イタリア政府奨学金

 さて奨学金試験が木曜日に一段落しました。今回は「後がない」という気持ちで臨んだので、精神的にも肉体的にも相当消耗したみたい。それに加え国内外でショッキングな事件が頻発し、寝酒が欠かせない日々が続きました。
 これからこの試験に応募する人へのアドヴァイスとしては、書類を揃えるところまで必死で頑張れ!ということくらいでしょうか。要項を熟読して抜かりないように。不明な点は確認を怠らないことです。提出した後は淡々と面接(イタリア人が中心になって質問をするもの、日本人が中心になって行うものの2回)を受けるだけだし、競争倍率もそんなに無茶苦茶ではないと思います。ただ合格後に必須の健康診断書作成に2万円、書類の翻訳に2万円弱くらいかかるということは覚えておいた方がいいかもしれません。
 ちなみに、こういう試験では専門が違う色んな人と知り合うことができるので面白いです。人づてにその存在については聞き知っていたコモをやっている方にとうとうお会いできたり、ミラーノのブレラに留学して彫刻をやっているお友達もできました。国際法をやっているお友達にも会場でばったり。イタリアに正規留学する人は独立心旺盛であんまり日本人同士で固まったりしないから、同時期に近くに住んでいても疎遠のままっていうことが多いですが、結構狭い世界ではあるんですよね。
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横浜(Yokohama)

(写真は山手町の外国人墓地)
 今日は用事があって、久しぶりに横浜山手町にある母校を訪問しました。古くて味のある校舎が全面的に改装されていて少し残念でした。お世話になった担任の先生方も既に引退されたらしく、事務の方と少しお話ししてきました。私が知っている人ではなかったけど、多分OGの方なのでしょう、明るく励ましてくださり、ぱっと中学生に戻ったような気分になりました。
 学生達は相変わらず制服をきちんと着こんで、今時茶髪にもできず、三つ編みとかしていた。体型もこころなし所謂「女子高生」仕様とはちょっと合わない。思わず苦笑してしまいました。窮屈だけど世間の様々なリスクからがっちり守られた学生時代を送れたことを、最近ようやく肯定的に考えられるようになってきたかな。いつまでも母校にこだわるOGや同輩をみて、疑問を覚えないわけではないけれど。
 帰り道はイタリアの友達に送る写真を撮るために、山手公園、外人墓地、港の見える丘公園、フランス山、中華街、元町なんかをぶらぶらしてきました。久しぶりの中華街ではプーアール茶とシュウマイを購入。元町ではすごいノスタルジーを感じました。あの辺に買い物に来る地元民の文化というのは、日本のテレビとか雑誌に氾濫している流行とはちょっと外れていて、ヨーロッパの中高年層の文化とちょっと古い日本の文化の中間という印象。高校生くらいまでは賑やかな繁華街にみえた元町も、結構こぢんまりとしていたんですね。お小遣いのほとんどを費やしたTower Record元町店も未だ健在で嬉しかったです。
 ともあれ今日でかなり必要書類が揃ったので、あとは頑張って翻訳などを進めなければ。ゴリツィアの友からblog用にと色んなネタが届くんだけど、それを訳して載せるエネルギーを出せないでいます。特にフリウーリ=ヴェネツィア・ジューリア州の食とワイン関係は今後頑張ります。

