カルソとイストゥリア

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 先週木曜日はカルソートリエステ、土曜日はイストゥリアのUmagoウマーゴまでツーリングに行った。バイク好きの友人達はまだ夏休み中なので、暇があるとバイクに乗り、平日なら2時間くらい、休日は半日くらいのツーリングにひょいと出かける。
 オレンジに色づいたカルソではもう秋の空気を感じた。ブドウの房も大分大きくなってきてはいるものの、糖度はまだまだ。Nova Goricaノヴァ・ゴリツァ – Mirenミレン – Opatje Seloオパティエ・セロ – Kostanjevica na Krasuコスタニェヴィツァ・ナ・クラス – Ivanji Gradイヴァニ・グラッド – Komenコメン – Tomajトマイ – Križクリジュ – Sežanaセジャーナ – Fernettiフェルネッティ – Proseccoプロセッコ – Rupinルピン – S.Croceサンタ・クローチェ – Aurisinaアウリジーナ、とここからいつもの道を通ってゴリツィアに帰った。
 自家製だというテランを一杯やったTomajのアグリツーリズモの庭先には、収穫したカボチャが積まれていた。カルソの農家は狭い土地で集約的な農業をやっているのが特徴なんだけど、ここも豚、牛、ウサギ、畑、ワイン、蜂蜜、土日のアグリツーリズモなど、少しずつなんでもやっているのが面白い。
kabocha
 一方のイストゥリアでは7月に比べると日差しが大分柔らかく感じられたものの、まだまだ海水浴客で賑わっていた。Portorožポルトロージュでジェラート休憩を入れ、Sečovljeセチョウリェの塩田や飛行場を片目に2つ目の国境を越えた。クロアチアに入り赤い土のオリーブ畑が目立つようになるとすぐウマーゴだ。センターから離れた静かな海岸で2,3時間、泳いだり昼寝をしてゆっくり過ごした。暖かい間にポーラやイストゥリアの内奥部、ノヴィ・グラッドの寿司屋なんかにも行けるといいな。
 イストゥリアの町々を通り過ぎながら、庭で豚の丸焼きをする店が多いことに初めて気付いた。スロヴェニアでは見たことがなかったんだけど、クロアチアの伝統なのだろうか。ウマーゴの近くで昼食に海の幸スパゲッティを頼んだらぶよぶよなのが出てきてがっくりした。
 行きも帰りも検問所の辺りには1、2kmくらいの渋滞が出来ていた。やはりイタリアとドイツナンバーが目立つ。13週間も夏休みをとれるドイツ人は9月に入ってもイタリアやイストゥリアへ海水浴にやって来るそうだ。この日の夜のニュースではイタリアから出る旅行者よりイタリアに入ってくる旅行者の方が多い、と言っていた。
 帰り道、トリエステの手前でテンペスタにあってしまった。バイクに乗るときは常に気が抜けない。
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 クロアチア第2の工業都市リイェカのことはどうしても好きになれない。チトースタイルの「高層」アパートがにょきにょきしていて、それだけでも憂鬱な気分にさせられる。Susakからフェリーで戻った際に少しだけ町を歩いたりしたんだけど、なんというか落ち着けない。物価はイタリアに比べれば大分安いし、何かと便利ではあるんだけど、お金持ちは近くのオーストリア時代からの歴史ある保養地Opatija(Abbazia)に住むと聞いて納得した。
 町中にローマ時代の遺跡がみられるんだけど、保存状態は最悪。中世の建築も同様で、見ていて痛々しい。
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Susakのこと

