵営、あるいは駐屯地に連れて行かれた。ロラのひとりによれば、マニラのある教会では毎夜、そのいたる所で日本兵によって女性がレイプされていたという。ロラの自宅が駐屯地に徴用されたという例もあるほか、慰安婦たちを収容するのにトンネルが利用されていたという報告もある。

ロラたちが慰安婦として監禁されていた期間は、3日間から1年以上と、ロラによって様々であった。4か月以上にわたって監禁されたロラたちが25%、3か月間が17%、1か月間が16%であった。ロラたちはその全員が、監禁されていた期間にレイプされている。ビサヤに住むあるロラは、家にやってきた日本兵たちに家族が尋問を受けている間に、7人の日本兵からレイプされた。そして、その日から7日間、毎晩3人から5人の日本兵がやってきては彼女をレイプしたという。マニラに住んでいるロラのひとりは、拘束されてから1か月にわたってレイプされ続けた。6~7か月にわたって駐屯地に監禁されていたが、この間には週に3日ほど3人以上の兵士がやってきて、彼女を次々とレイプしたという。
 
マリア・ロサ・ヘンソンさんロサ・ヘンソンさんの場合

マリア・ロサ・ヘンソンさんは、1927年12月5日、フィリピンのマニラ近郊パサイで生まれました。大地主の父とその家事使用人であった母の間にできた婚外子でした。1942年2月、彼女は日本兵にレイプされました。そのとき、彼女は家で使う薪を採りに、叔父や近所の人々と出かけたのですが、みんなと離れたときに、日本兵三人につかまり、レイプされたのです。彼女は二週間後にも同じ日本人将校に見つかり、ふたたびレイプされました。彼女は日本軍に激しい怒りを感じ、抗日人民軍、フクバラハップに参加しました。一年間活動したのち、1943年4月、アンヘレス市の郊外の検問所で日本軍にとらえられ、司令部に連れて行かれ、そこで、「慰安婦」にされてしまったのです。

ロサ・ヘンソンさんは、兵舎として使われていた病院に連行されました(フィリピン人元慰安婦のための弁護士委員会)。ヘンソンさんとほかの女性6人が、ここで日本兵たちに性行為を強要されたのです。その後3か月してヘンソンさんは、もとは精米所であった別の慰安所に移されました。日本軍に協力していたフィリピン人から、日本兵のために洗濯をしてやれば金を稼げると言われ、ヘンソンさんとほかの何人かの若い女性たちは洗濯をするようになりました。あるときそのフィリピン人の協力者に連れられて、2階建ての家に連れていかれました。そこには3人の日本兵が待ち構えていたのです。そこには約1年間にわたって監禁されていました。昼の間は洗濯をし、夜になるとレイプされたのです。(ロサ・ヘンソンさんの証言記録はこちら

http://awf.or.jp/1/philippine-00.html
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フィリピン関わってきた者として、この問題は大きくいまでも私の心を揺さぶります。先に旅立った妻とその母も言っていました。今回、マニラの目抜き通りである
ロハス通りの遊歩道に建てられた慰安婦像・・・私は反対はしません。できません。
現在のフィリピンはあいかわらず格差がひどく政治のありかたも問われていますが、それを利用するがごとく口では観光といいつつ日本からも女性を求め、マニラに渡る輩があとを絶たないようです。私もマニラには何度も往復していましたが、恥ずかしい思いも数限りなくしました。妻と一緒の時、子どももいたとき・・
ホテルではペソ札で紙飛行機を作り飛ばす日本人男性・・・
戦中と変わらないような意識がそのような行動に出るのでしょうか・・
2017/12/17
弓場清孝

 
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フィリピンに繋がりがある者としてはっきり言います。「日本軍」がマニラで何をしたか・・・

さらに前の記事のコメントにも書きましたが、、戦後においてさえ、観光はそっちのけで女性目的のツアーで徒党ごとくマニラ向かう恥ずべき日本人男性・・

そして、ここに一つの資料があります。日本軍と日本企業の恥ずべき犯罪行為です。

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戦闘に巻き込まれて亡くなった方も多く、また米軍がフィリピンを攻略して解放していく中でも、沖縄戦と同様に激しい砲爆撃が行われたために、その被害も大きかったと言えます。日本軍による住民殺害などの戦争犯罪による犠牲も膨大な数にのぼりました。
 

石原産業ニ於テ使用シアル日本人ノ比人労働者ニ対スル取扱苛酷ニシテ著シク比人労働者ノ反感ヲ買ヒ且其ノ事ヲ見聞スル者ニ大ナル対日恐怖感憎悪感ヲ与ヘタリ 即チ     

 イ ....日本人監督ノ素質不良ニシテ横打暴行事件続発ス特ニ平手打多シ....     