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イタリアは豊かなのか

 前にもちょこっと書いたんですが、イタリアでは日本やアメリカより豊かな社会が実現されているのか?という自らの問いに悶々としつつ、色んな社会・経済統計を最近よくチェックするようになりました。物価、労働時間、家計の最終消費支出に占める「家具・家庭器具」や「衣料・履き物」の割合、住宅の床面積、自殺率、エンゲル係数、ジニ係数などを俯瞰しつつ、個人的な感覚と統計が必ずしも一致はしないことが分かりました。
 そもそも「豊か」という言葉はそれぞれの文化的文脈の中でどういう意味をもつのでしょうか。戦後日本の混迷を知る方々にしてみれば、日本が達成した経済成長や民主制の確立は誇らしいはずです。実際アジア諸国の現状を引き合いに出して、日本の「豊かさ」「素晴らしさ」を強調する政治家を1ヶ月弱の間にも何度かテレビで目にしました。ただこうした感覚を経済的な困窮を感じることなく育った世代が共有するのは難しいと思います。
 「豊かさ」の本質を問うような本を読んでみると、ヨーロッパ滞在経験がある方が書かれている場合が多いことに気づかされます。ヨーロッパの「豊かさ」は我々が短期間で達成した経済成長とはなにか異質な歴史的ストックの上に成立していて、今の日本に欠けた魅力的な要素を含んでいるという感覚がベースにあるのかもしれません。私も短期間イタリアに滞在する中で、日本で伝え聞いていたイタリア社会の混乱や経済の停滞ぶりからは想像もできないような衣食住の水準が達成されていることに驚かされ、「豊かさ」の意味を考え直してみたくなりました。経済指標で社会の「豊かさ」を比較することの虚しさを実感したのかもしれません。勿論自分の個人的経験や「限られた」人間関係が「イタリア」をどこまで代表しうるのか、疑問は残りますが。
 ともあれ今回の日本滞在中、イタリア文化論的な本を手に取ってみる機会が増えました。イタリア人が書いているものを除けば、数年、あるいは数十年イタリアに住んでいる(いた)日本人の目を通して書かれたものです。親伊・反伊それぞれの立場から、イタリア社会の特徴をさまざまな「個人的」エピソードを交えて描き出しています。その中でイタリアの「強さも弱さも」(「豊かさも貧しさも」と読み替えてよいのでしょうか?)「自由度が高」く、「異質性を許容する」点に関わっているという岡本義行さんの指摘(『イタリアの中小企業戦略』)が目を引きました。私や友人の外国人留学生達がイタリア社会において真っ先に強く認識した「違和感」は「社会秩序や規則に対する強制力の弱さ」でした。イタリア人は社会的な規範から(ときには法律からも)自由に振る舞うと同時に、異質な考え方や価値観に目をつぶる術も心得ているようなのです。他人の理不尽な行動に「その都度怒っていたら神経症になる」といって、見て見ぬふりをする(あるいは冗談にして笑い飛ばす)イタリア人が多いことにも気づきました。これも限りない多様性を前に彼らが身につけた知恵なのかもしれません。
 西ヨーロッパでは一般的に「自由」「異質性の許容」という価値観が重視されているような気がします。(勿論理論先行で民衆の気持ちがついていっていない印象もときおり受けますが。)その中でもイタリアの多様性は顕著で、地理的・歴史的(都市国家の伝統やオーストリア、フランス、スペインなどの分割統治など)諸要因から、個人差、階層差、地域差が大きく「世論」を形成しにくい国だといわれているようです。そこには言語、習慣、文化のみならず、顔つき、身長、髪や瞳の色まで大変なばらつきが見られます。
 イタリアで未だに維持される小売店の「零細性」と「専門性」は消費者の好みの多様性を反映しているからだ、というのがもはや定説ですよね。そこには確かにトレンドやブランドを追い求めたり、チェーン店やアウトレット店に長蛇の列を作る行動とは明らかに違う、食やファッションに対する価値観があるようなのです。ヨーロッパで最も顕著と言われる大型小売店の出遅れなどは一見効率性と矛盾するようですが、イタリアのpath depending、彼らの価値観を投影した独自の「合理」を追求した経済構造が成立しているとも考えられるでしょう。
 とはいえこの急激なグローバリゼーションの流れの中でどこまでイタリア流の合理を貫けるのか、甚だ疑問です。結局は歴史的に醸成された「自由」や「異質性の許容」を大切にする土壌を背景に資本主義の浸透に強い抵抗を示す社会が見せる諸特徴に我々はノスタルジーを覚え、それを「豊かさ」なんて言葉を使って懐かしんでいるだけなのかもしれない。こういう「豊かさ」を維持した「第三の道」というのが一体どんなものなのか、具体的な未来像はなかなかクリアーになりません。最近のEU経済の低成長をみるにつけ「循環型社会」の行く末をはらはらしながら見守る毎日です。

