トルコから帰ってから、「イスラム社会」のことをもう少し詳しく知りたいと思うようになった。
そこで探し当てた本が、片倉もとこ著「イスラームの日常生活」(岩波新書)。
著者は、イスラム教の信者ではない。
文化人類学者であり、「現実に生きている社会のなかに、イスラーム原理がどのように存在しているのか。その中に生きる個人個人の生きざまを明らかにしてみたい。しかも、個をたんなる個としてだけみるのではなく、グローバリゼーションの進む地球の文明史的流れという視点をもって、一人ひとりの人間を追いかけてみたい」という思いで本書を書いている。
本書に従って、これから先は僕も「イスラーム」と表記することにする。


僕(たち日本人)がイスラーム社会に対して持っている誤解や偏見に焦点を絞って本書を紹介しようと想う。
が、その前に断っておかなければならないことがある。
ひとつは、この本が上程されたのは、1990年12月だということ。
つまり、今から20年以上も昔に書かれている。
書かれている全てのことが、現在のイスラーム社会に当てはまるという保証はない。
また、イスラーム社会はアラビアばかりではなく、東南アジアやロシア、中国にまで広大な地域に広がって存在している。
すなわち、イスラーム社会としての普遍性とともに、地域性・土着性も混在している。

(人間は強いか弱いか)
僕たちは、イスラーム社会というと条件反射のように「砂漠の民=貧しい遅れた社会」をイメージする。
が、近代以前のイスラーム社会は、学術、文化、産業、経済、社会、技術などすべての面で西洋側を凌駕していた。
西洋のルネッサンスは、イスラーム社会の存在がなければ存在しえなかったという歴史的事実を忘れている。
イスラーム世界に対する西洋人のコンプレックスには根深いものがあるといわれている。
日本人の中国文明に対するコンプレックスに似ているとも。


イスラームからの科学を学んだ西洋は、その後「技術」と結びつき、人間は自然を征服し、支配するものであると考えるようになった。
努力さえすれば人間にできないことはない、人間は強いのだと。
努力しない人間は、ダメなやつ、弱い人間だとして切り捨てられる社会を作り上げた。
その結果、工業化、近代化は飛躍的に進んだ。
が、同時に諸々のひずみをも生み出すようになってしまった。

そんな西洋に対して、イスラームは人間が弱い存在であることを、潔く認める。
人間は本来悪でも善でもないが、弱い存在であると。
ならば誘惑に負けそうになる状況そのものを、最初からつくらないようにすればよいと考える。
性的誘惑に対して男は弱いから、女は肌を見せない着衣を身にまとうことによって、弱い男を惑わさないように努める。
「ベール」はそのためにある。
結婚のときに、「お互いを永遠に愛します」などとも誓わない。
弱い人間の心など、いつ変わるかわかったものではないから。
だから、結婚のときに、離婚のときはどうするのかをあらかじめ取り決め、文章にしておく。


酒も同じ。
弱い人間に酒を飲ませると、なにをしでかすかわからない。
だから、その前に禁酒をしておけば、社会の秩序も保たれ、個人も平安であると考える。
心だけではなく、体もそれほど強くはないという認識もある。
酒どころか、どんなに暑くても、体にわるいからと冷たい水さえ飲まない人もいるという。
(僕は、絶対イスラームにはなれない!)

人間同士の約束事で大事なことは契約をする。
それほど大事でないものは「神の意志あらば」とゆったりと構える。
この二つは矛盾しているようだが、ムスリム(イスラームの信者)にとっては同居しているらしい。
口約束程度なら、あまり重要でないと判断された時は、たいした理由もないのにホゴにされることもあるという。
優先順位は、状況の動きのよって、刻々変化するものだから、というのがその理由。
ムスリムと付き合う気があるのなら、約束をすっぽかされても、文句を言ってはいけない。

過ちを犯しやすい弱い存在である人間に、外から指針を与えようとするのがシャーリア(イスラム法)
このシャーリア、西欧社会からは人権侵害の法であるとして極めて評判が悪い。
だが筆者によると、それは人が行うべき生活の規範を五つの範疇に分けたものだという。
 第一、かならずなさねばならぬこと。
 第二、義務ではないが、した方がよいもの。
 第三、どちらでもようもの。
 第四、禁止ではないけど、しない方がよいもの
 第五、禁止されていること。

どの行為がどの範疇に入るかは、時代によって常に議論されてきたらしい。
保守的な地方と、西洋的な考えを受け入れようとする地域的がある。
また、「義務」と「禁止」の間には、「した方がよい」とか、「どちらでもよい」、「しない方がよい」などのゆるやかな範疇があり、この部分が圧倒的に大きいのだという。
人々は各自の自由な判断によって、けっこうのびのびと毎日の生活を送っているのだと。

シャーリアに対する西洋の側からの批判とこの本の筆者の見方と、どちらが正しいのかという判断材料を僕は持たない。
だが、僕たちが今まで一方的に聞かされてきたこととは異なる見解もあるのだということは知っておいてもいいと想う。

人間の弱さを認めるイスラームにあっては、弱者を切り捨てるといった思想は出てこない。
むしろ弱者の権利が尊重される。
病人、貧しい人、高齢者など弱者とよばれている人に対して、無条件に手をさしのべることが、イスラーム的義務だとされる。
ときには、弱者「がいばっている」とさえみえることがあるという。
弱いものに手をさしのべるのが義務であり、なにかをしてもらう方は権利だと考えているのだから。



イスラームは、近代の西欧が主張したように、人間が自然を征服できる強い存在だなどとは考えていない。
それは、自然の生態系を創造した神への冒涜だと考えている。
また、日本人のように、容易に調和できる相手だとも思っていない。
アラビアの自然は、それほど優しくはない。
せいぜいが、自分自身も大自然の一部として、共存し仲間入りをさせてもらうことしかできないと考えている。

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ヤレヤレ、とんでもないことを、始めてしまった。
一回や二回では終わらないかもしれない(というより、多分終わらない)。
やんぬるかな、だ。
ま、ボチボチやっていくさ。
時間だけは、まだまだ(多分?)残っているだろうから。

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