2012-11-18 20:08:10

日本世間学会 第28回研究大会で発表して(1) 発表篇

テーマ:エビデンスとしての日本語
前エントリで触れたように、11月10日(土)に開催された日本世間学会 第28回研究大会で、

世間学における指摘と日本語のありかた
~主体性と第三者的視点の欠如をめぐって~


と題して発表しました。

その時のハンドアウトを以下に貼ります(字句の微調整を行ったところがあります)。
なお、ハンドアウト中の日本語に関する指摘は、拙ブログにてこれまで述べてきたことと大きく重なるものであることをあらかじめお断りしておきます。

う~ん。もう少し考えを進めるというか、深めたかったのですが、なかなか思うようにはいきませんでした。しかし、拙発表に対して非常に刺激的な突っ込みと言うか助言をもらえました。その突っ込みをめぐり考えていくことで、これから考察を進めていければと思っております。
(世間学における主張と日本語のありかたとの符合性を確認するという第一の目的はほぼ達することがてきたと思っています。)

次エントリでは、質疑応答の紹介をする予定です(現在、当日の録画・録音資料を取り寄せ中。それを確認してからアップの予定です)。


***************************
1.はじめに
日本語のあり方には、世間学における指摘と符合する点が驚くほど多い。具体的に言えば、日本語には、「長幼の序」・「贈与・互酬の関係」・「共通の時間意識」・「自己決定の不在」・「呪術性・神秘性」・「差別性・排他性」等々の「世間」の特徴とされる性質にぴたりと符合すると言っても過言ではない諸々の文法的特徴が認められる。(注1)


2.世間学における指摘に符合する日本語のあり方
以下、世間学における指摘のそれぞれにつき、日本語との関連を見ていきたい。

2.1 「長幼の序」 … 敬語・人称詞のあり方
2.1.1 敬語体系を持つことの意味

日本語では相手との関係性(上下・親疎)を無視して自然な会話を行うことは不可能である。

(1)(目上の人に対して)
??「これはペンだよ。」
(2)(弟・妹・親友等に対して)
??「これはペンです。」/???「これはペンでございます。」
(3)(目上の人に対して)
??「行く?」
(4)(弟・妹・親友等に対して)
??「行きますか?」/???「いらっしゃいますか?」

日本語には「誰に対してもどんなときにも用いうる」中立的な文体がない。このことはつまり、日本語にあっては「文」を作るそのたびごとに「自分と相手との関係性」(上下・親疎)を意識していることを意味する。
(このような観点から早くに敬語を問題にしたのは、森有正『経験と思想』岩波書店、1977年、p.126~131。なお、初出は「出発点 日本人とその経験(b)」『思想』568号(1971年))
ちなみに、日本語のような「敬語」(尊敬語・謙譲語・丁寧語)の体系を持つ言語は、日本語以外では、インドネシアのジャワ語、韓国・朝鮮語くらいであると言われている(ヒンディ語には尊敬語に相当するものはある)。
(J.V.ネウストプニー「世界の敬語 ―敬語は日本語だけのものではない―」(林, 南編『敬語講座8 世界の敬語』明治書院、1974年)、杉戸清樹「世界の敬意表現と日本語」(『国文学 解釈と教材の研究』1988年12月号)
 
なお、日本語には多様な人称詞が存在するが、その使い分けは、敬語と同様、相手との関係性(相手が上か下か、親か疎か)を反映する。

2.1.2「敬語行動」をめぐる日米比較 
単語レベルの「敬語」の体系を持つ言語は確かにごく少数だとしても、単語の組み合わせによる「敬意表現」なら多くの言語に認められるとし、敬語を日本語の特徴と見なすことに否定的な立場もある(城生佰太郎・松崎寛(1995)『日本語「らしさ」の言語学』講談社、p.149~154)。
では、表現レベルで見た場合、敬語をめぐる日本語の個性はなくなるのだろうか?この点を考えるために、「敬語行動」をめぐる日・米比較を行った研究を見ておきたい。

井出祥子他(1986)『日本人とアメリカ人の敬語行動 大学生の場合』(南雲堂)

