嫌なことに正面と向かってあえてしてみよう!と思いました。

「あまり美味しいと思わないものを食べる」

と、量も自然と減って、身体が軽くなったり1つ何かをつかんだかな、という気持ちになります。

それまで「おいしい!」と、とりつかれていたものに、そうでもなくなったり、自由になります。

 

じゃあ、あっちとこっち、どっちに行こうかな?という時に、あえて嫌だと思う方を「敢えて」!勇気を持って選んでみよう、と思ったのです。

嫌と思うって、何かしらそこにエゴや執着が隠れているはず。だから、そのエゴにあえて挑戦してみる。

さぁ 何が得られるかな?

昨日はサイ大学から10人の学生が来て、セミナーをしてくれました。そこで感じたこと。1人は食事をするときにスワミに捧げてから・・というのを丁寧に12分かけて毎日行った。何か月も続けたある日、食堂の自分の目の前に肉体の姿でスワミが現れた!他の1人は大学に入り、親友ができた、いつもその人と一緒に行動した。ある時からその親友がじぶんから離れていき、とても悲しかった。しかもじぶんは病気をして熱が出た。ダルシャンの前にスワミに手紙を書いた。しかし、具合がわるく、それに遅れて、もう手紙は受け取ってもらえないだろうと思った。その手紙には「スワミ、あなたが私の親友です」と書かれてあった。しかしスワミはわざわざ自分の手紙だけを受け取りにきてくれて、しかも自分の耳もとで「my good frend]とささやいた! このことでわかったのはスワミは、ただ崇めるだけでなく、親友になることを望んでいるのだ、とわかった! ある1人の学生 スワミが亡くなった年に自分は大学1年に入った。1年ヴェーダを勉強した。2年の時朝15分のヴェーダクラスは自分が習ったものばかりやっていたので、行かずにその時間寝ていた。しかし3か月たった時、寝ていたら、スワミの声で「起きなさい!ヴェーダクラスにいきなさい!」と聞こえ、あわてて飛び起きてそこに行った。するとその日から自分の知らないヴェーダが始まっていた。その時はすごい、と思ったが、だんだん「あれは本当にスワミの声だったのか?」と疑いが出てきた。ホールに行っておみくじを引いたら「真の帰依者は私の声を聞く」というのを引いた。!ハーモニウムをひく男子学生のバジャンの声があまりに素晴らしい!ハーモニウムをひく手が魔法のように動き素晴らしい!すべてにしふくに満たされた1日だった

 

 

瞑想の効果なのか、ふっと「いろいろなことが起こったり、いろいろな事をいう人がいたりするけど、本当は全部おなじなんだ」  と思いました。本当は何も変わらないのに、ただそれをいじくりまわしているだけ。 言葉にするのは難しいけど、それをああだこうだと心騒がせるなんてバカみたい。  そんな感覚でしょうか?

以前、インドで病気になり、何も食べずに横になっている時にも同じように、「病気も健康も変わらない」「死ぬというのも変わらない」「もともと何もないのだから何か起これば正反対のことが起こるだけ」 ・・こんな感覚がふっとわきました。

残念ながら世間の雑踏に巻き込まれると、その感覚は消えてしまうのだけれど、「確かにそれが真実」なのです。全てのことを、全ての人をまっ平(たいら)に見られたら、たぶんそれが悟りなのかもしれない。