すんごーーく久々の「自分を分析するシリーズ」です。


今日は記憶について書いてみたいと思います。

勉強は別として、記憶力にはかなり自信のある私でも、さすがに小さい頃の記憶はほとんどありません。写真でみたり、あるいは、両親や親戚に話してもらったことを「実際の記憶」として覚えているような錯覚はありますが、それはやっぱり「錯覚」でしかない。本当に覚えていることって、実は少ないんですよね。


でも、鮮明に覚えていることもあるんです。

2歳から8歳までを過ごしたテネリフェ島時代の記憶で ―細切れであったとしても― いつまでも覚えていること。

例えば、お姉ちゃんと二人で過ごした時間。

2歳違いの私たちは、異国にいたということもあって、かなり仲良し姉妹でした。いつも一緒。あのころから、姉は私の大親友なんです。


近所の郵便局へおつかいでお手紙を出しに行ったはいいけど、ポストの投函口が高いところにあって、どうやっても届かなくて苦労した思い出。さらには、姉の友達宅へ遊びに行ったはいいけど、これまたチャイムの位置が高くて、届かない。。 小さい姉がさらに小さい私をよたよたしながらおんぶしても、全く届かず途方に暮れたのを覚えています。あのあと、通りかかった人が押してくれて無事に家に入れたらしい。「らしい」と書いたのは、そこから先は姉に聞いた記憶だから。。 私は届かなかったことしか覚えてないの。幼いながら、あれは結構ショッキングな思い出として強烈に記憶に残ってるのね、きっと!


自宅の中庭に面した子供部屋で、窓のふちに一人で座って、おもちゃのたて笛を吹きながら自分の世界に浸っていたら、うっかり手を滑らせて、たて笛を下の家の中庭に落としてしまったこと。たしか、緑と白の小さなたて笛でした。あ!!と思ったところで、記憶は終わってる。どうしたっけな、あの笛。。


姉の先生の家に遊びに行ってもらってきたひよこのピーとポー。私と姉がはじめて飼った動物でした。

廊下にダンボールを置いて、その中で飼っていたのだけど、ある日、お母さんを驚かせたくて、お母さんが廊下に来るタイミングを見計らって、わざとピーとポーをダンボールから出して廊下を歩かせ、私はそ知らぬふりして自分の部屋へ。 すると、案の定、びっくりした母がうれしそうに私を部屋に呼びにきて、ひよこたちが自力でダンボールから出てきたことを不思議そうに説明してくれたの。 今でも、たまに母はあのときの話をするの。そのたびに、思う。≪お母さん、ごめんね。あれは私の仕業だよ。≫


どれもこれも、大事件ではないことばかりを覚えてる。

だけど、こういう小さいことが私なりの「自立」だったのかな、と思うよ。だから、覚えているのかもしれないね。うまく言えないけど。。。 そういえば、いたずらの記憶もいっぱいあるなあ。いつか話したいと思います。


もし今また、あの時代を見ることができたら、私は小さな自分から学ぶことがいっぱいあるんだろうね!!覚えている「記憶」には、きっと意味がある。そう思わない??だって、どうしてこんなことを覚えているのか不思議じゃないですか?? そうよ、きっと何かそこには大きな意味があるんだと私は思う。


やっぱり、人間は自分の過去 <原点>に学ぶものだと思う。それが、新しい未来への第1歩かな? なーんて。


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las americas



海外で暮らしていて一番辛いのは、やっぱり大事な家族の死に目に会えないこと。

テネリフェ島に住んでいたときに、父のお姉さん(つまり、私の伯母さん)が亡くなった。くも膜下出血でした。直前まで、生まれたばかりの初孫を連れて里帰りしていた娘一家と楽しく話していたのに、突然倒れ、そのまま亡くなってしまったの。


海外にいると日本との時差があるから、変な時間の電話にはいつもドキっとしたものです。でも、あの日はスペイン時間の夕方に電話が鳴ったの。母が電話口で、呆然としていたのをなんとなく覚えています。私は多分小学校1年生くらいだったので、当時の記憶は途切れ途切れ。でも、連絡を受けた父が急いで会社から帰ってきて、大声で泣いていたのは鮮明に覚えています。