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反日デモをめぐって

 最近中国における反日デモについての記事を日欧米の数紙でチェックしています。どれも驚くほどのことはありませんけど、やはりそれぞれに特徴がありますね。
 アメリカのNew York Timesをみてみると、日本における論調と大差ない印象でした。珍しく日本が正式に謝罪を行っている事実も書いています。日本のメディアでも欧米の意見を代表しているかのように引用されることが多いですが、反日デモが中国政府によって誘導されているという見解をはっきり示しています。
 イタリアの左翼紙La Repubblicaの記事は、欧米の主要新聞の論調である「中国政府主導説」を踏襲していたものの、日本における対中感情の悪化や、小泉や彼を取り巻くタカ派政治家らナショナリストの「遊びgioco」のせいで日本における対中憎悪が増幅されている点が強調されていました。「遊び」というのは、戦犯を祀った靖国の参拝や30年代の日本の帝国主義を再評価するrevisionism的な教科書が検定を通ったことだと説明されていました。その他にも有力メディア、フジが右翼的論調をリードしているとか、最有力紙、読売がエネルギー問題で中国を刺激しているといった記述もあり、日本にとって手厳しい内容でした。ドイツの首相が日本の態度を批判した一件も記憶に新しいのですが、こうした反応がヨーロッパの社民勢力の自己肯定と考えれば特に驚きはありません。こういうメディアが中国における90年代以来の愛国(反日)教育、中国側が先行したガス田開発、日本の安全保障理事国入りをめぐる駆け引き、社会矛盾が拡大している中国において「反日」デモしか許可されていない現状などに触れることはありません。
 International Herald Tribune は淡々とデモの詳細をつづっていました。中国人の多くは日本人がこれまで一度も謝罪をしたことがないと信じている、という記述があったけど、こういう指摘はあまり他紙ではみませんでした。大阪の中国総領事館前で焼身自殺を試みた男についての記述もありました。
 私が普段読んでいるイタリアのCorriere della Sera紙はHerald Tribuneの内容を更に客観化したような感じでした。まあ今回のデモは一般のヨーロッパ人にとって縁遠い話なんでしょうね。

古い友達

(こばやし理栄さんの切り絵。京都の喫茶店「ソワレ」を思い出します。)
 帰国しているうちにと思いたち、今週は懐かしい友達何人かと会うことができました。何年も会っていなかったのにみんな全然変わっていなかったのが嬉しい。週末に会った京都時代の友達と話していたら、バンドをやったり無目的に京都の町をぶらぶらした頃のことが無性に懐かしくなりました。京都でもきっと桜が満開なんじゃないかな。下鴨神社に行きたい。
 金曜日には今年度最初の授業があったせいか、大学には人が沢山いて疲れました。今年は自分の専攻に修士からの新入生が3名入り、研究室の雰囲気が随分変わりました。今年度から指導教官が大学を移動されるし、来年には親しくして頂いている先輩方が大分抜けるみたい。寂しいかぎりです。ちなみに引っ越し作業中の先生からファシズム関連の本をごそっと頂きました。家に運ばなければ…。
 そういえば同じ日にお昼をご一緒した某先生は研究対象地域が「割と」近いこともあって、現地の複雑な民族分布やそれに伴う言語の壁のことを容易に理解して頂けるのが嬉しい。やっている場所が場所なので、自分の研究の内容を相手に分かりやすく伝える難しさを日々感じています。
 最近一日中パソコンに向かっているせいか、ムシムシ暑い開放的なところに遊びに行きたい~。南米とかいいな。

突然ですが、ほのぼのイラストに興味のある方はどうぞ。
こばやし理栄さんのホームページ
ペニーさんのホームページ

時間がない!

