2009-03-30 21:51:22

第五話

テーマ:【小説】「下天」

========== 足利義昭 ==========

 16世紀も半ばの頃―――――

 覚慶、という僧が興福寺という寺にいた。

 興福寺の、一乗院門跡というところで修行をしている。
 修行といっても、形ばかりのものである。

 この時代、「門跡寺院」と呼ばれる、特殊な仏閣が存在した。
 門跡寺院の存在意義は、精神修養にない。

 それは、貴族達の「避難所」として機能していた。
 以前にも述べたが、この時代「家督相続」というものは、莫大な利権を手にすることを意味していた。家督を相続し、家長となったものは一族が所有する家屋、財産、家臣など、あらゆる富と権力を一手にすることができる。
 このため、親戚間での争いが耐えない。
 家督を相続するためならば兄弟肉親でさえも容赦なく抹殺する。それがこの時代の流儀であった。
 
 だから、貴族の家に生まれたものは常に生命の危険に晒される運命にあった。本人が家督に興味あるかないか、ということは関係がない。野望をもった家臣の権力闘争に利用され、神輿に担がれてしまえば嫌が追うなしに争いに巻き込まれる。

 そこから逃避する方法は、ひとつしかなかった。
「出家」である。

 頭を丸め、僧となることで権力闘争に参加する意志のないことを示すのである。
 
 このような動機で門跡寺院に「避難」してきた者たちは、信仰心を持たない。仏を求めて僧になったわけではないのだから、当然と言えば当然である。
 覚慶もそのくちであった。
 覚慶は足利家の生まれである。つまり、将軍家の正当な王位継承者だ。
 だが、既に将軍には兄である足利義輝が就くことが決定していた。無用な争いを避けるために、両親が幼い頃に覚慶を仏門に入れたのだ。

 ところが覚慶は僧として一生を仏の道に捧げられるような男ではなかった。
 覚慶のなかには、強烈な「武」のエネルギーが内包されていた。
 それは野心となって、覚慶の中で燃え続けていた。
 どちらかと言えば凡庸な足利一門の中で、覚慶は異質な存在であった。或いはその野心と飽くなき闘争心、欲望の量は、室町幕府の開祖足利尊氏に次ぐかもしれない。
 覚慶は、日々を悶々として暮らしていた。
 暴走しそうになるエネルギーの捌け口を男色に求め、幾人もの稚児を手篭めにした。
 
 この男に転機が訪れたのは、1565年・永禄の変の時である。覚慶は28才になっていた。
 謀臣松永久秀・三好三人集らが、軍事クーデターを起こしたのだ。
 このとき、覚慶の兄足利義輝は惨殺された。覚慶の母慶寿院もまた、この紛争に巻き込まれて死んだ。
 松永久秀の魔の手は覚慶にも伸びた。だが、覚慶だけは殺されず、興福寺に幽閉された。
 久秀は興福寺の持つ影響力を恐れた、と言われている。
 鎌倉時代から興福寺は武装勢力であった。僧兵たちが寺を守っていたのである。門跡寺院であるところの一乗院に在籍した貴族あがりの僧たちは、僧兵たちに守られていた。仏門に入った貴族達の家族が、莫大な資金を興福寺に提供し、この軍事力を維持している。
 その軍事力は、松永久秀らを脅かすほどであった。

 加えてこのとき、幽閉されていた覚慶を助け、脱出させようと企てるものがあった。
 足利義輝の家臣・細川藤孝の一派である。
 兄義輝を殺され、末弟の周嵩をも殺された今、足利家の政党王位継承者は覚慶の他にいなくなっていた。このため細川藤孝は、なんとしても覚慶をして将軍家を守り抜く必要があったのだ。
 松永久秀のクーデターが成功し、室町幕府が潰されれば、足利家の家臣団は職を失うのである。
 権力と富の維持のために、自分と部下を食わせていくために、なんとしても、覚慶をトップに立てねばならなかった。

 それは覚慶にしてみれば、千載一遇のチャンスであった。
 覚慶はこのときを、今か今かと待ち続けていたのだ。
 彼は、僧としての生活に飽き飽きしていた。
 覚慶は権力を渇望し、ひたすら神に祈った。
 その願いが聞き届いたのだろうか―――?彼は歴史の表舞台へと舞い戻った。
 覚慶の家族は皆、松永久秀によって惨殺されている。
 しかし、覚慶の中には久秀に対する憎しみはなかった。寧ろ、心の底では松永久秀に感謝さえしていた。
 それほどまでにこの男は、権力に飢えていたのである。

 覚慶は細川藤孝らの手を借りて興福寺を脱出する。
 この時から、覚慶は室町幕府最後の将軍、足利義昭としての道を歩み始めた。


(続く)