私はお姉ちゃんと二人でお風呂に入っていたんだけど、なんだか出るに出られず、お湯が冷めてぬるくなった湯船にずーっと入ったまま、父の泣き声をそっと聞いていました。


父は家族運がなくて、父親(つまり私の祖父)は父がお腹の中にいるときに病死。母親(私の祖母)は、父の小学校入学式の後で倒れ、そのまま亡くなりました。父は5人兄弟の末っ子だったけど、そのうちの2人は幼くして亡くなり、父は20歳くらい歳の離れたお兄さんと、このとき亡くなった伯母さんと3人になってしまったの。伯母さんは母親が他界したときは高校生でしたが、幼い父のために高校を辞めて、一生懸命面倒を見てくれたんだって。


だから、父にとっては母親のような、そんな存在だったのです。

あのときの、父の悲しみ方は幼い私には本当に印象的で、テネリフェ時代の記憶がほとんどない私だけど、あれだけは忘れることができない。


急いで日本に帰国する手配をしたけど、当時はテネリフェ→日本は本当に遠くて20時間以上かかったみたい。父が電話で泣きながら、「俺が帰るまで頼むから火葬しないでくれ」とお願いしていたのを覚えてる。


こんなときだというのに、死が何かも分からない私は、日本に行くことがなんだか楽しかった。父の実家がある長野は雪が降っていて、温暖なテネリフェに住んでいた私は当然、雪なんて見たことなかったからわくわくしていました。 


でも、今なら分かるよ。父の気持ち。

家族や大切な人を失うことの辛さ。最期に立ち会えなかった悲しさ。

ねえ、みんなは今、傍にいる人を大切にしている?


ああ、なんか感傷的になっちゃった。ワールドカップが始まったからかな。。

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ステンドグラス

久々すぎて、もはや何の意味もない「自己分析シリーズ」。

でも、読み返してみて自分なりに色々と思うところはある。


月日が経つにつれて、バルセロナで過ごした日々はどんどん遠い過去になっていく。。それがとてつもなく寂しく思える日があって、そんなときってどうしたらいいのかな?


昨日は、バルセロナ時代の友人からメールがきた。インターナショナルスクールのひとつ下の学年にいた女の子の幼い娘が、今癌と闘っていて、みんなで少しでもサポートしてあげたい、という内容だったの。その女の子自体は私はあまり交友がなくてよく知らないのだけど、こうして遠く離れている私にも知らせてくれる友人に感謝した。


普段、会社に行ったり、友人に会ったり、家で彼や犬たちと過ごしたりする日々に存在する私と、バルセロナ時代の私は、どうにも繋がらない気がする。

同じ「マリ」であることに変わりはないけど、接点があまりにもなさすぎて。。。 いきなりポッと東京に舞い降りて「さあ、今日からあたなはここで暮らすのです」と背中を押されて、そして今に至る。唐突すぎて、慣れたのだか慣れていないのだか、未だによく分からないときがある。


日々の生活に疑問を感じて生きているわけでもないし、今の生活も周りの人々も全部大好きだし、満足しているの。 ただ、バルセロナのことを思うと、今あるすべてのものが一気に遠い世界へ飛んでいって、私は一人、バルセロナの世界に取り残された気分。うまくいえないのだけど。。。


これは永遠のテーマかもしれないなあ。

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どこまで書いたのか分からなくなっていたこのシリーズ。。 (シリーズの過去記事はプロフィール欄の『マリを分析するシリーズ』から読むことができます)


大学時代のわたしのことでも書きましょうかね。

私立大でスペイン語を勉強することになったわたし。はっきり申し上げて、最初の2年くらいは授業をなめていました、スペイン語の授業はね。。。「Hola! Que tal? Bien, y tu?」、はい!完璧!


でもでもでも。語学以外の歴史やらなんやらというのはですね、言葉は関係ないのですよ。これはね、さすがに受験戦争を潜り抜けてきただけある、周りの学生の方が断然得意なわけです。ああ、苦しかった!!西概史(スペインの歴史)!!!先生にも「おや?〇〇さん(わたしの名字)はスペインにいたのにそんなことも知らないの。(失笑)」と嫌味を言われ、さんざんな目に!


最初の年、西概史の期末テストをクリアできる自信がゼロだったわたし。最後の最後まで悪友A子の家に泊まりこみでジタバタとしたわ。。そして迎えたテスト当日。


A子と2人、暗い気持ちで大学へ行くために家を出た。そして、歩きながらどちらからともなく


「ねえ、テスト受けるのやめない?」(悪魔の囁き。。。)

「うん。やめようか。。」

「うん!!!やめちまおう!そうだ、やめちゃえー!!!来年またがんばろうぜ!」(悪魔に完敗!)