 日本のリズムに大分慣れてきました。慣れちゃうと、とにかく時間が経つが早い。毎日がパラパラめくれて飛んで行ってしまうような感じがします。20代前半まで京都に住んでいたときには、逆に時間が止まっているような感覚に不安を覚え、もう少し緊張感と刺激のある生活をしたいと思いました。イタリア北東部ではゆっくりした時間の流れを心地よく感じ一方で「これで大丈夫なのか?」と疑問を感じるようになりました。「時間に対する感覚」が住んでいる場所を反映するのは本当に面白いと思います。
 以前Issues of time in international, intercultural management: East and Central Erurope in the perspective of Austrian managersという論文を読みました。The goal in this paper is to distinguish time behaviour of Anglo-German managers from that of managers from France and Italy and East Central Europe by employing monochronic/polychronic, consecutive/synchronic time behaviour, culture dimensions, Individualism/Collectivism, Masculinity/Femininity, Uncertainty/Avoidance, Power Distance, Humane Orientation and Institutional Collectivism/In-Group Collectivism. Summarizing it in short, managers from Anglo-German Cultures tend to reduce inter unit conflicts by scheduling time use and by increasing productivity of time. And on the other hand managers from France and Italy exhibit strong individuality. Meaning that they tend to reduce scarcity of their “own time” that is valued very highly, by simultaneously dealing with different affairs, low punctuality and not following schedules. They do not bother to waste the time of others(“their time”). Lastly the behaviour of managers in East Central European Cultures is dominated by organisational features: working in collectives (not in teams) and priority setting by supervisors. Risk aversionm harmony seeking, and saving own face are value/culture standards that also help to understand the time consuming discussion and decison making behaviour in East Central Europe.
 ということで論文の内容はオーストリア人のステレオタイプとか偏見の枠を脱し切れていない印象を受けたのですが、笑えるエピソード(特にイタリア人マネージャーの!)がふんだんに盛り込まれていて面白かったです。もちろん旧共産圏とかイタリア人の友達には評判が悪かったですけど。論文中には書いてなかったけど、帰納的にヨーロッパ各国のtime behaviourの理念型を打ち立てて、ビジネスシーンで活用して下さいというつもりなんだろうか?
 ちなみにこれを読むと、日本のtime behaviourは東欧と西欧の折衷型のような印象を受けると思う。

Down Town Follies vol.3

(写真は天王洲アイルTennozu Isle(Tokyo)、アートスフィア)
 今日は思いがけず天王洲アイルで和製ミュージカルを見てきました。後輩からチケットを譲り受け、何の期待もせずに見に行ったらこれが結構面白かった。島田歌穂ら4人が歌って、歌って、寸劇して、歌って、タップして、パロディして、踊って、踊って、寸劇して、タップして、タップして…という内容。日本の歌謡曲をつないで寸劇にしたMamma Mia!のパロディ「ほんま・みーあ」がなかなか。Fosseのミュージカルも何曲かカヴァーされていました。お客は満足した表情で、今回で2度、3度目という人も結構いました。「出演者に促され」、最後はスタンディング・オヴェイション。ちょっと元気をもらったかな。
 このミュージカルを楽しめたのは歌唱力のレベルとか、見事な構成、美しいセットのせいではないと思います。多分、作品中にちりばめられた日本人にしか理解できないような新旧入り交じったギャグや歌謡曲に沸く会場の中で自分が「浮いていない」感覚を味わえたから。これがブロードウェイなんかだと、作品の随所随所にちりばめられたユダヤ・ジョークのように、会場が暗黙の内に理解しにやにやできる部分を大分見逃しているような気がします。
 切符をもらえたのは今日久しぶりに大学の研究室に行ったから。昼過ぎには某先生のところに伺い、提出した論文の訂正箇所を確認。その後和定食の店へご一緒し、今後のことをあれこれ話しました。お陰で気持ちが随分すっきり。あとは前向きに頑張るだけ。
 午後は研究室で後輩や友人4,5人と久しぶりに再会できました。近年若手同士のディスコミュニケーションが目立つというから、何とか共通する問題関心を掬い上げ、拡大していかなければ。