調査方法
日米の大学生それぞれ約500人を対象に、日常接する様々な相手に、ペンを借りるときにどのような表現を使うかをアンケート調査し、その結果を分析したものである。

表現と人物カテゴリーの丁寧度
井出他(1986)では、日本語と英語それぞれについて約20の表現を考察の対象とする。そして、それらの表現の「丁寧度」の違いを問題にする。「丁寧度」は、「最も改まった時」に用いられるものの丁寧度を5、「もっとも気楽な時」に用いられるものの丁寧度を1とする5段階評価によるアンケート調査によって算出される。また、人物カテゴリーも20設けられ、その丁寧度も同様に算出される。日米双方とも、最も丁寧度が高い人物カテゴリーは「教授」であり、最も丁寧度が低いのは「弟・妹」であった。

分析の結果とそこから分かること
日本語における特に丁寧度の高い表現としては、「お借りしてもよろしいでしょうか」「貸していただけませんか」等があり、英語のほうでは、“May I borrow”“Would you mind if I borrow”等がある。いっぽう、丁寧度が特に低い表現としては、日本語では、「借りるよ」「貸して」「ある」等があり、英語では、“Can I Steal”“Let me borrow”“Gimme”などである。
井出他(1986)によると、「ある表現をどのような相手に使うか」という観点から見た場合、英語にも一定の使い分けが認められる。すなわち、“Can I Steal”“Let me borrow”“Gimme”等の特に丁寧度の低い表現は、アルバイト仲間や親友や兄弟等の気楽な相手にしか使われないし、逆に、“Would you mind if I borrowed”“Do you mind if I borrow”のような表現は、気の張る相手には使われるが、気楽な相手にはふつう使われないという結果が出ている。英語にも家族や親友などにしか使えないぶっきらぼうな表現と、逆に、家族や親友にはふつう使われない持って回ったご丁寧な表現があることが分かる。
しかし、ここから単純に、英語にも日本語と同じように「敬語」が存在するとするのには問題がある。確かに、上に見たような部分だけを見ると、英語も日本語も変わらないのではないかと思いたくなる。しかしながら、英語では、“Could I borrow a pen?”“Can I borrow a pen?”“Can I use a pen?”等の丁寧度中位の表現では、もっとも気の張る相手からもっとも気楽な相手までのすべての相手にほぼ均等に使われるという調査結果が出ていることに留意したい。さらには、もっとも丁寧度が高いとの結果が出ている“May I borrow”であっても、確かに気の張る相手に比較的使われる傾向は認められるものの、いっぽうで、アルバイト仲間や親友や恋人といった「ごく気楽な相手」にも使われているのである。
それに対して、日本語においてもっとも丁寧度が高いとされる「お借りしてもよろしいでしょうか」はアルバイト仲間や親友や恋人といった「ごく気楽な相手」に使われることなど通常の状況では考えられない。

英語の場合、(たとえ命令・依頼文であれ)①相手が誰であっても使える中立的な表現が存在する。 ②丁寧度が非常に高い表現が「ごく気楽な相手」にも使われることが分かる。これらの点から、英語にも「丁寧な表現」はあるとしても、それは、日本語の敬語におけるような「上下・親疎」の「恒久的な人間関係」と固く結びついたものではない、ということが言える。(注2)


2.2 「贈与・互酬の関係」… 授受に関わる表現
日本語の中には、「贈与・互酬の関係」と深く関わるものとして注目すべき表現がある。
英語なら「give」の一語で表現されるところが、日本語では、自分が相手に「与える」ときには「あげる」、いっぽう、相手が自分に「与える」ときには「くれる」となる。

(1) He 【gave】 it to me. (彼は私にそれを【くれた】。)
(2) I 【gave】 it to you. (私は彼にそれを【あげた】。)

このような使い分けは、世界の言語の中で日本語以外には南アフリカのマサイ族の言語くらいにしか認められないと言われている。
(Newman,John(1996)Give:A Cognitive Linguistic Study.Berlin:Mouton de Gruyter.P.26~27)
中国語や韓国語も英語と同様、「自分」が与え手であれ受け手であれ一つの動詞が使われる。中国語「給」、韓国語「주다(チュダ)」。