ということで、超すっきり気分で、2人でテストを放棄、カラオケへ迷わずGO!あの思い切りのよさ、今でもわたしの誇りです。ちなみに、A子もB型。ぎゃははー。

まあ、翌年はさすがに同じテストを落とすわけにいかず(退学になるので)、2人で泣きながらテストを受けたけどね。。。


4年の大学生活でわたしが気がついたこと。

それは、わたしは「暗記することが嫌い」ということ!!いや、ほんとうはとっくに気がついていたのかも知れないけど、見てみふりをしていたのかも。。


高校のときは、とにかく授業が大変で暗記が嫌い!なんて言っていられなかったけど、日本の大学に入って、なんというか、あのゆるゆるな授業システムに、もともと怠け者だったわたしは完全に負けたのでした。。。もっとスパルタな環境に自分を置くべきだった?!


しかしながら、プラスの発見もあったの。

それは、わたしは「文学が好き」ということ!文学の授業はほんとうにだいすきでした。いつも一番前の席に座って、一生懸命お勉強したよ。理屈ではなく、暗記でもなく、ただ惹きこまれるがままに理解していく、というのがわたしには合っていたのだなあ、と。それに、文学は思想だから人間味が溢れているし、あらゆる側面からひとつのお話を見ていくということが好きなんだね、わたし。


大学生活を終えて、一つだけ後悔していることがあります。

大学に入学するとき、父にも先生方にも言われたことがありました。


「あなたは、スペイン語がみんなよりできる。だから、スタート地点がみんなとは違うのです。例えば、いまみんなとの差が100あったとしたなら、卒業する時にも、あなたはその100の差をキープできているように努力していかなくてはいけません。それが、あなたがこの大学でやるべきことなのです。」


けれど、わたしは怠け者だったために、その100の差は、日々縮まっていき、卒業時にはほぼ同じになっていたでしょう。今では、わたしを抜いていった生徒もいるかもしれない。努力をしなかったわたしの愚かさを痛感しました。まさに、「ウサギとカメ」な気分。


浅はかなことに、わたしはそう言ってくれた先生や父の言葉の意味を深く受け止めていなかったのね。でも、プラスに考えるのであれば、気がついただけでも良かったと思う。後悔している自分がいることは、すばらしいチャンスなんだと思うから。


最近ではお勉強する気持ちが今までにないくらいふつふつと沸いてきているんです。その気持ちを忘れないように、勉学に励みます。「不言実行」でがんばるわ。ある程度、報告できるときがきたら、みなさんにも報告するね。がんばるよ!





すごく久々の「自分自身を分析するシリーズ」です。

バルセロナでの生活に別れを告げ、日本での新しい生活がスタートしました。通常、日本の学校は4月にはじまって翌年の3月に終わるわけだけど、欧米では9月から翌年の6月というのが一般的です。当然、6月に高校を卒業する私は、日本の大学に入学する場合は一年遅れることになります。

そんなわけで、翌年の4月、父親の陰謀(?)もあって、哲学を専攻したかったのにスペイン語学科がある大学を受験させられ、入学することに。ひどいんですよ!

「スペイン語学科のある大学を受験してくれたら、ご褒美にバルセロナ旅行に行かせてあげる」

バルセロナにどうしても帰りたかった私は、「受けるだけなら」って約束して受験したのに、いざバルセロナに行こうと思ったら、

「マリが滑り止めで受けた大学の入学金を払ったでしょう?あれはもう返ってこないわけじゃない?悪いけどバルセロナはまた今度ってことで。。」

やられた!!!!そんなこと、最初から分かっていたくせに!!!

さらに、さらに。
受験したスペイン語学科に受かってしまったのです。そしたら、

「お父さんはあの大学しか学費は出さないよーだ。いひひ」

だって!
こうして、父の思惑通り、哲学ではなくスペイン語を勉強することになったのです。 ね、ひどい話しでしょう??