語学学校

(Foto: Un negozio di ONIGHIRI: polpetta di riso cotto salata, anche avvolta in NORI(alghe marine disidratate), plasmata con le mani in forma triangolare o rotonda. La mangiamo quotidianamente, un po' come voi il panino in Italia.)
 日本に帰ってから現実的な様々な問題に直面しています。身内の病気療養が一番の懸案事項で、それ以外にも金銭的な安定を実現すべくやれることをやっておきたいし、中長期的な留学プランの練り直しもしなければいけないし、某叢書の原稿を書き直さなければいけないし、一時帰国中とはいえ土地制度関連の研究を全く進めないわけにもいかない。まあ当たり前なんだけど、こういう諸問題に向かい合う過程で生活のベースが日本にあるということを実感し、むしろ気持ちが安定しました。先日お会いしたスイスでの在外研究を終えた先輩が「人生最良の1年だった」と感想をもらし、「もうこれ以上遊ばせてはもらえない」と顔を引き締めたのが印象的だったのだけど、私にも同じことを考える日が来るような気がする。
 今日は大学と役所で書類を引き取ってから久しぶりに語学学校に寄ってみました。「語学」。留学を視野に入れて以来、どれだけ時間と金とエネルギーをつぎ込んだことか…。「若さ」とか「情熱」、「不安(心許なさ?)」に突き動かされていたのでしょうか。夜の9時とか10時に授業を終え、動詞の活用を唱えながら帰途についた日々を懐かしく思い出します。そしてなにより、常に真剣に向かい合ってくれた先生たちに心から感謝、感謝なのです。
 留学などで現地の研究生活に適応する為の語学と検定試験用の勉強とは明らかに性格が異なると思います。なかなか実用的ないい本も出ているとはいえ、現地人との会話でしか体得できないものが確実にありますよね。例えば自分にとって一番の問題は、なんといっても「聞き取り」です。相手の教養が高い場合、自分の貧弱な語彙数のせいで困難を感じるのは勿論ですが、方言の聞き取りで頻繁に同様の苦しみを味わうのはイタリアならではかもしれない。その次につらいのが会話にコミットする「間合い」。ゼミや研究会など人が多く集まるときに顕著ですが、人の発言が途切れる前にカット・インしないとなかなか議論に食い込めないです。他の国ではどうなんだろう。
 こういう技術を体得するには結局現地の人々の日常会話に積極的に入りこんで、相互理解の経験を積み重ねて自信をつけるしかないのかもしれない。日本人でイタリア語を上手に話す人は、現地のコミュニティにしっかり食い込み社会的なプレゼンスを確保しているように見えます。滞在年数はたいした問題ではないような気がする。多分今私が目指しているのはこういう方向なんだと思うけど、深く1つの社会に沈殿すればするほど「見えてくるモノ」がある一方で「見えなくなるモノ」があるような気がして少し怖いです。それに複数のカルチャーを転々とする時の心理的な負担も楽ではないし。
 学校にはスロヴェニアに中期滞在しトリエステにも来たことがあるというオーストラリア人がいて話が弾みました。ついでにロシア旅行の話まで聞いて、私も行きたくなった。モスクワだけは行ったことがあるけど観光していないんですよね。あとはヨーロッパ滞在経験のあるニューヨーカーがいたので、米、欧、日の文化的差異についてあーだこーだと言い合いました。人の目を通した見た社会は確実にどこか自分の心の中で結ばれる像と違うわけで、その「違い」にスリルを感じます。
 それから今日はたまたま2人の家庭的でスポーツ好きの日本人エンジニアが来ていました。彼らの1人曰く「和算の伝統などにみられる江戸時代以来のagressiveかつpracticalな日本人の性向が現在の日本の技術発展に結びついているんじゃないか」。その連続性を実証するのは簡単じゃないでしょうけど、感覚的には「そうかもね~」って感じ。
 感覚的にはカルチャー・ショックを乗り越えた感じです。今日は子供達の行儀の良さと自動販売機やコンビニの便利さに感激した。人の話をきちんと聞ける日本人が沢山いるということにも心が温まりました。そういえば先生達に「日本では基本的に他人を尊重し和を乱してはならない」んだよ、と自分で説明しておきながら、海外から帰ってきた時の自分は緊張が残るせいか、往々にしてこういうルールに抵触しがちかもしれないと思いました。はは。