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2009-03-15 15:14:33

第四話

テーマ:【小説】「下天」

========== 応仁の乱 ==========


 紛争は続いている。
 最早、畠山家の家督争いなどは名目上のものでしかなかった。 

 山名宋全と細川勝元の権力闘争という、本質が剥き出しになりつつあった。
 否、最早それさえも曖昧なものに変化しているかもしれない。
 この戦いの求心力となっているものは「私怨」であった。
 宋全と勝元の間にある私的な憎しみだけが、この紛争を支えていた。


 俗に「応仁の乱」と呼ばれている戦いは、ここから始まる。

【東軍】細川勝元:兵力160000人
【西軍】山名宋全:兵力110000人

 数字だけを見れば、関が原の合戦に匹敵する程の、途方も無い数である。これだけの人間が京都という狭い街を舞台に殺し合う光景というのは、想像してみると圧巻である。
 が、実情はそうではない。
 細川勝元にも山名宋全にも、これだけの兵を率いるだけの指導力はなかった。宋全も勝元も、所詮は室町幕府という、形骸化した組織の中の実力者に過ぎない。これから100年の後に彗星の如く出現し始める「戦国武将」という名の鬼神たちに比べれば、その器はあまりに小さかった。
 
 そもそも、この戦いの発端は「畠山家のお家騒動」に過ぎない。そのような瑣末な事柄が、これだけの人数を動かす原動力にはなりえないのである。
 戦争には原動力となる「大義名分」が必要である。もっともらしいロジックがなければ、何千何万という人間を動かすことなどできない。例えばこれから150年後に起こる関が原の戦いにおいて、西軍の総大将石田光成は「義」という極めて日本的なロジックの大伽藍を構築して10万以上の兵を動かした。
 この戦いには、そのような「大義名分」が一切存在しない。
 細川勝元は足利義政を懐柔し「自らが率いる東軍こそが官軍である」と表明したが、それが虚に過ぎないことは誰の目にも明白であった。
「大義名分」というロジックは、多くの共感を得てこそ人々を動かす原動力となりうるのである。細川勝元の言い分に共鳴するものは皆無であったし、山名宋全の言い分に共鳴するものもまた、皆無であった。

 それでは人々は、何に突き動かされてこの紛争に参加したのか?
 何が30万人近い人間を戦争に駆り立てたのか?

 欲、である。
 この時期、大規模な飢饉が日本全体を襲い、深刻な食糧不足が各地で発生していた。にも関わらず幕府は何ら手を打たなかったため、田畑を捨てる農民が後を絶たなかった。そうやって食い詰めた者たちがどさくさに紛れて兵になりすまし、この戦争に加わったのである。
 彼等に勝元・宋全への忠誠心は微塵にもない。
 つまるところ「飯を食わせてくれさえすればどちらについても構わない」といった烏合の集たちでしかなかった。                           

 このような兵たちは真剣に殺しあうことなく、京の町で略奪を繰り返した。
 京の街は度々放火され、強盗、強姦、殺人といった事件が後を絶たなかった。

 この無益な争いは、11年にも渡って続くことになる。
 にも関わらずその収束は、実にあっけないものであった。
 1473年に、勝元、宋全が相次いで病死した。これによって西軍、東軍の双方が総大将を失う形となった。
「将軍の位は弟に譲る」と言っていた義政は、結局母と妻に言われるがまま、息子義尚に将軍職を継がせた。              
 畠山家のお家騒動はその後も惰性的に続けられていたが、日野富子がこの争いに介入し、事態を収束させた。
 一体何のためにこの戦いはあったのか。
 残されたのは、焼け野原となった京の街のみであった。

 この戦いの後、室町幕府の権威は地に落ちることになる。
 最早将軍を「日本の王である」と認めるものは誰もいなかった。
 至るところで、野心を持ったものたちが胎動を始めていた。


 
「我こそが王である。」



 と、心の中で密かに叫んでいた者たちの時代が、幕を開けようとしている。




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2009-03-09 21:58:57

第三話

テーマ:【小説】「下天」


 「人の一生に「価値」というものがあるとすれば、己を何に捧げたか、によって決まるのではないか。」

 
 義政は、そんなことを考える男であった。
 そして、

 とてもではないが、私は「将軍」という職に己を捧げる気にはならない。私は将軍という仕事に価値を感じていないし、政治にも興味が無い。

 という、明確な結論に達していた。
だが、それでは自分は何をしたいのか?何をすべきなのか、ということについては生涯わかることがなかった。義政は、生涯モラトリアムを貫いて生き、死んでいったのである。
 或いはこの時代、日本でこのようなことを考えていた人物は義政の他に存在しなかったかもしれない。百姓は日々の糧を得ることで精一杯の生活をしていた。武士たちは己を鍛え上げ、いかに生き残るかということだけを考えていた。
 だから義政は、常に孤独であった。彼を理解する人間は、その生涯において現れる事がなかった。


