日々のさまよい

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真名井の社家通りを歩いて命主社へ~初夏出雲行(12)←(承前)



古代出雲歴史博物館は、真名井社家通りのすぐ南側ですが、ぐるりと回り込まないと入り口へアプローチできないため、出雲大社と博物館の間の道を南へ進みます。

そのついでに博物館へと入る前、先ずは出雲蕎麦を頂きました。
やしろやは博物館の目の前にあり、11:00以降開店の蕎麦屋が大半の中、10:00開店という希少なお店です。
食べログ/やしろや




出雲教の背後にある亀山が、そのまま博物館の後方に聳えます。

島根県立古代出雲歴史博物館ホームページ
出雲観光協会/島根県立古代出雲歴史博物館(特集記事)




もう暑くなって、レインコートを脱いでいます。
まだ晴れ間は見えません。

実は、先に申し上げると、この博物館で最も肝心なのは荒神谷遺跡の銅剣358本なんですが、何と1枚もその写真を撮っていませんでした~(泣)

そこで、そのメインとなる展示室の様子を、↓こちらにあらかじめ引用させて頂きます。


まるで大型の高級打刃物専門店のようですが、質量ともに大迫力の展示です。




平安時代を想定した出雲大社本殿
1/10の復元模型。

1980年代に大林組の復元プロジェクトで製作されたもの。
京都大学の故・福山敏男名誉教授が戦前に作成したという、平安時代の本殿を想定した設計図に基づいているとのことです。

2,000年に巨大柱が発見される前にもかかわらず、金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)に則って、3本1組みの巨大柱を想定しており、応力解析モデルによる構造解析をも加えているとのことで、何だかスゴイですね。

現代に置き換えた工期と費用もシミュレーションされて、総工期6年、延人員12万6,700人、総工費121億8,600万円、なのだとか。




こちらは巨大柱の発見によって、現代の建築史家5人それぞれが挑戦した、鎌倉時代を想定する1/50の推定復元模型。

まあ、考証によって大きさや形も様々です。
高さの想定は右奥から、48.0m(16丈)、47.9m(16丈)、43.8m(14丈4尺)、41.9m(13丈8尺)、27.3m(9丈)。




本当に、これほど高くて階段が長かったとしたら、毎日のお祀りは大変だったでしょうねぇ。

御饗を持って今みたいに階段の左右を行ったり来たりしながら一段ずつ昇るとしたら、朝から掛かっても万事整うのは昼頃になってしまいそうです。
何より、国造をはじめ神職は皆さんクタクタじゃないでしょうか…(苦笑)




大社龍蛇の掛け軸。




大社龍蛇の掛け軸、アップ。




大社龍蛇の掛け軸、さらにアップ。




本殿の千木と勝男木。
1881年(明治14年)から1953年(昭和28年)まで、実際に屋根を飾った現物だそうです。

千木は長さ8.3m、重さ500kg、勝男木は長さ5.45m、重さ700kg、とのこと。
それぞれ杉の一木から削り出され、銅板が巻かれていたそうです。




出雲国風土記にある「入海の宴」模型。

入海(中海)沿岸に宴や若い男女の出会いにかかわる場所があり、それは、須恵器を焼いていた大井浜のすぐ近くにあった邑美冷水(おうみのしみず)と前原崎で、これは邑美冷水に集まってきた男女の様子、とのこと。

ちょっと長くなりますが、なかなか面白いので引用させて頂くと、『島根県立古代出雲歴史博物館展示ガイド』によれば、以下のように解説されています。

邑美冷水は、東西北が山に固まれ、南は海が広がっており、中央には沢があって清らかな泉が湧き出ていたと書かれています。そこには老若男女が集まり宴を行っていました。その場所は、現在の松江市大海崎(おおみざき)町の目無水(めなしみず)に比定されています

まず、彼らの髪形に注目してください。放髪(はなちがみ)となっています。古代においては、男女は歌垣の場では放髪が原則でした。現代の合コンがそうであるようにいきなり求愛というわけにはいきません。グループで食事をとったり、音楽を楽しむこともあります。この模型ではそのような場面も再現してみました。細かいところでは、楽器を持ってきた人物に注目してください。琴は人の心をこちらに向ける重要な楽器であり、まつりだけではなく、歌垣の場においても利用された可能性が高いものです