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 個人的な経験はさておき、スサックSusakは面白くてキレイな島だった。Susakまで行くにはリイェカRijeka近くの港オパティヤOpatijaからクロアチア唯一のフェリー、ヤドロリニヤjadrolinijaでツレスCresまで渡る。この島をひたすら南下してロシニLošinjに至り、マリ・ロシニMali Lošinjに車を置いて、さらにそこからフェリーでSusakまで渡った。
 アドリア海もここまで来るととても美しい。水はどこまでも透き通っていて、魚も沢山泳いでいる。島民はワイン関係か漁師が多いが、年々ドイツ人、イタリア人向けの観光業も盛んになってきており、新しい店が徐々にオープンしているようだ。
 ヨーロッパ人がSusakと聞いてすぐに連想するのはintermarriageらしい。その結果、島では遺伝病が顕著に見られたらしく、多くの専門家の関心を引いた。ちなみに友達が島にある丘の墓地で墓碑銘を確認したところ、数えるほどの姓しかなかったそうだ。Susakのもう1つの特徴は、アメリカへ渡った移民が多いこと。そのため毎年7月最後の日曜日にはアメリカへ渡った移民の帰還を祝うEmmigrants Festivalが行われる。ちょうどその日に滞在したので、町にあるあちこちの飲み屋からは50,60年代の懐メロが聴こえてきた。再会を喜び合う人々は歌ったり踊ったりして、見捨てられたような町は突如賑やかになるらしい。クロアチア(ユーゴスラヴィア)系アメリカ人として暮らす元スサック住民は家族を連れて帰って来ているので、子供たちは子供たち同士で大騒ぎしていた。港でぶらぶらしていたら、「うちのパパがこの島で生まれたから遊びに来たの。観光?」と愛想のいい女の子が話しかけてきた。祭りの翌朝にはもう船着き場に大勢の恰幅の良いアメリカ人が集結していた。みな親戚と別れを惜しんで、朝一番のリイェカ行きフェリーに乗りこんだ。
 島に残るほとんどの家はぼろぼろだけど、こういうのを安く買い取って自分なりに改造して気持ちのいい別荘にするのも楽しそうだ。実際にドイツ人をはじめとするヨーロッパ人がどんどん廃屋を買い取って、夏の別荘用に改築しているらしい。スロヴェニアやクロアチアの海岸に遊びにいった今年の夏、心底ヨーロッパ流ののんびりしたヴァカンスの過ごし方が気に入ってしまった。
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アンジェの白い鮫

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17日(日曜日)10時半頃目が覚めた。ふらふらトイレへ行くと「むわっ」とすごい臭いがした。何かと思ったら、死んだ鮫がシャワーのところに横たわっていた。お母さんに捨てろと言われ、悩んだAnžeがそこに置いたらしい。可愛いな~。
 のんびり海辺で勉強し、お昼ご飯にコテージへ戻るとみんなでpolnjeni paradižniki na žaruという料理を準備中だった。くり抜いたトマトに潮、こしょう、ハム、エメンタールチーズ、紫蘇、卵の黄身、凝乳などを詰め、バーベキューみたいに焼くのだ。
pineta.cooking
それ以外にも鯛やトウモロコシ、ソーセージ、ジャガイモが出てきた。最後のkosiloを楽しく美味しく食べられた。
 Anžeは結局午後海の沖合に鮫を捨てに行くことを決心したらしい。お父さんとAnžeとTiaの3人でウィンド・サーフィンのボードに乗り、お父さんがオールで漕ぎながら海原に向かっていく姿がとてもとても可愛らしかった。沖に出て鮫のお葬式を済ませた3人は、ボードの上でしばらく遊んでいた。
 戻ってきたAnžeは、鮫が死んでしまったのは自分のせいだと、お母さんのKatjaの胸で泣いていた。彼はとっても優しい心を持っていて、いつも家族や妹Tiaに気を配っている。去年の夏、近所のコテージの14歳の男の子に遊びに誘われたTiaに「まだ早すぎる!」と父親のような反応を示したとかで、家族は大爆笑だったらしい。
 私も最後に少し泳いでからコテージに戻った。テラスで本を読んでいたら、Tiaが描いた海の絵をプレゼントしてくれた。
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私は決して「根っからの子供好き」ではないけれど、このときばかりは本当に感動してしまった。
 8時半頃みんなに別れを告げてコテージを後にし、リュブリャナに戻る、お父さんの友達と駐車場で落ち合った。なんとなく近い将来この家族と再会できる確信があった。
 リュブリャナまでの車は黒いメルセデス。このドライヴァーが非常に下品な運転をする人で、少なからず恥ずかしい思いをした。ライトを点滅させて前の車をどかせ、チャンスがあれば前へ前へと割り込んでいく。前の車を抜かす度に、そのドライヴァーの顔を確認しようとするのが可笑しかった。周りのドライヴァーは皆顔をしかめていたし、ライトを点滅させて怒りを表明する車もあった。こんな彼だけれど、私にはずっとあれこれ気を遣い、家まできちんと送り届けてくれたので、最後はがっちり握手した。
 久しぶりのアパートに入るや否や、ささっと水着を洗って、ベッドに直行した。疲れたけど、本当に楽しかった。もっとスロヴェニアやクロアチアのことを知りたくなった。勉強頑張ろう…。