そして、「あげる・くれる」のもう一つ注目される特徴として、「良いこと」にしか使われないということが挙げられる。つまり、「損害を相手にあげる」という言い方は基本的にはできない。それに対し、英語の「give」、中国語の「給」、韓国語の「주다(チュダ)」などは「悪いこと」にも使われる。
つまり、日本語の「あげる」と「くれる」の使い分けは、自分が恩恵の与え手側なのか受け手側なのかに日本人が強いこだわりを持つことの現われではないかと考えられる。

さらに、授受益の補助動詞「~てあげる」「~てくれる」「~てもらう」の存在も特徴的だ。日本語では、「相手が自分に対して何かよいことをした」場合には、「~てくれる」か「~てもらう」をつけないことには自然な表現にはならない。
「道に迷っていたら、親切な人が駅まで案内した。」は変で、ふつうは「道に迷っていたら、親切な人が駅まで案内してくれた。」などと表現される。
そして、「~てくれる」「~てもらう」のような授受益の補助動詞を持つ言語もやはりかなり限られた言語だけである。山田敏弘(2004)『日本語のベネファクティブ ―「てやる」「てくれる」「てもらう」の文法―』(明治書院)によると、日本語以外に授受の補助動詞を用いて恩恵性を表わすのは、韓国語、ヒンディ語、モンゴル語、カザフ語などかなり限定された言語に限られる(p.341~355)。(注3) この補助動詞の使われ方も、日本人の贈与意識を考える上で注目される。


2.3 「共通の時間意識(自立した個人の不在)」… 敬語・人称詞・終助詞
2.3.1 敬語と人称詞
敬語と多様な人称詞の存在:文体つまり「語り」のスタイルと言語上の自己規定が「相手」のあり方に依存していることを示す。つまり、「個」が自立していないと言える。

2.3.2 終助詞の必須性とバリエーション

(1)「It’s raining.」

これは、この言い切りの形で自然な「文」として十分に成り立つ。そこに何も足す必要はない。それに対して、日本語の

(2)「雨が降っている。」

は、どうだろうか? 独り言であるならばこの言い切りの形で自然な「文」として成り立つだろうが、相手に向っての発言としては不自然だろう。
池上(1989)「日本語のテクストとコミュニケーション」『日本文法小事典』(井上和子編、大修館)は、相手に向っての自然な発言としては、「話し手と聞き手の間の微妙な対人的な関わり」に応じて、

 (3)「雨が降っているよ」「雨が降っているね」「雨が降っているわ」「雨が降っているの」「雨が降っているぞ」「雨が降っているな」「雨が降っているさ」「雨が降っているよね」「雨が降っているわよ」「雨が降っているわね」「雨が降っているわよね」

など、「たいてい何らかの終助詞のついた発話になる」とする。
そして、「これらの助詞は雨が降っているという事実との関連で、話し手がそれをどのような気持ちで受け取っているかを表示したり(その際、聞き手がそれをどう受け取るかということへの配慮もたいてい含まれているものである)、あるいは、聞き手もすでに気づいているか、いないか、そして、気づいているなら共感を求め、気づいていないなら、注意を喚起するといったふうに話し手の側からの直接の働きかけの気持ちを表示したりする。」と指摘している。

自然な「文」の成立のためには「対人的な関わり」を表わす終助詞の付加が必須的であり、しかも、その相手との関わりの微妙な違いに応じて種々様々なバリエーションを持つ日本語。「ね」をはじめとする終助詞の存在とその用いられ方は、日本人が相手との関係性の中にいかに深く浸かってあるかをしているように思われる。

なお、日本語における終助詞(それ相当の表現を含む)と英語における終助詞相当表現の対比を試みた研究として、泉子・K・メイナード(1993)『会話分析』(くろしお出版)がある。そこでは、日本語の会話においては約9割が終助詞ないしはそれに相当する対人配慮的な表現で終わるのに対して、英語の文末表現において「聞き手めあての感情表現のついたもの」の出現割合はわずか2.26%であったという興味深いデータが紹介されている(p.124~126)。(注4)