新歓シーズン

(写真は大学構内:金木犀と立て看とテント)
 今日から帰国の最大の目的であった書類を揃える作業を本格的に始めました。役所関係は大分片が付いてきたんだけど、今は大学関係で一苦労。時間の制約があるので今日は駒場から本郷へ流れ、そこからさらに神保町周辺で古本を見て帰宅しました。
 大分日本の景観にも目が慣れてきて、人々の柔らかい表情に心がなごむ今日この頃です。一方、ヨーロッパの都市生活で感じる「緊張感」は一体何なんでしょうか。家を一歩出るとすぐ「公的空間」が広がる、「都市生活」が強いるものなのでしょうか。ゴリツィアで生活を始めた頃には、朝市やスーパーで買い物するのにフルメイクしてやって来る主婦達の姿に感動すら覚えました。男性も歩いて行けるような職場にもきちんとしたスーツに香水を付けて通っています。日本の場合「職場」は完璧な公的空間かもしれないけど、職住をつなぐ通勤電車内では化粧室とか居間のような空気も感じます。私は日本やアメリカ、ドイツなどの緩い服装コードとフランスやイタリアの厳格なそれとどちらが自分によりしっくりくるのかすら未だに判断できません。
 大学はちょうど新歓シーズンを目前に控え、構内には立て看がひしめき合っていました。満開の椿や木蓮の花のもと、新入生らしき初々しい学生の顔が輝いてみえます。10年前には自分もあんな顔をしていたのか。院進や留学に際するモチベーションを思いだし、少し気が引き締まったような感じがします。事務の対応はこれ以上ないというくらい親切で、感激しました。トリエステ大学では前もって大学事務に電話し、担当者の言質をとってから訪問しても問題が生じる、という恐ろしく不効率なことが恒常的に起こります。手続き時には大量な書類を要求されますが、後でその所在を聞いても誰も分からないんですよね。
 お昼には久しぶりにダージリンという本郷のインド・カレー屋へ。「辛い」と感じるカレーを久しぶりに食べました。ここは学生の意識調査などにテレビ局などが訪れる店で、私も以前質問されたことがありました。750円でラッシー、ナン付きだから結構お徳。こういうエスニック系の充実は日本ならではの楽しみです。台湾、朝鮮、タイ、ヴェトナム系にも是非行っておきたい。
 午後本郷と神保町周辺の古本屋をまわって、古書を2冊ほど買いました。今や古書もインターネットで注文する時代となりましたが、「おっ」と思った本をすぐ手にとって見られるのは古書店ならではの喜びです。イタリアでは古書の入手がかなり難しく、店ごとのカタログを郵送してもらうか、点在する古書店を訪問し直接目で確認するか、店主に関心の所在を説明して関連古書を入手した際に連絡をもらうよう手配する、という旧態依然とした方法に頼らざるをえません。ひょっとすると私が知らないだけで「日本の古本屋」のようなサイトがイタリアにも存在するのでしょうか?

