まりもんの友達の日記をある日読んで、ああそうだ、私もちょっとだけわかるなあ、ということがあったので、書いてみようと思う。
我家の父は今は右半身不随。体の中でいえば、肺は通常の1/4しかなく、大腸も2/3。
寝たきりか、と思えば、自分の体の自由をなんとか取り戻すべく、日々リハビリと、一人でこなせることはこなしているようだ。
母も酸素&メプチンのプッシュがないと生きてはいけないのと、どちらかというと体の自由で考えれば、父の方が自由に動けるのかもしれない。
そんな2人が2人で暮らしているのだから、それこそ父は手助けなしでトイレくらい一人でいけないと、施設に入らないといけないんだろう。
施設入りを拒んだのは母で、いまさらだけど「あのとき辞退はしても取り消しするんじゃなかった」といまさら後悔しているようだけれど、あと3年、再登録できるまでがんばってくれたまへ(冷たい)。
そんな父は、かつてはガタイもよく、あの時代の人にしたら背も高く(180cm弱。今69歳)顔も娘からいうのもなんだけど、ハンサムだった。マイク真木、と評した友達もいたけど、いいすぎ・・・・
ああ、でもツアー旅行とかに行くと、おばちゃま方から色目はよく使われていた。
父は子供の頃は九州で育っていたけれど、父の父は大阪に勤めに出たときにそちらで亡くなってしまい、その当時小学生で長男だった父は、家で飼っていた鶏の卵を山を2つ越え町まで売りに行き、学校に行き、ついでに町でバイトをし、それで家族(母、弟、妹・居候だった父の父の弟夫婦)を食べさせ、スポーツの推薦で自力で高校に行き卒業し、弟や妹が中学に入り、彼らが高校へ行く資金を貯めるため、単身大阪に出て働いたらしい。
弟や妹が無事高校を卒業し、父もいろんな職業を掛け持ちをして色々な免許を取っていたけれど、なかでも一番かわいがってくれていた寿司屋の大将から独学で色々まなび、店を出すための知恵をもらい、免許を取得し、まずは屋台で寿司屋をはじめた。
その頃に母と知り合い、結婚したらしい。
母自身も色々と苦労があって(それはまた今度)、お寿司屋さんなら食べるものには困らない、と思ったのが大きいらしいけれど(笑)、なんとか2人で寝る間を惜しんで働いてくれたおかげで、まりもんたち兄弟が生まれる頃には、きちんと店を持ち、家を持ち、一番末娘だったまりもん自身は全く苦労をせず少女期を過ごせた。
そんな苦労しらずだった少女時代、父はまず最初に胆嚢をとる手術をした。まりもんが小学校3年生だ。
母の親族とともに毎年夏、車10台くらい連なり、どこかに旅行を行く事が恒例だったその頃、ちょうどその旅行中、父の大好きだった焼肉をみなでしていたのに、食がすすまない。本当はかなり体調も悪かったんだろうけれど、全く家族はしらなかった。
旅行から帰ったら、彼はさくさく病院に行き、家族が気がついたときは、胆嚢をとる緊急手術のための連絡が病院から来たまさにそのときで、母などは度肝を抜いた。
一緒に店の下準備をしていたら、ふらりといなくなって、どこにいったんや。とぷりぷりしていたら、病院から電話があったらしい。
ざっくり腹きりをした彼は、1週間後には元気に店に立ち、出前をし、そしてまさにせわかけ娘のまりもんが、ちょうどその頃魚の目がばかでかくなり、足の裏を手術して魚の目をとって歩けなかった。
そんなまりもんを抱き上げて学校に毎朝連れて行き、帰りは迎えにきた。
その後も父は、何度か色々と病気をし、そのたびに不死鳥のごとく、病院のドクターや看護士さんたちがびっくりするくらいのスピードで回復し、がたいがでかいことも、その病院に出前に行くことも多く、また何度も繰り返し手術をしたり入退院があったためハンサムフランケンさんと呼ばれていたりした。
店も忙しく、職人さんを入れても、父もなかなかの頑固もので嫌がり、若い見習いさんが住み込みやアルバイトでいたことはあったけれど、基本的には父が店を回していたので、何度入院して、一般の人が数週間、一ヶ月以上入院したり、病後自重するようなときも、恐るべき回復の後の退院後は店をすぐに開けた。
療養しているから、といって、閉めることがなかった。
退院=大将にもどる、という繰り返しをしていた。
そんな父の一番ショックをうけた姿であったのは、まりもんが16の頃、1回目の脳梗塞で倒れたときだ。
そのときも誰も知らなくて、気が付いたのは、店に注文の電話を入れたお客さんだった。
たまたま、家の電話もしっているくらいの懇意にしてくれていたお客さんだったこともあり、家に電話をしてきてくれたらしい。
「大将、しゃべりかた変でっせ」
その電話をとったのが、まりもんの兄で、よくわからないまま店に行き、様子のおかしい父をみつけた。
口がまわらない。足もとがおぼつかない。手足が震えている。
恐怖を感じて、すぐさま病院に運び、その足で緊急手術になった。
もちろんまりもんはしらない。
学校に行っていたので。
高校生だったまりもんは帰りにかならず店に寄ることになっていて、たまたま試験中だったかでいつもより早く店についた。
もちろん誰もいなくて、軽く鍵がかかっていただけだったので、出前でもいったかな。くらいだった。
遅いなあ、と思っていた頃、電話がなり、あまりにもしつこいので出ると兄だった。
聞くと今、父は手術中だという。
またー冗談すきだねえー と笑っていたら、何度もマジマジ、ほんまや、ほんまや、という。