2.4「自己決定の不在」…「自発」
「自己決定の不在」とは:
おそらく西欧では、「なるべくしてなった」「いつの間にかこうなってしまった」という私たちの意思決定の仕方は、まるで理解されないのではないかと思う。(佐藤直樹(2001)『「世間」の現象学』(青弓社)p.63)

2.4.1 「自発表現」 ―「場所」としての「私」
日本語では、

(1)「私は~と思う」
(2)「私は~と考える」

という言い方の他に、次のような言い方が存在し好まれている。

(3)「(私には)~と思われる」
(4)「(私には)~と考えられる」

「私」は能動的・積極的に結論を導き出す「主体」ではなく、結論が出来する「場所」となっている。「私」が「主体」ならぬ「場所」になる例としては、次のものもある。

(5)「(私には)星が見える」
(6) 「(私には)雷鳴が聞こえる」

2.4.2 「~ことになる」 ―「主体性」を秘す「私」

(7)「結婚することになりました。」

この表現における「私」も、「積極的に行為する主体」ではなく、結果を受け止める存在になっている。

(8)今度の正月休みにはハワイへ行くことにした。(「自らの意思で主体的に決めたこと」)
(9)今度、出張で中国に行くことになった。(「自らの意思とは別のところで決まったこと」)
((8)(9)例とその解釈は、『中上級を教える人のための 日本語文法ハンドブック』スリーエー)

2.4.3 尊敬語と謙譲語の成り立ち ―「自然発生」を尊び、「行為」を卑しむ心根
能動性・意思性・制御性、くくって言えば、<主体性>というものに対する日本人の深層心理の現れと言えるのが、敬語の成り立ちである。
 日本語では、自然発生に関わる「なる」が「お~になる」(お持ちになる)のように、相手を尊ぶ尊敬語に使われ、主体性や能動性に関わる「する」が「お~する」(お持ちする)のように、自らを卑しめる謙譲語に用いられている(この点を指摘したのは、牧野誠一(1978)『ことばと空間』(東海大学出版会))
※「尊敬」の意味を持つ助動詞の「れる」「られる」のそもそもの意味は「自発」とされている。


2.5空気の支配・所与性 …「S」が析出されない構文的傾向
2.5.1 「空気の支配」と「世間の所与性」とは

「空気の支配」:
問題なのは、その決定が理屈のうえで合理的にではなく、非合理的に「空気」によって「なるべくしてなった」「いつのまにかこうなってしまった」というかたちでおこなわれる点である。(『世間の現象学』p.81)

「世間の所与性」:
(社会は「個人の意志が結集されれば変えることができる」)
「世間」と社会の違いは、「世間」が日本人にとっては変えられないものとされ、所与とされている点である。(略)「世間」は天から与えられたもののごとく個人の意志ではどうにもならないものと受けとめられていた。(阿部謹也(2001)『学問と「世間」』(岩波新書)P.111~112)

2.5.2 日本語における自動詞構文への好み ―非分析的傾向
(以下は、池上嘉彦他(2009)『自然な日本語を教えるために 認知言語学を踏まえて』(ひつじ書房)の池上氏担当部分を基にまとめた。)

1.(子どもがミルクをこぼしてしまって)
「あ、ミルク(が)こぼれちゃったよ。」
⇔“Oh, no, she spilled the milk.”(子どもがミルクをこぼしてしまったよ。)

(参考)「整理したため物が動いているかもしれません。よろしくお願いします。」

2.「彼は戦争で死んだ。」
⇔He was killed in the war.(彼は戦争で殺された。)

英語の方では、他動詞を使うことで彼を殺した主体の存在が暗示される。

3.同様の日英の間の対立は、感情を表す一連の表現の間にも認められる。
日本語では、
「喜ぶ」、「がっかりする」、「満足する」、「驚く」
と自動詞が使われるところで、英語では、
   be delighted、be disappointed、be satisfied、be surprised
と、他動詞の受動態が使われる。
「日本語話者にとっては<自然とそうなる>ものとして受け止められているが、英語話者にとっては<何かがそうさせる>として捉えられている」と池上氏は指摘している。
上に見たような日本語話者に見られる「自動詞構文」への好みから、池上氏は、日英語両話者について次のような傾向の違いを指摘する(前掲書、p.22)。