 義政にとっての不幸は、彼にとって何の価値も持たない「将軍」という職に、義政を除いた全ての人々が羨望を抱いた、という点に尽きる。誰もが「権力」を求めた。細川勝元も求めたし、山名宋全も求めた。義政の妻である日野富子も権力を求めてやまなかったし、母親である日野重子も権力の魅力に取り憑かれていた。
 義政には、彼等が妖怪に見えている。
 義政はこのような「権力の亡者」たちを嫌悪し、ひたすら彼等から逃げ続けた。
 逃げることだけが、義政にとって唯一の、現実に対する反抗であったのである。義政は「逃避」によって自らの人生を表現しようとした。

 だが皮肉にも、他ならぬこの「逃避」という自己表現が日本全土を戦乱の海に巻き込む火種となってしまう。


 義政が将軍であった時代、すでに将軍職は形骸化し、政治の実権は官僚たちによって握られていたことは先に述べた。
 この官僚達の頂点に位置したのが「管領」という職である。後の時代の「関白」のようなものを想像して頂ければ、スムーズに理解できるのではないか。

 この「管領」という職は、室町時代を通じて

    斯波家、畠山家、細川家

 の三家のなかの人物が就任するのが慣わしであった。このため三家は俗に「三管領」と呼ばれている。室町幕府を裏で操ってきた黒幕とも言えるだろう。

 義政は「将軍」という職にある。とはいえ前述のように、義政に政治的な実権はない。しかし義政は、唯一にして無二の、ある「絶対的決定権」を将軍は保持していた。
 その決定権とは「家督相続の決定権」である。
 将軍が家来一族の家長を決定するのが、室町幕府開設以来のならわしであった。
 室町幕府を現代の会社になぞらえるならば、世襲制の社長が絶対的人事権を持っている家族企業のようなものである。西武グループに似ていると言えば似ている。

 このため、斯波、畠山、細川の三家の有力者たちは、こぞって義政を自分の味方につけようとした。
 

 ========== 御霊合戦 ==========


 1455年、三家のうちのひとつ、畠山家に家督争いが起こった。
 当時畠山家で大きな影響力を持っていたのは畠山義就と、その従兄弟畠山政長だったが、当時ふたりのどちらかが家長となるかで、畠山家は大いにもめていた。
 当然の如く、義就も政長も、将軍である義政を自分の見方に引き入れようと、あれこれ策を打った。


 が、義政はこの家督争いに、何の興味も無かった。
 義政という男の思考回路は「私」の領域を超えることがない。自己表現欲求だけが彼の全てであり、権力欲・支配欲といったものが義政からはすっぽりと欠落している。だから、誰に何を言われても

「好きにしたらいいじゃん」

 という感じで、無関心な態度を貫いた。
 後世の歴史家たちは、このとき義政がとった行動に対し「優柔不断」「気まぐれ」というレッテルを貼ったが、義政個人の感覚としてはブレていない。むしろ一貫していると言ってよいだろう。
 政治に関する全てのことが、義政にとってはどうでもよかったのだ。
 この無関心が、畠山家を泥沼の紛争に陥れる結果となる。

 畠山家の家督争いが熾烈を極めていたある時、畠山政長が細川勝元と手を組み

「義就は謀反を起こそうとしている。追放すべきだと思いますが、どうでしょう?」


 と義政に詰め寄った。義政は

「勝手にしたらいい。」

 とだけ答えた。このせいで義就は、畠山家を追放されてしまった。
 その後、山名宋全と義就が手を組み、義政に許しを乞い、政長を追放し畠山家の家督を自分に継がせて欲しいとやってきたときも

「勝手にしたらいい。」

 とだけ答えた。
 言うまでもないが、義政の答えは明らかに矛盾している。

 このとき、すでに畠山家は義就を追放した政長の手中にあった。政長は管領の職に就き、細川勝元とともに幕府の実権を握っていたのである。
 そこに義就と山名宋全が割って入り、

「将軍義政様が、義就を畠山家の家長にせよと命じられた。政長は畠山家から出て行け」

 と迫った。政長は、義政の名の下に畠山家の屋敷を退去するように命じられたわけである。 
 
 これに反発した政長は、半ば捨て鉢となって屋敷に火を放った。
 家を焼かれた義就は猛烈に怒り、山名宋全とともに義就を討とうとする。
 政長は部下を引き連れ、京都文京区に今もある上御霊神社という寺社仏閣に立てこもった。
 これが後世に「御霊合戦」と呼ばれる戦いである。
 
 この抗争は実のところ、畠山家の家督相続権争いを名目とした、細川勝元と山名宋全の代理戦争であったといってよい。室町幕府の真の実力者はこのふたりであった。次期将軍問題においてもこのふたりは意見を互いにしている。細川勝元は次期将軍に義政の弟義視(義尋)を推していたし、山名宋全は日野富子と結託して義政の子、義成を推挙していた。

 が、勝元と宋全は義理の親子関係にある。山名宋全の養女が、細川勝元の嫁なのだ。このため表立ってふたりが争うことはなかった。
 この御霊合戦を機にふたりの関係は完全に断絶し、戦いは権力の簒奪を目的とした細川勝元と山名宋全の「私闘」の意味合いを帯び始める。



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