迎えにいくからそこにいろ。まだ終わらないから、もしかしたらあかんかもしれん、という。予定よりかなり長引いている、という。
正直、まだ信じていなくて、えーーー??と思いながら、兄を待った。
まりもんが病院に行ったとき、すでに無事に手術は終わり、父はベッドで寝ていた。
あれはICUにいたのか?そこらへんは記憶がない。
いつも行っていた入院棟ではなかった。
もっと遠い場所だった。
はじめて術後の父をみて、ショックを受けた。
たくさんのコードにつながれ透明のビニールに囲まれて、さらにたくさんの機械に囲まれて、口も半開き状態の父。
取り乱してパパっ子だったまりもんはおお泣きした。
泣いて泣いて眠ってしまい、気がついたら家の近所の母方の祖母のベッドで寝ていて、まりもんの手を祖母がずっと握ってくれていた。
ショックでショックで、その日は祖母と色々話しをしていた。
それまでも、それ以前も、とても仲良くて、行き来が多かった母方の親族を考えても、こうも入退院をするのはまりもんの父だけだった。
もうだめかもしれない、といった兄の言葉も忘れられず、敬虔なクリスチャンだった祖母とともにキリスト様にお祈りしていた。
父は、周りの感情をものともせず、3ヶ月くらいは入院、療養が・・といわれていたにもかかわらず、1ヶ月後には
「へいいらっしゃい!」
と言っていた。
その後、ハンサムフランケンさんの名の通り、通常では考えられないくらい体を切り刻んでいた。
4回、脳梗塞、脳血管からの出血、肺がん誤診で丸々1つ切り取り(のちにアスベストだったことが判明)、その後怪我で残りの1/2を切除、大腸にも腫瘍がみつかりこれまた悪性と良性の判別不可ながら患部をとるなど、色々繰り返し、そのたびに病院から言われる療養期間の1/3程度の期間で復帰しつづけた。
きっと父は死なないんだろうな、と医師さえも言っていた。
そんな父は今から3年前5,6回目を立て続けにし、6回目にはじめて、切れたらダメな場所を切った。そして、溜まったらダメな場所に血液がたまり、右半身が麻痺した。
舌神経などもやられたので、しゃべることもままならない、といわれた。
すでに感覚が鈍っていたまりもん姉妹は、父が入院したから、といっても帰ることはなかった。
今回はもうあかんやろ、と言って電話口で泣き喚いた母に、一応帰るわ、と話した。(もう姉もまりもんも東京にいたのだけれど)
帰ったのは翌日。
手術が終わり、1日がたっていた。
そして、はじめてそのとき、母も私たちも、そのとき、父の今後を聞いた。
年も年だし、今回はあまりにも場所が悪すぎた。ドクターは、ほぼ寝たきりになる、と宣言した。
すでに姉は色々なことの手腕を発揮できる知恵をつけていたので、老夫婦2人で暮らせるべく、役所その他に奔走した。
まりもんが立場的に微妙だ、ということで一度東京に帰された。(ま、色々ね・・・)
どうするんだろう、このままパパは寝たきりになるのかも・・
などと不安はあったけれど、自分は自分の環境をまもるのに精一杯で、手を出せることはなにもなく、手を差し伸べてくれる福祉にゆだねるしかなかった。
母は、今までの経験以上の父の容態にパニックをおこしていたけれど、姉がすべての手配をした。
やはり父だった。
今回はさすがに退院は長引いたし、右の自由は失ったけれど、トイレに一人で行けるようにもなり、食事も一人でできるようになった。
しゃべりも、少し聞き取りにくいところはあるけれど、会話するのに不自由はない。
老夫婦2人でなんとか平穏に暮らしていた。
そして数ヶ月前、また父は入院した。
感覚がなく動かないはずの右足を複雑骨折していた。
感覚がないので、痛くなかったけれど、ちょっと不自由を感じてPTの先生に相談し、レントゲンをとってわかった。
動かないので、無理して動かして骨折していたようだ。
半身不随になって3年後のため、入院自体が彼には新鮮だったようで、楽しく数ヶ月過ごし、母は数ヶ月の自由を楽しんだ。
つい最近退院したらしく、次はしばらくぶりのデイケア施設の若いおねーさんたちと楽しく週数回過ごせることを生きがいでいる。
どうやら、強靭の肉体の父は、自由を失いつつも、彼本来の強靭さはなくなっていなかったようだった。
この2人に限らず、色々と福祉の事では納得がいかないことが多い。
まだまだ生活を安心して送れるすべはない。
保障してあげることは娘にはかなり難しい。
旦那、という人間にも自分の両親がいて、他人であるまりもんの両親は、心配はするけれど、金銭的なことでは感覚はすっとんでいる。
通常、今の父たちの暮らしなどはショックであったり、心配であったりするのだろうけれど、まりもんにとって、一番ショックで心に残ってしまっているのが、一番最初に脳梗塞をしたあとの父の姿だ。
今後を考えれば、今の2人の健康状態などは、一般的には心配がやまないのが普通の娘なのかもしれない。
だけどあの2人の育ってきた経緯、今までの父を見ていると、今回の不随は、もう休憩しないといけないよ、と神様が下した優しさかもしれない、と思ったりする。
だけど、死や死せずとも訪れる方が大変な不自由な生活は、父だけではなくまりもんの身内ででも痛感している。
あのショックだった父の姿は、今の父の姿よりもショックだった。
生きている、ということは、どういうかたちであれ、姿であれ、希望がある。
でも希望を失ってくれ、という言葉や状態は、一番心につきささる。