言葉遊びというか、自分の話を聞いてる相手になんとかウケたいみたいな人間なので、ブログとかを書くとなるとどこか気取った?キャラのようなものを立てて書こうとしてしまう自分と、言ってることの整合性とか納得してもらえる内容かを意識する自分とがいる。
この文章もそう。頭おかしくなりそうなので書きたいように書こうと思います
更新するとわずかながらまだ読んでくださる人もいらっしゃるので、まずは最近のことを書きますと、期待の大学5年生を迎える身としてTOEICと簿記の勉強をなんとか続けています。TOEICは10月に受けたやつが755点でした。800超えなければ人権がないというお声も聞こえてきますが、初めて受けた僕としては素直に喜んでしまいました。タイに4日間語学留学した甲斐がありました。タイはマックが一番おいしかったです。
本題に入りますと、1回目の就活は金融に絞って受けたのですが、今年はもっと多くの業界を見てみようとゲーム作ってる会社や新聞、出版社なんかも応募してみています。いろいろ見ているうちに、これまでの自分の金融の志望動機なんて入社するためのこじつけで、働いてみる前からやりたいことなんて決まってるやつおらんやんという考えに至りかけました。お馬鹿のくせに一丁前に夜も眠れず、あれこれ青い考えを巡らせるうちに腑に落ちた考えに至ったので今回書きます。
いろいろ悩んでいたのは、「なぜそれをやるのか?」といういわば長期的な目的意識をもって日々を過ごすのと、「毎日目の前のことを頑張る」という意識での過ごし方どちらがいいのかということでした。
なぜ金融に行きたいのか?という具合になぜその業界に行きたいのか、そのためには何が必要なのか 逆算みたいに考えて行動しようにも、さっき書いたように仕事としてやりたいこと(向いてること)が分からないからそもそも目的が分からなくなってきて、もうどうしたらいいかわからなくなっちゃった笑
こちらは2時間前の僕です。浅はかですね~。人生の目標というか、自己実現という欲求を満たすために、多くの時間を割くことになる仕事というものはとても大切なのではないかと考えているからです。
一方で、やりたいことがわからない というのは子供じみていて、ごちゃごちゃ考えなくとも実際問題働かなくては生きていけないんだぞ という現実的な考えもあると思います。自己実現の手段としての仕事ではなく、ご飯を食べるための仕事という面を重視していると思います。
ちょっと前に塾で鷲田清一さんの文章を扱ったのですが、近代社会は身分社会からの解放であり、出自が自己を規定するということがなくなったがゆえに、自由となった市民は常に不安定な自己と向き合うこととなったが、自分は何者かという答えのない問いから逃れようと思考停止してはならない。と書いてありました。(権威付け)。賛成です。
なので、「とにかく目の前の毎日を頑張る」というのがどこか、この問いからの逃げ、臭いものにふたのように感じて、最近の僕はあまり好きじゃなかったです。自分の過去を振り返ると、小学生の頃は中学受験をするのは正しいんだ、と塾を信じてがむしゃらに頑張り、行きたかった学校に入れました。大学受験も中学受験と似た感じで、まあ日本一のとこに行けたら何とかなるやろと思ってそこそこがむしゃらに頑張り、失敗しました。なのでこの4年間は、なぜそうしたいのか、何のためにそうするのか論理的なアプローチを心がけ、ふわふわした就活にしっかりと失敗することができました。ほんとクソw
こんな難しい話抜きにそもそもコツコツ頑張るのが苦手だから、コツコツ頑張ることから逃げる自分を正当化している自分がいることも気づいていますが、やはり何か信じられる意図をもって生きていきたいと思っているので、逡巡していました。
そして当たり前と思われそうなことですが、そもそも長期と短期どっちかひとつみたいな考え方が間違っていて、何をどのようにするか決めるときは目的意識をもって、やると決めた後は毎日目の前のことを頑張ればよいのでは!?と気づいてしまいました。当たり前ですよね。
こんなことに気づけなくてあれこれそれらしく考えていたのかと恥ずかしさもありますが、書いてみたことで少し頭が整理されたとは思います。そして当たり前のことに気づけたのが、まだ大学生の時でよかったと思います。俺のモラトリアムとはこういうことだったか!!