Novigrad(ノヴィグラッド)

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 夕方の7時過ぎに自転車に乗ってPinetaからNovigradへ遊びに行った。Novigradでは7時過ぎないと店は開かないし、人もいないので面白くないらしい。昼間は皆海岸に出ているのだ。道中、海沿いの舗装された道はとても爽快で、あっという間にNovigradの旧市街に到着した。マンツァの案内で、ジェラートを舐め舐め町をぐるりと観光した。
13世紀の遺跡を利用したホテル
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市庁舎
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鐘楼
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 そう言えば町中にイストゥリアの特産品、黒いtartufiの加工食材やクロアチア・ワイン売る店があった。帰る前に買おうと思っていたのに、結局買いそびれてしまった。次回こそ!
 ちょうど7月の週末だったので、Novigradでは「スロヴェニアの夜」という企画をやっていた。というのも7月にはスロヴェニア人観光客、8月以降イタリア人観光客が増えるかららしい。非常にノリのよいバンドが次から次へと軽快で伝統的なスロヴェニア音楽を演奏し、年配のスロヴェニア人カップルが沢山ステージ前で踊っていた。こういう場所では早めに食事を終え、後はビールを飲んで、調子が出てくると踊りまくるらしい。マンツァの両親世代は毎週末、こうやってビールを飲んだり踊って楽しんだらしい。
 バンドが地方名を挙げると、そこ出身の観客が大喜びして手を振って答えていた。人口たった200万のスロヴェニア人は、国際的なステージでは非常によく統一された行動をとるけれど、国内にいると非常に強い郷土愛をみせる。私とマンツァはムール貝とčevapčiči(チェヴァプチチ)という香辛料が利いた人差し指第2関節くらいまでのサイズのハンバーグをLaško(主にリュブリャナから東で愛飲されるビール。アルプスアイベックスのロゴが可愛い。ちなみに西ではUnion。)と一緒に食べた。
 10時半頃Novigradから家に戻ると、白い小さな鮫を釣ったAnžeが寝ないで私たちを待ちかまえていた。その日の午後お父さんや漁師と一緒に釣りに行って、彼だけ収穫があったのだそうだ。みんなに「ヒーロー」と呼ばれ、嬉しそうなAnžeが可愛かった。お父さんは船でワインを飲み過ぎたらしく魚臭い服のまま眠ってしまった、とお母さんが文句を言っていた。バケツに入れていつまでも鮫を見ていたかったAnžeだったのだけれど、鮫はすぐに死んでしまった。
 この夜はいつもの近所の夫婦と彼らの友人も来ていた。ワインとソルベをがぶがぶ飲んで、ずっとおしゃべりしていた。私の考え方や、日本の文化・社会問題などについて質問攻めにあったのだけれど、彼らの言葉にはかなり方言が入っているせいか、殆ど理解できず、英語かマンツァの通訳頼みになってしまった。今度またNovigradに来たら、夜のダイヴィングに連れて行ってくれるとか、リュブリャナ近くの家の方にも遊びにお出でと声をかけてもらった。新しく友達になった人々のためにも頑張ってスロヴェニア語を勉強しなければ!
 ちなみにこの日の就寝は2時過ぎ。その頃お父さんが起き出して、マンツァと両親、その友達は4時頃までしゃべっていたらしい。誰も急いだり、明日のことを心配したりはしない。テラスやハンモックで眠ることもあるらしい。彼らの間に流れるゆったりとした時間に同調し、身も心もリラックスできた。