英語話者:
<起因>に拘り<事態把握>をする傾向が認められる。

日本語話者:
<起因>を考慮外に置いて出来事そのものの<出来>に焦点を当てて<事態把握>を行う 傾向が認められる。
(加藤要約)

また、『英語の発想』(ちくま学芸文庫、2000年。元、講談社現代新書、1983年)において、安西徹雄氏も次のように述べている。

*****
確かに英語は、ある情況ないしは出来事を言語化しようとする時、まずこれを論理的に分析し、分節化して、一個のアイデンティティーをもつと考えられる項を析出し、ある実体的な<もの>として名詞化する(この場合もちろん<もの>とは、単に物ばかりではなく者、つまり人間をさすことも多い―というより、むしろ典型的には動作主としての人間である)。さて、こうして名詞として定着された<もの>が、もう一つの、同じように抽出された<もの>にたいして、なんらかの動作を働きかけ、その結果として一つの情況なり出来事なりが成立した ― 英語は、こういう捉え方をする傾向が強いのである。
 これにたいして日本語は、情況ないしは出来事を、できるだけこれに密着して、まるごとすくい取ろうとする。抽象的に分節化して、実体的な<もの>が、もう一つの<もの>に働きかける関係として捉えるよりは、
あたかも情況が、全体としておのずから成ったというように ― つまり、要するに<こと>として捉えようとする傾向が強い。往々にして、主語を明確に取り出すことさえしないのである。(太字、引用者)
*****

池上氏の「起因」、安西氏の「出来事を成立させる『もの』」とは、他動詞構文の「主語」のことである。

英語においては析出されるその「主語」が日本語においては往々にして析出されない傾向を持つことは、「事態を成り立たせるもの(=起因)」を問うていこうとする分析的な志向の希薄さを意味するだろう。この日本語の構文的特徴としての分析的志向の希薄さと、われわれ日本人が往々にして「空気」に支配されてしまうこと、世の中を「所与」のものとみなしてしまうことは関連すると思われる。

われわれにとって、結果は、「主語」によってつくりだされるものではなく、「自ずから成る」ものなのだ。


2.6 「差別性・排他性」…「自己」中心性と二人称志向性
2.6.1 「自己中心性」と「差別性・排他性」 ― 差別性の背景

2.5で見たように、「出来事を成立させる主体」に関しては、英語がそれを析出しようとする傾向を強く持つのに対して、日本語はそうではなかった。いっぽう、2.1~2.3でとりあげた、敬語や人称詞のバリエーション、「あげる」と「くれる」の使い分け、終助詞の用法などが関わる、「私」と「相手」との関係性については、日本語がそれを積極的に表わそうとするのに対して、英語はそうではない。英語では「主体」と「客体」の関係が問題にされるのに対して、日本語では「自分」と「相手」との関係が問題にされるという対比が成り立つ。(加藤薫(2012)「日本語の構文的特徴から見えてくるもの ―「主体・客体」と「自分・相手」―」『文化学園大学紀要 人文・社会科学研究』20号)

この違いは、両言語における表現主体の「視点」の違いを示唆するものと思われる。すなわち、英語の方は、第三者的視点から事態を把握しようとする傾向が強く、それに対して、日本語の方は、自己中心的な視点から事態を把握しようとする傾向が強いと考えられる。
 上にあげた例のほかに、日本語の自己中心性を示唆するものとしては、補助動詞「~てくる」と受身の用法がある。これらは、「私」と「出来事」との関係性を表す。(注5)

 「世間」に認められる、「他者」を「身内」と「他人」とに分ける傾向は、この「自己中心性」と関わるのではないだろうか。第三者的な視点からはフラットに存在する各人称が、自己中心的な視点においては、自己を中心として色分けされることになるからである。