最初は、何で今さらスペイン語を勉強しなくてはいけないのか分からなかった。でも、色々と考えてみたら私はスペイン語は話せけど、スペインの歴史や文学などはそれまで一度もちゃんと勉強したことがなかったのです。それに、スペイン語自体も自然に覚えたので、「何でこの文法はこうなるの?」って聞かれても「分からないけど、とにかくそうなの!」としか答えられなかったのです。 この際だから、スペイン語をちゃんと基礎から学んで、文学や歴史も勉強してスペインをもっと理論的に知るというのもいいかもしれないなあ、って思うようにしました。

そんな私の決意も知らず、入学一日目に衝撃的なことが!
クラスメートの女の子に、初対面だというのに

「ああ、あなたがスペイン帰りの『帰国(子女)ね』っていうかさ、スペイン語喋れるくせに何でわざわざスペイン語学科なんて選ぶわけ?」

と冷たく言われたの!ひえー。こわい!!!

確かに、受験戦争を勝ち抜いてきた彼らにしてみれば、私なんて「楽に大学に入って何なの?」みたいな気持ちがあったのかもしれない。

だけど、聞いて!!
「私だって、高校時代は死ぬほど勉強したんですよ!日本の大学を受験するために数々のアメリカの国家試験を受けたし、高校は英語で授業なので何一つとして楽だった授業なんてないのよ!!その成績が大学を受験する際に必要な「成績証明書」と先生からの「推薦状」に反映されるから、何も楽に大学に入ったわけじゃないのよ!!」

って、あのときは言えなかったなああ。。くぅーーーー。

バルセロナで暮らした時代。
それは私がもっとも「日本人である」ことを意識させられた時代でもありました。

海外で暮らすとき、私たちは自分たちが自国の国旗を背負っているのだということを忘れてはいけないと思うのです。なぜかというと、自分が起こす行動が日本人全体のイメージにつながるからです。

例えば、私がスペインで盗みを働くとする。
日本ならば、私の家族は白い目で見られて肩身の狭い思いをすると思うけど、それ以外の方々に迷惑をかけることはないですよね。でも、異国だと私の行為は、現地に住むほかの日本人の方々だけではなく、日本国民全体の印象を大きく損なう恐れがあるのです。下手したら「日本人はみんな盗人だ!」なんて思われてしまう。そして、何の罪もない日本人がスペインの街を歩いているだけで、警戒されたり、ひどいときはリンチにあったりすることになってしまう。。。

スペイン人にとって、私は、「私」という人間である以上に「日本人」なのです。考えてみれば、日本で海外の方が事件を起こしたとしたら、その犯人の名前は忘れてもどこの国の人かということは覚えているものです。

「ああ、あの○○人ね」

って感じで。。。イメージって怖い。こんなことを言っている私だって、例えば中東の人を地下鉄で見かけたら身構えてしまうかもしれない。。。イメージは本当に怖いんです!!

だから、私はスペインにいるときは、日本にいるとき以上に自分の行動に慎重になりました。もちろん、私という人間を良く知っている友人や知人の前では素の自分を出せるけど、やっぱり公の場では日本人の名に恥じないように、って自然に考えていたと思う。

よく海外に行って羽目を外す日本人観光客の話を耳にします。私はとっても残念に思う。「知り合いもいないし、海外に来た時くらいちょっとバカなことしてもいいじゃん」なんて浅はかな考えはしてほしくない。海外に行った時こそ、羽目なんて外すものじゃない。

愛国心とかそんなレベルではなく、自分の身を守るためにも、つねに自分がどう思われているかということに敏感になるべきだと私は思うのです。

ちょっと堅い内容になっちゃったなあ。。。
そんなわけで、バレーボールや仲間や友達や修学旅行など、たくさんの未練を日本に残し、再びスペインへ。今度は、バルセロナに住むことになりました。

バレーボールができなくなってすっかり元気のなくなった私のために、父が地元の私立の小学校に頼み、特別にその学校のバレーボールチームに入れてもらえることになりました。

ところが!
超、弱小チームだったのです。サーブは入らない、レシーブはできない、アタックもできない。。。とにかく、ダメダメチームだったの。しかも、日本に帰ってすっかりスペイン語を忘れていた私は、チームメートともなかなか打ち解けられず、かなりブルーになりました。

練習は週に3回。日本人学校の授業を終え、夕方の18:00くらいからその学校に通って練習に参加していました。だんだん、いくのが本当にいやになって仮病とかてきとうなウソをついてサボりました。でも、母はそんな私を許してくれなくて、