右奥を見てください。談笑する2人の若い女性の背後に老人が近づいています。彼はなぜそこにいるのでしょうか。歌垣にかかわる歌謡や民俗事例を見ると、しばしば老人を題材とした歌が出てきます。たとえば、「自分は今でこそ老いているが、昔は男前だった」とか、「今じゃ孫子に手を引かれ…」とか…。そのような歌謡が詠じられる前提として、実際に歌垣の場において、若い男女だけではなく老人も参加していた可能性を指摘できるのです。とすれば、彼が果たした役割とは何でしょうか? 実はひょうきんにふるまいながら、彼は男女の仲を取り持っていたのではないかと考えられます




そりこ舟。

中海で多く見られた舟で、舳先が大きく反っていることから、この名前がつけられたといわれています。モミの木を割って、中をくり抜いて作った舟で、古代の丸木舟の特徴が含まれています。中海では赤貝(中海で赤貝と呼ばれている貝はサルボウ貝)桁(けた)引き漁に使われていましたが、昭和30年代の赤貝の激減により、舟も運命をともにしました
『島根県立古代出雲歴史博物館展示ガイド』




加茂岩倉遺跡の23号銅鐸。
国宝ですが、たしか本物だとボランティアのガイドさんからお伺いしたような…記憶があいまいです(泣)

※この記事をアップした後で、サチエにどう聞いたか確かめたら、展示品は基本的に全て本物、ということでした。やはりスゴイですね~。




23号銅鐸、アップ。
鹿や四足獣、双頭渦文。




23号銅鐸、裏面。




荒神谷遺跡銅剣埋納シーン推定復元模型。

これも、『島根県立古代出雲歴史博物館展示ガイド』から引用させて頂きます。

当館スタッフが考えている模型の構成原案は、今までの復元イメージとは異なり、必要最小限の参加者で埋納儀礼を行っていることが大きな特徴です。埋納シーンは、大きな根拠はないのですが、神聖な儀式を行うイメージにあう秋の夕暮れ時に設定しています。当時の荒神谷付は、イノシシやシカなども姿を見せる人里から隠れたところだったと思われますので、秘密裏に行われる祭儀にはうってつけの場所です。模型に表現する人は、儀式の執行者である首長(司祭者)、埋納者と運搬者、埋納坑の掘削をする作業者など10名以内の少人数とします。現在より谷が深く地形が急峻なうえ、樹木の伐採範囲も狭いと考えられるからです。
そして、埋納坑では銅剣を7~8割設置して、さらに設置を進行しているシーンを表現します。埋納のための進入路は、当時南側は谷が深く急斜面であったことから、正面からではなく西側の緩斜面から埋納坑に出入りしたと考えますがどうでしょうか? 遺構では上屋のあとと思われる柱穴が見つかっていますが、この時点では露天のままで建物はありません。それから、意外と考慮されない埋納坑の排土置き場を埋納場所のすぐ近くに設定します。
そして、模型に登場する小道具として、銅剣を運ぶための木箱や背負子が必要で、埋納坑を掘ったり、うめ戻したすきりするための鋤(スコップ)も表現したいと思います





美保神社神影図。

美保神社では頭屋制で様々な神事が行われ、その費用を賄うために、神影図などが配布されていました。卵が好きだった八雲は、美保関では卵が禁忌であることを聞き、これを確かめたことが『知られぬ日本の面影』所載の「美保関」に記されています
『島根県立古代出雲歴史博物館展示ガイド』

亀甲に三の字は、美保神社の神紋ですね。




美保神社神影図、アップ。




中央ロビーに展示されている宇豆柱の前で、Mさんとサチエの記念撮影。

平成12年から13年にかけて、出雲大社境内遺跡からスギの大木3本を1組にし、直径が約3mにもなる巨大な柱が3カ所で発見されました。これは、そのうちの棟をささえる柱すなわち棟持柱(むなもちばしら)で、古くから宇豆柱(うづばしら)と呼ばれてきたものです。境内地下を流れる豊富な地下水のおかげで奇跡的に当時の姿をとどめて出土しました
島根県立古代出雲歴史博物館ホームページ




博物館の庭園から八雲山方面を望む。
ようやく晴れてます。




1階のロビーにある「石やん」にまたがって、無邪気に喜ぶサチエ。

一応〝小さなお友だちはのっても大丈夫です〟と案内板にありましたので、小さなお友だちとしてお言葉に甘えました(笑)

受け付けのお姉さんたちは、見て見ぬふりでしょうか…



といういことで、これにて博物館を後にします。
次は、車移動で出雲大社の境外摂末社を巡ります。



(つづく)→ 出雲井社から堀川を渡り乙見社へ歩く~初夏出雲行(14)




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