2.6.2「二人称」への過剰とも言うべき配慮
① 敬語、②人称詞、③終助詞、④あいづち
 自己中心的な視点と二人称への過剰な配慮は通底する。第三者的な視点ではなく自己中心的な視点をとる場合、「相手」の存在は大きなものになる。

2.6.3「三人称」への冷淡な扱い
二人称のための特別な表現が種々用意される一方(2.6.2)、二人称に(さえ)了解可能な内容であれば、主語や目的語等の文の骨格的内容が大胆に省略される。その結果、その場に居合わせる人間でないと何を言っているのか意味不明になる傾向が認められる。

「二人称」に厚く、「三人称」に対して冷淡な日本語の構文的な姿は、身内に厚く、他人に薄情な「世間」のあり方の、原型と言えないか。


3.まとめに代えて -今後の課題
今回の発表では、日本語の構文的特徴が世間学における諸指摘と符合することを見てきた。とりあげた日本語の構文的特徴は、その多くが、単に欧米の言語との比較において言えるというものではなく、同じアジアの国々の言語の中でも特異性が認められるものである。

今後の課題としては、言語類型学的な考察をすすめ、日本語の特徴付けの精度を高めるように努めることと、そのことと関連させつつ、「世間」を成り立たせているものは何なのか?(つまり、「世間」の背景)について考えていくことである。

これまでの「世間学」においては、「世間」と「社会」を分かつものとしてキリスト教の存在が注目されてきた。「社会」の成立にキリスト教の存在が影響していることは確かだとして、その範囲、その程度を見極めていきたいと思う。そのためには様々な方面からの考察が必要となろうが、発表者は「ことば」を手がかりに進めていければと思っている。



(注)
注1 「世間学における指摘」として六つの指摘を取り上げるにあたっては、阿部謹也の著作のほか、佐藤直樹(2001)『世間の現象学』(青弓社)と鴻上尚史(2009)『「世間」と「空気」』(講談社現代新書)を参考にした。

注2 水谷(1985)『日英比較 話しことばの文法』(くろしお出版)では、「日本語のほうは、同じ相手には同じ丁寧さをまもることが多く、英語では相手との恒久的な関係よりも発話の場面と目的によって変わる」とし、14才の姉が弟に、「Could you pass me the salt,please?」という丁寧な依頼文を用いているケースを紹介している(P.194)。

注3 しかも、それらの言語も日本語に比べると用法が限定的であることが山田(2004)に指摘されている。例えば、韓国語は(日本語と文法的に共通する要素が多い言語だが)「~てあげる」と「~てくれる」の区別はなく、また、「もらう」に相当する動詞を用いて「~てもらう」のような表現をすることは通常ないとされている。ヒンディ語も韓国語と同様である。カザフ語は「~てもらう」に相当する形式を持つが、「~てあげる」と「~てくれる」をひとつの形式で表わすという。

注4 なお、「聞き手めあての感情表現」に数えられているのは、
1.“you know”“right”“OK”等
2.付加疑問
3.相手をファーストネームで呼ぶ。
4.“or something”“like”などのあいまいさ、躊躇を表わす表現を文末に加える。
5.接続詞“though”や“but”を文末につけて表現を和らげる。
等のものである(p.124)。

注5 日本語では「母が弟にリンゴを送ったそうだ。」とは言えても、「母が私にリンゴを送った。」とはならず、通常、「母が(私に)リンゴを送ってきた。」という言い方になる。このような補助動詞「~てくる」の用法は、英語や韓国語には見られない。南アジアの諸言語も同様。中国語は同様の言い方があるが、使わないこともできる。ただし、東南アジアの諸言語には同様の用法が認められる(堀江薫,ブラシャント・パルデシ(2009)『言語のタイポロジー ― 認知類型論のアプローチ ―』研究社、p.205~211)。
  日本語の場合、話者が被害者になったときは、「(私は)財布をとられてしまった。」のように、話者が文の主題となり受身文が使われることが普通であるが、そのような場合、英語では能動文が用いられる。日本語に最も近い言語と言われる韓国語も英語と同様である。
なお、日本語における「視点」の特徴については、大江三郎、森田良行、池上嘉彦、金谷武洋氏などが言及している。
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