「頭が痛い??でも、バレーボールは行きなさい。あんたは日本にいるときは熱が出たって練習に行ってたでしょう?」

ちっ。

そこで、今度は練習に行くフリをして近くの公園で時間を潰すようになりました。 チームが弱いのもいやだったけど、結束の固かった日本のチームメートと比べてしまい、どうしても輪の中に入れなかった。仲良くしてくれる子もいたけど、物足りないなあ、って感じ。そして、さみしがりやの私は余計に行きたくなくなっちゃったのです。

ある日、私は父に涙ながらに訴えました。とにかく辞めたかったから「チームメートにいじめられていて精神的に辛い」って話を大袈裟にして。。。

それを聞いていた父は、私がそこまでしてバレーボールを続ける意味はないと判断し、翌日早速、コーチと話をして私の退部を決めてきました。

私は辞められたことがとにかくうれしく、父の報告を聞いてとりあえず悲しそうな顔をしてみたけど、すぐに忘れ、解放された喜びで有頂天になってしまいました。テレビを見ながらゲラゲラ笑っていたら、

「おまえ、ふざけるな!!」


突然、父がぶちきれました!

「今日、お父さんは学校に行ってマリが辞めたがっていると話した。コーチは理由が知りたいといったから、オレは正直にマリがいじめられていると伝えた。そしたらコーチは怒って、チームメートを全員集めて説教をはじめたんだよ。その話を、黙って聞きながらみんな泣いていた。『マリがそんな風に思っていたなんて。。。』ってショックを受けていたみたいだった。お父さんは彼女たちを見ていたら涙が出てきたよ。」

「今ごろ、彼女たちは相当落ち込んでいるだろう。それなのに、おまえは何だ!もっと人の痛みが分かる人間になりなさい!」



私は言葉が出なかった。
なんて浅はかだったんだろう。。自分の身勝手な作り話で、みんなを傷つけてしまった。

「人の痛みを分かる人間」
正直、その意味をあのときは良く理解できていなかった。でも、それ以降、何かあるたびに父の言葉を思い出すようになりました。今でも、自分のわがままで他人を傷つけてしまうことがあると思う。これは一生の課題かなあ。。。

再びスペインへ引越すことが決まった小学校6年生の夏。

そのころはバレーボールもレギュラーになって試合にバンバン出ていたし、友達もたくさんいたし、好きな子もいたし、それに11月に修学旅行を控えていたので、私はひどく落ち込みました。。。

バレーボールの仲間とは、つらい練習を一緒に乗り越え、試合に勝つ喜びも負ける悔しさも、すべて共有し分かち合ってきた。すごく大事な仲間で、私は彼女たちと一緒に卒業したい!って心の底から思いました。一緒のチームにいられるのはあと半年。せめて、卒業するまでは日本に一人で残りたい!って両親にお願いしました。

父も母も、私がどれだけバレーボールに熱中していたかを知っていたし、卒業まであと半年というこの時期に私をスペインに連れて行かなくてはいけないことを心苦しく思っているようでした。

そんな両親の気持ちを私は痛いほどわかっていたけど、どうしても残りたかった。
今思えば、小学校6年生の私が一人で日本に残るなんて無茶な話だなあって思うけど、当時はどれが滅茶苦茶だろうと何だろうと、とにかく「卒業まで残る」ということしか考えていなかった。

両親も多分、すっごく悩んだと思う。私たちのマンションの部屋は、父の会社の方がスペイン赴任中は住んでくれることが決まっていたので、「いっそのこと、マリだけとりあえず半年間、面倒見てくれるように頼もうか」という話し合いも夫婦で毎晩のようにしていたみたい。

でも。ある土曜日の午後。
私がひとりで家で留守番していると、父がふらっと家に帰ってきた。
変な時間に帰ってきたので、すごくびっくりしたのを覚えている。

そして父が話し出した。

「マリちゃん。お父さんもお母さんもマリには本当に申し訳ないと思っている。だけど、お父さんもお母さんも、まだ小学生のマリを一人日本に残してスペインに行くことは、とても心配なんだよ。これから新しい土地へ引越し、新しい生活が始まるという節目に、お父さんはマリにも一緒にいて欲しい。だって、家族なんだもの。」

