おかあさん

おかあさーん

おかあさーーーーん



お母さん

逝っちゃった。。。




泣いても

泣いても

泣いても


涙が枯れることはなく



叫んでも

叫んでも

叫んでも


母は戻ってこない。



わが家を襲った 春の嵐は


わたしにとって

最も大切で、かけがえのない たった一人の人を
連れて行ってしまった──。




なんでー

なんでなのーーー。


こんなに大声で泣けるのか というほど泣き

気が狂ってしまうのではないか というほど泣いた。



人生のなかで

こんなにも悲しくつらい瞬間が

こんなにも早くやってこようとは、考えてみたこともなかった。



時は非情だ。



わたしは

大好きな大好きな母と

(それが私の執着であろうとも)

1日でも

1分1秒でも長く一緒にいたかったのに


どうして待ってはくれないのだろう。

どうして時を巻き戻すことができないのだろう。



それでも

時は、救いでもある。



もう無理!と思った

あんなにも悲しくつらい瞬間も

どんどんと時の彼方に過ぎ去っていこうとしている。


ああ。

「時」の前に、人はなんて非力なのだ。





母の様態が急変したのは

悲しくも わたしが前回ブログをアップした 18日の夜だった。


その日は朝から

今までにないほど穏やかな一日で


意識レベルは低迷しているものの

すやすやと眠っているように見える母に

わたしは少し安堵していた。



ここ2ケ月ずっと

痛がる顔か、しんどい顔しか見てないくらいだったから

あんなにも穏やかな顔の母を見たのは久しぶりだった。


そしてわたしは

母の顔をふき

看護士さんに手伝ってもらって歯をみがき

アロマで足の裏のマッサージをした。



母はというと

朝からいろんな管に繋がれてはいたが

清拭ですっかり身体を綺麗にしてもらい

ロングの病衣に身を包んだ姿は、まるでお姫様のようだった。


荒れていた唇もすっかりぷるぷるになり

お肌のつやもよく


わたしは

母の身体の中の細胞も

同じように生まれ変わっているんだ、、、と信じていた。



それなのに。



23時15分─

母は逝ってしまった。


とっても穏やかに安らかに。



苦しみ続けた 約2ケ月

そして

母の病室に泊まり込み続けた、母との濃密な40日が

あっけなく幕を下ろした。


享年68歳。



若すぎる。


もっともっとお母さんに教えてもらいたいことがあったのに。

これから余生を楽しもうって時なのに。


母と過ごした最後の40日で

わたしは、母から受けた恩を 爪の先ほどでも返せただろうか。。。


ねえ、お母さん。





そして、先週の日曜日。



突然の訃報にも関わらず

母の葬儀には

500人を超す方々が参列してくださった。


葬儀場は

人で溢れかえった。


あらためて

母の偉大さと

父と母が築き上げてきたものの大きさを思い知った。


そして

失ったものの大きさに

わたしは打ちひしがれた。



それでも救いだったのは

最期の時に、母が本当にキレイで穏やかな顔をしていたことだ。


それが

母の本来の表情なのだろう。


今にも目覚めそうで

そして

口元には、柔らかな笑みさえ浮かべて。



お母さん、

本当に綺麗だったよ。





母の病名を


「原発性胆汁性肝硬変」という。


母が47歳の時に発病した、原因不明の進行性の難病で

国の特定疾患に認定されている病気だ。



2月22日に入院した際には

「肝不全 ターミナル期」と告げられた。



信じられなかった。



黄疸が進んでいることは

見た目にも明らかだったけど

母との残された時間が

そんなに迫りきっているなんて、信じたくもなかった。



だって──。



病気が見つかった当時

養生すれば後1年は生きられる という話しだったが


それから19年、母は生きたのだ。



そして

病気のことなど、ちっとも言い訳にせず働いた。


根っからの商売人で

稼ぎっぷりも良ければ、使いっぷりも見事だった。


うれしい事やおめでたい事があるたびに

親戚や友人たちを招いては、大宴会をした。

そのための宴会場だって作った。


管理栄養士の資格を持っていた母の料理は

本当に美味しかった。


そして

家族をこよなく愛した──。



人に心配をかけるのが嫌で

突然の訃報に、周りの人はみな

まさか母が病気を患っていたとは、、、と口々に言う。


いつでも元気で明るく

思い込んだ わが道 を真っ直ぐにひたすら歩きつづけた

なんとも天晴れな生きざま。


気合いと性根の入った すごい人だったなあ。



ぜったいにカナワナイ。

わたしは 本当にヒヨっこだ。



こんなにもわたしを愛し

信じつづけ

命をかけて、守ってくれたお母さん。


これからは

もっと大きな愛で、大きな存在となって

いつでもわたしを見てくれているんだね。





母はきっと、旅立ちの日も決めていたのだろう。


4月18日。

「よいはは」 ってね。


先日お風呂で見たアマガエルは、

「もう天(アマ)に還る。」と言っていたのかな。



そして、葬儀明けの次の日(21日)から

悲しみに暮れる暇もなく

みんな仕事に復帰している。


仕事が大好きで

働くのが大好きで

人に迷惑をかけるのが嫌いだった 母らしい気遣いだ。



おかあさん。



お母さんと巡り会えた奇跡に感謝

そして

ふたたび巡り会う奇跡に・・・☆。



今度は、わたしがお母さんになるね。


そんなヴィジョンを

こんなことになるなんて

まだ何にも知らなかった、桃の節句のセッションで

わたしは垣間見ていたのだ。





『娘さんにこうしてず~っと付き添ってもらえるなんて

本当に幸せですね。そして、お互いに幸せなことですね。』


母の病室を訪れた人は

口々にそう言った。



あの濃密で狂おしく

そして、とても幸せな40日。


悔いはないけれど


もっと「大好き」って言えばよかった。

もっと「ありがとう」って言いたかった。


もっともっと

母のわがままを聞いてあげればよかった。


たくさんたくさん


「おかあさん」って呼んでおくんだった。



家中に残る母の面影に

悲しみが癒えるのには まだまだ時間がかかりそうだけど



潔く、気丈だった母なら こう言うだろう。


『いつまでも めそめそせんと

しゃんとしょーで!』



そうだね

お母さんの旅立ちをお祝いしよう。

そして

わたしは、「今」を思いっきり生きよう!




みなさまからの

たくさんの愛・祈り・ヒーリングのおかげで


母の旅立ちは、とても穏やかでした。


本当に

本当に

ありがとうございましたm(_ _ )m。



最期の時が

あんなにも穏やかで美しかったこと


最後まで

母には生き方を教えてもらいました。



おかあさん

おかあさん

おかあさん


お母さんの娘で本当に幸せだったな~。

母への言葉は尽きない・・・



気高く

強く

優しいお母さん



大好き☆。



ずっとずっと大好きだから。

いつまでもわたしの誇り。



これからはいつも一緒だけど


また


すぐに


会おうね!!






母の旅立ちは

わたしにとって、本当に新しい世界への幕開け ともなった──。



結局いつだって、わたしの背中をおしてくれるのは

やっぱりお母さんなんだね。




あ~た~らしい朝がきた

き~ぼ~うの朝だ


よろこびに胸を広げ、青空あおげ!



さあ

涙をふいて、、、わらおう。