 ロ 労働者強制徴発ノ強行 労働者募集ニ当リ一部ニ於テ強制徴発ノ止ムナキニ到レリ之ガ為一地方人ニ過ギザル日本人ニ依テ場合ニ依テハ拳銃ヲ○シテ恐迫シ拉致同様ニ引致労働ニ○サシメラレタリ     

 ハ 不良日本人ノ暴行 比人労働者ヲ虐待スルノミナラズ米野菜等ヲ騙取掠奪ス 

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続きは明日書きます。

2017/12/16

 

文責:弓場清孝

 

そもそも、建てられたことに対してとやかく言う筋合いがあるのだろうか

今はどうかフィリピンにいる息子にでも聞いてみないと分からないが、先に逝ったフィリピン人の妻は昔嘆いていた。

バブルの頃、マニラ行きのフィリピン航空に乗ると日本人男性団体客の多くは機内にいるうちから酒をあおり・・・「おんな」「おんな」と酔っ払って叫び・・・女性乗務員をからかっていたのを何度も目にしている。

空港では我先とふらつく足取りで「おんな」「おんな」と言いながら向かえに来ている女性に抱きつきタクシーやジープニーで市内のホテルへと・・・・・

私たち家族は機内でも恥ずかしい思いをしなければならなかった。

これが東南アジアでの日本人の姿なのだ。そもそも、戦時中マニラで慰安婦を奨励したのはどこの国だ・・・・

今日はこれくらいにしておこう

これはバンコクで作られた映画だが・・・・・・

 

2017/12/16

 

弓場清孝

 

 

 

1988年6月25日に岩国基地から飛び立った米軍機の一機が四国の伊方原発のすぐ横の山に激突し、尾根の裏側に落ち機体は大破し、乗組員7名は全員死亡という事故がありました。

あの事故は米軍機による単なる事故だったのでしょうか?

いいえ!あの事故は驚かれるかも知れませんが、あるいは陰謀論だとご批判されるかも知れませんが原発をターゲットにした米軍機による低空飛行訓練だったのです。

低空飛行訓練というのは必ずターゲットを設定する必要があります。米軍機は日本全土の原発を爆撃するために低空飛行訓練をしている。そういうオプションをいつでももっているのです。

・・・・と沖縄国際大学教授の(前泊博盛)氏がおっしゃっています。

これは疑いのない事実でしょう。

さらに話しを進めますと、首都圏の上空というのは、いや、地上に関しても米軍が握っているのです。日本全土も・・・・

例えば、米軍機がなんらかの事故で落ちたら日本の警察は何もできないのです。

とりあえず今回は、ここまで・・・

ご批判どうぞ

2017/12/16

 

文責:弓場清孝

 

これが貧者の夕餉

テーマ:

貧者の夕餉には間違ってもスシなどはない。(´・ω・`)

ご飯は100g、おかずは牛肉が肩ロース切り落としわずかで213円安かったのでタマネギと他の野菜を混ぜて煮てから岩塩をパラパラ・・・あとは、ほうじ茶・・・。

食後にみかん一つ。貧者の夕食とはこんなもの。おまけに病人。(T_T)

2017・12・15

弓場清孝

亀井静香氏のこと

テーマ:

亀井さんとは私が生まれた郷里からそんなに離れてはいない。私がまだ郷里にいた若いころ話しを聞いたことがあります。ところで亀井さんは駒場時代に、まぁ、なんというか動物愛護に反することもやられたらしい。亀井さんの郷里の隣の私が生まれた神石郡においては動物愛護が当たり前なのだが・・・・次の日刊ゲンダイの記事を読んで驚いてしまった。(((( ;°Д°))))

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東大時代、駒場寮に住んでいた時の寮祭で、そこらでウロウロしてた野犬を串焼きにして売ったんです。翌朝、起きたら枕元で女の子たちが「デモを食った、ひどい」とシクシク泣いてる。そのひとりが樺美智子さんだった。自治会が「デモ」と名付けて飼ってた犬を焼き鳥にしちゃったんだな。その樺美智子さんが60年安保で亡くなった。こんな警察じゃいかん。俺が警察に入って叩き直してやると思って、勤めていた会社に辞表を出したんです。

(日米安保妄信はただの屈米 亀井静香氏語る「情けない国」) https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/219076 #日刊ゲンダイDIGITAL

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2017/12/15

弓場清孝