ふと見ると、お父さんは目から大粒の涙を流していた。
その涙を見て、私は両親へ申し訳ないことをしたと思った。
わがままを言って、苦しめてしまった。。。
「もう日本に残るのはあきらめよう」。一瞬にして心の底からそう思った。
家族は、協力して支え合っていかないといけないんだ。犠牲になったとか、そんな考え方はしてはいけない。うまくいえないけど、私は、スペインに行くことがまだ小学生の私にできる、唯一の親孝行なんだなあ、って思ったの。

こうして、私はバレーボールへの想いを日本の土地に残し、再びスペインに行くことになったのです。


さて。私は習い事が本当に嫌いでいつも挫折する少女でした。
テネリフェで習っていたバレエは、すぐにトゥシューズが履けるわけではないことを知って一気にやる気が低下し、姉を巻き添えにしてサボりまくっていた。日本で習わされたお習字は、通うのが面倒くさくなって、またまたサボりまくってた。

でも、唯一私が熱中したものがあります。
バレーボール。

小3から習い始めたバレーボールは、コーチがとにかく厳しくて、かなりのスパルタでした。月、水、金と、週3日間18:00-21:00まで「夜練」があり、毎週日曜日は朝9:00-18:00までみっちり練習がありました。しかも!練習中には休憩が1回しかなく、飲み物もそのときしか飲んではいけなかったの。さらには、持参可能は飲み物は水かお茶だけ。日曜日の練習のときのお弁当はおにぎりのみ。ひえー!

風邪でもひいて練習を欠席しようものなら、鬼コーチから

「もう2度と来るな!」

と怒鳴られる始末。
そんなわけで、私はどんなことよりもバレーボールを優先していました。

最初のうちは、コートになんて入れてもらえず、ひたすら一人で隅っこで壁当てとか、アンダー&オーバーの練習。でも、コーチはちゃんと見ているので、ちょっとでも手を抜くと、遠くからコーチの恐ろしいアタックが飛んでくる。。。

すぐにレギュラーになれるわけじゃないのに、バレエと違って、やめたいなんて思ったことなかったな。それどころか、早くうまくなって試合に出ることだけを目標にひたすら練習しました。

母親いわく、あのころの私はそれまで母が見た私の姿の中で、一番輝いていたらしい。目がキラキラしていたんだって。ほえー。

小6のときに、またスペインに引越すことになるまで、1回も練習を欠かさなかったよ。長野のいとこの結婚式すら「練習があるから」って家族で一人だけ欠席したくらい。ごめんなさい。。。。

あんなに熱中できるもの、あれ以来見つかっていない気がする。
あれは本当に私だったのかしら???


テネリフェでの生活が永遠に続くと思っていた幼少期。突然、日本に帰国することになった。出発日は、何と私の8歳の誕生日。誕生日会をすごく楽しみにしていた私にとっては、あまりにも残酷でした。

まあ、でもとりあえず日本に帰国した私。
そして4月、私たち一家は神奈川県に引越した。
マンションの隣の家には、Tくんという同じ年の男の子が住んでいた。偶然、クラスも一緒になったので、当たり前のように一緒に登下校していた。そんなある日、Tくんのシャツの襟がねじれていたので、私は

「Tちゃん、襟が曲がってるよ」

って、直してあげたの。その瞬間、クラス全員が固まり、直後、一斉に騒ぎだした。

「こいつらできてるんだぜー。一緒に学校に来てるしさ~!」

え???
何が何なのか分からなくて、戸惑ってしまった。
それまでの私にとっては、友達と一緒に家に帰ることも、襟が曲がっていたら直すことも、当たり前のことだった。相手が男の子だとかそんなこと気にしたことなかったのです。なのに、こんなことが騒がれるなんて。。。ものすごいカルチャーショックでした。

それが人生最初の日本の小学校での強烈な思い出。あのときのTくんのシャツの色や模様まで覚えているくらい衝撃的だったわ。

そして、自分の行動でからかわれてしまったTくんに申し訳ないと思って、心が痛んだ。良かれと思ってしたことなのに、とんでもない目にあわせてしまった。。。

私の常識=みんなの常識、じゃないんだ。
そう思うと、私はこれから一体、どんな風にまわりと接していけばいいんだろう?ってすごく不安でした。自分の全てに自信が持てない時期が数ヶ月ほど続いたわ。

あれから大分時代は変わったと思うけど、今の小学生ってどんな感じなのかしら??とっても興味があるなあ。