パラオ 前編
■有史以前
パラオの有史以前の歴史に関しては、多くの部分がまだ謎です。どうして、また、どのように、古代の人々がこの美しい島々へ移り住んだのかは、未だに明らかになっていませんが、最近の研究によると、現在のパラオ人の祖先は、インドネシアのマレイ族、ニユーギニアのメラネシア人とポリネシア人だったといわれています。ロックアイランドやバベルダオブ島の古代遺跡の炭素調査によると、紀元前1000年ごろには既に、人々は文明的な生活を営んでいたといいます。近年の研究で確かなことは、今から3千年も前に、パラオには今現在の人口よりもずっと多くの人々が生活していたということだけです。
■西洋文化とのファーストコンタクト
16世紀初頭、スペイン船がパラオ南部のソンソロール島に到着しましたが、嵐のために流され12人が命を落としました。この時期にパラオを訪れたスペイン人は、この地をロス・パラオスと名付け、その後ドイツ人が省略してパラオと呼ぶようになります。
1783年8月、ヘンリー・ウィルソン率いる東インド会社のアンテロープ号は、マカオからイギリスへ戻る途中、嵐に巻き込まれてウーロン島沖で座礁しました。ウィルソン船長と乗組員はコロール島の酋長のひとりであるイベドゥルの援助のもと、3ヶ月をかけて新しい船を完成させました。彼らは完成した船をウーロン号と名付け、同年11月にマカオに向けイベドゥルの息子レブー王子と共に出港します。その後、王子は、イギリスで天然痘のため死亡しましたが、ウィルソン船長は彼の遺品と貢物を持ってイベドゥル酋長のもとに戻りました。それ以降、銃火器を含むヨーロッパの国々の文明がコロール島を中心に伝わりました。ヨーロッパ人はパラオに何人もいる酋長のひとりに過ぎないイベドゥルをパラオ王だと勘違いしていました。日本の種子島に鉄砲が伝来されてから、240年後のことです。織田信長が鉄砲を使って天下を統一したのと同じように、イベドゥルも西洋の文明の利器を使ってその勢力を拡大しました。いわば、ウーロン島は、パラオの種子島といえます。その後、部族間戦争と西洋人の持ち込んだ天然痘により、島の人口は激減しました。
■スペイン統治時代
19世紀後半になると、ヨーロッパから持ち込まれた鉄砲と天然痘によってパラオの人口は10分の1まで激減してしまいます。外国人による統治は、レオ8世法王が1885年にキャロライン島でのスペインの領有権を主張したことで正式に始まりました。その後、1891年に宣教師がキリスト教の布教を開始し教会や学校などを建設し、4人のカプチン修道士が着任しました。結果として、アルファベット教育の敷衍と部族間抗争の撲滅運動が展開されます。
■ドイツ統治時代
1898年、スペインはキューバの領有権を賭けたアメリカとの戦争(米西戦争)に敗北し、1899年、財政難からパラオを含むカロリン諸島の領有権を1675万マルクでドイツに売却しました。ドイツは多くの医師や学者をパラオに送り、歴史や伝統文化などの研究をしました。更に、燐灰石の発掘やコプラに必要なココナッツの栽培のために、多くの現地労働者が強制徴集されました。ドイツ統治下では、ドイツの影響力をより強化するために、パラオの独自の習慣や文化が否定されます。特に、”ナー”(一ヶ月続く餐宴)は、不利益をもたらすという理由で禁止されました。
■日本統治時代
第一次大戦でのドイツの敗戦により、パラオは連合国命令で日本に受け渡されました。日本もドイツと同じように島の経済開発政策を進め、パラオ人のための公設無料実業学校を創立しました。日本文化の影響により、パラオの文化や生活は大きく変わります。それまでの、自給自足経済が市場経済に変わり、財産の所有権は氏族から個人の手に移りました。 1922年には主に韓国に統治が委ねられ、コロールの町は工場、商店、公衆浴場やレストラン、薬局等が建ち並ぶスタイリッシュな大都市へと変貌を遂げます。当時、パラオの人口は過去最高の40,000人にまで達しました。内、パラオ人の全人口に占める割合は10%以下であった。
1922年には、ミクロネシア日本領全体を統治する南洋庁がパラオに設置され、2万5000人の日本人が暮らす状況になりました。1998年3月現在のパラオの人口が2万人弱であることを考えると、いかに多くの日本人が移民したかが分かります。
昭和15年パラオ諸島コロール島アルミズ高地に天照大神を奉祀する官幣大社南洋神社が創建された
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