違和感2

(渋谷駅Shibuya(Tokyo)、花粉アレルギー対応マスクが随分進化していることに感心しました)
 日本に帰国したときの印象を書いた「違和感」に対して沢山批判を頂き、とても面白かったです。その内容は「日本は農村文化じゃなくて都市文化だ」とか「日本の生活にはゆとりがある」とか「お前も日本人のくせに」という感じですかね。前の2つに関して、私はそうは思わない。時間があれば改めて検討してもいいと思っています。それから最後の「ご意見」は非常に「面白い!」と感じました。もし私がイタリア人でイタリアを批判しても一部のイタリア人から同じような批判を受けることでしょう。
 海外に出ていた人間が帰国し、自国の社会に対する認識を新たにすることは奇異でもなんでもないと思います。イタリア北東部から戻った私が「違和感」として感じたのは1.家屋や人、商品などの物理的な小ささ、2.女性のべたべたした話し方や態度、3.食料品の高さ、4.日本人がヨーロッパの町や空港など公的空間で見せる過剰にリラックスした態度。以上の諸点について私がどういう価値判断を下しているのか、誤解がないように書いておきたいと思います。
 まず1については「いい」も「悪い」もないです。欧米から日本に帰って「我が家は大きいな~」と感じる人なんてまずいないでしょう?2については「私がこう感じるということは、私の態度はさぞかし横柄に映るんだろうな~」と感じたということです。有り体に言えば「可愛げ」がないということ。これは他人に媚びへつらって能力の欠如を埋め合わせたり、実力以上の評価を得たくはない、という私の個人的行動指針を反映しています。私が思うところの「フェアな生き方」を実践しているだけ。誰に対してもどこにいても同じことを発言したいと考えています。誤解がないように書いておくと、私はよく笑うし決して無愛想な人間ではないけど、思ってもいないお世辞や嘘は言えないという程度です。3に関しては前の記事のだらだらしたコメントからも分かるとおりある程度客観性のある意見だと今でも思っています。4については以前から「イヤだな~」と感じていた点だから、しばらく日本を出て余計に増幅された感は否めません。
 私は日本人ですが、飛行機の中で靴を脱いで足を前の座席の肘掛けに乗せたり、ロンドン・東京間の12時間、延々と詳細を知りもしない芸能人や皇室の人々への批判を続けたり、電車の中で漫画を読んだり、化粧をしたり、大きく口を開けて眠ったり、町中で靴を引きずりながら猫背で歩くことはない、そういうことです。
 このblogの趣旨はイタリア北東部の文化習俗を紹介することにあるので、それ自体を批判されるのであれば対応しようがありません。ただある程度書いてあることを読めば、私が「西欧至上主義」者でないことくらいは分かって頂けると思います。文化や人種に優劣をつける退屈さを日々実感しながら国境の町で生活しています。日本文化に対してもスロヴェニアやイタリア文化に対してもルーマニアやオーストリア、アメリカ文化に対しても、中国や韓国の文化に対しても、尊敬の念を常に持っています。全肯定はしないけど、全否定もない。それぞれの歴史・文化的バックグラウンドを抜きに一国の政策的特徴を評価することもできないと思っています。

 とここまで書いてなお感覚的に理解できないのは「お前が日本人であるということを忘れるな!」という反応です。しつこいようですが私は日本人です。海外において、日本的な発想をする自分にはっとした経験も多々あります。私は日本人ですけど、だからなんだというのですか?上記のような発想自体が許容できませんか?「非国民」ですか?もっと社会に同調すべきですか?「違う」ということは「悪いこと」ですか?「日本人だから」どうあれと仰りたいのですか?「日本人だということを忘れるな」という戒め(?)のお言葉の本意がよく分かりませんので、お返事をお待ちしております。