第五話
テーマ:【小説】「下天」========== 足利義昭 ==========
16世紀も半ばの頃―――――
覚慶、という僧が興福寺という寺にいた。
興福寺の、一乗院門跡というところで修行をしている。
修行といっても、形ばかりのものである。
この時代、「門跡寺院」と呼ばれる、特殊な仏閣が存在した。
門跡寺院の存在意義は、精神修養にない。
それは、貴族達の「避難所」として機能していた。
以前にも述べたが、この時代「家督相続」というものは、莫大な利権を手にすることを意味していた。家督を相続し、家長となったものは一族が所有する家屋、財産、家臣など、あらゆる富と権力を一手にすることができる。
このため、親戚間での争いが耐えない。
家督を相続するためならば兄弟肉親でさえも容赦なく抹殺する。それがこの時代の流儀であった。
だから、貴族の家に生まれたものは常に生命の危険に晒される運命にあった。本人が家督に興味あるかないか、ということは関係がない。野望をもった家臣の権力闘争に利用され、神輿に担がれてしまえば嫌が追うなしに争いに巻き込まれる。
そこから逃避する方法は、ひとつしかなかった。
「出家」である。
頭を丸め、僧となることで権力闘争に参加する意志のないことを示すのである。
このような動機で門跡寺院に「避難」してきた者たちは、信仰心を持たない。仏を求めて僧になったわけではないのだから、当然と言えば当然である。
覚慶もそのくちであった。
覚慶は足利家の生まれである。つまり、将軍家の正当な王位継承者だ。
だが、既に将軍には兄である足利義輝が就くことが決定していた。無用な争いを避けるために、両親が幼い頃に覚慶を仏門に入れたのだ。
ところが覚慶は僧として一生を仏の道に捧げられるような男ではなかった。
覚慶のなかには、強烈な「武」のエネルギーが内包されていた。
それは野心となって、覚慶の中で燃え続けていた。
どちらかと言えば凡庸な足利一門の中で、覚慶は異質な存在であった。或いはその野心と飽くなき闘争心、欲望の量は、室町幕府の開祖足利尊氏に次ぐかもしれない。
覚慶は、日々を悶々として暮らしていた。
暴走しそうになるエネルギーの捌け口を男色に求め、幾人もの稚児を手篭めにした。
この男に転機が訪れたのは、1565年・永禄の変の時である。覚慶は28才になっていた。
謀臣松永久秀・三好三人集らが、軍事クーデターを起こしたのだ。
このとき、覚慶の兄足利義輝は惨殺された。覚慶の母慶寿院もまた、この紛争に巻き込まれて死んだ。
松永久秀の魔の手は覚慶にも伸びた。だが、覚慶だけは殺されず、興福寺に幽閉された。
久秀は興福寺の持つ影響力を恐れた、と言われている。
鎌倉時代から興福寺は武装勢力であった。僧兵たちが寺を守っていたのである。門跡寺院であるところの一乗院に在籍した貴族あがりの僧たちは、僧兵たちに守られていた。仏門に入った貴族達の家族が、莫大な資金を興福寺に提供し、この軍事力を維持している。
その軍事力は、松永久秀らを脅かすほどであった。
加えてこのとき、幽閉されていた覚慶を助け、脱出させようと企てるものがあった。
足利義輝の家臣・細川藤孝の一派である。
兄義輝を殺され、末弟の周嵩をも殺された今、足利家の政党王位継承者は覚慶の他にいなくなっていた。このため細川藤孝は、なんとしても覚慶をして将軍家を守り抜く必要があったのだ。
松永久秀のクーデターが成功し、室町幕府が潰されれば、足利家の家臣団は職を失うのである。
権力と富の維持のために、自分と部下を食わせていくために、なんとしても、覚慶をトップに立てねばならなかった。
それは覚慶にしてみれば、千載一遇のチャンスであった。
覚慶はこのときを、今か今かと待ち続けていたのだ。
彼は、僧としての生活に飽き飽きしていた。
覚慶は権力を渇望し、ひたすら神に祈った。
その願いが聞き届いたのだろうか―――?彼は歴史の表舞台へと舞い戻った。
覚慶の家族は皆、松永久秀によって惨殺されている。
しかし、覚慶の中には久秀に対する憎しみはなかった。寧ろ、心の底では松永久秀に感謝さえしていた。
それほどまでにこの男は、権力に飢えていたのである。
覚慶は細川藤孝らの手を借りて興福寺を脱出する。
この時から、覚慶は室町幕府最後の将軍、足利義昭としての道を歩み始めた。
(続く)
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