ウィンドサーフィン

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 16日(土曜日)コーヒーにイチジクやスイカ、梨など軽い朝食を取って、11時頃お父さんと一緒にウィンド・サーフィンの練習に向かった。最初にお父さんの実演を見て、「簡単だな」と思いきや、見るのとやるのでは大きな違いがあった。帆は重いし、持ちあげた後手で固定するのも難しい。初めは誰でも苦労すると聞いていた通り、1日の練習では帆を持ちあげるのが精一杯で、操作する所まではいかなかった。それでも風があればなかなか爽快な気分を味わえそうだということは分かったし、その内日本でやってみようかな、という気になった。
 このPinetaの海はとてもキレイだ。PiranやKoper、Pulaなどの水と比べても美しいらしい。ここは湾になっていないし、港でもないからだと思う。PortorožやPiran、Pulaのようには若者が集まらず、落ち着いてもいる。イタリアのフリウーリ=ヴェネツィア・ジューリア州で言えばGradoのように、老人と子供が多く、ちょっと物価が高い町のようだ。要するに家族向けリゾート。そういえば若者グループが海岸でラジカセから音楽を流し始めるや否や、近くにいたチェコ人家族が露骨に拒否反応を示し、若者グループが場所を移動していくのを見た。
 ウィンド・サーフィンで疲れたせいか、午後はスロヴェニア語の勉強をする予定が、本を枕に木陰で昼寝してしまった。目が覚めてからちょっとだけマンツァに勉強の質問をした後で、ご飯を食べにコテージへ戻った。スロヴェニアでは4時頃kosilo(昼ご飯)になる。これが1日で一番ヴォリュームのある食事で、朝きっちり食べた後は昼の12時ころと夜に軽くフルーツやお菓子などを取るらしい。ちなみにこの日のメニューはお魚と野菜のバーベキューだった。
バーベキューはお父さんの仕事
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クロアチアの海へ

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 7月15日(金)12時半にスロウ゛ェニア語の授業が終わるや否や駅へと急いだ。アドリア海に面したクロアチアのリゾート地、Novigrad行きのバスは1時45分にリュブリャナ鉄道駅を出発する。Polianska cestaからŠempetrski mostを渡って、Trubarieva CestaからPrešernov trgへ出て、Miklošičeva cestaを北上し、バーゲンの賑わいを横目で見ながら駅に到着。Novigradまでの片道切符は20euro弱だった。
 バスはリュブリャナから高速でまずPostojnaへ向かう。畑や草原が続く平坦な土地を通り、巨大な鍾乳洞で世界的に有名なこの町に近づくと、窓際から草の匂いが入って来て、牧歌的な印象を受けた。この後Divačaを過ぎた辺りから低い山が続き、石灰岩も見えて来る。Kozinaを通った後で、トリエステの裏手にあるカルソ台地を彷彿させる地形がみられた。地図で確認すると、やはりちょうどその辺りを通っていた。
 バスはこの後、トリエステを追い抜きつつある成長著しい国際港Koper(Capo d’Istria)や、Izola、Piran、Portorožなどを通り、友達Katjaの故郷で塩田の町Sečovljeを通り過ぎたらすぐ国境検問所があった。バスはクロアチアに入り、Umagでほとんどの客は降りて行った。後は運転手とおしゃべりしながらトロトロとNovigradへ向かった。途中のPinetaで降ろしてくれと頼んだのだけれど、彼はそこを知らなくて、Novigradの先まで連れて行かれてしまった。電話で友達のマンツァに連絡し、Porečで彼女とそのお父さんZdenkoに会うことが出来た。
 Pinetaには沢山の小さなコテージがある。スロヴェニア独立以前、スロヴェニア企業の社員が利用していたものらしい。その中の1つにマンツァのお母さんTanja、お姉さんKatja、その子供達AnžeとTia、Nanaが私を迎え入れてくれた。Katjaの家族は夫の仕事の関係で、ポーランドに住んでいるのだそうだ。子供達は日常生活で使うポーランド語、スロヴェニア語に、学校で学ぶドイツ語、英語が加わった多言語環境での生活を余儀なくされている。
Nanaは3歳
nana
Anže(11歳)とTia(10歳)
tia.anz'e
皆が温かく迎えてくれて、久しぶりに飾らない家庭の雰囲気を味わうことができた。荷物を置いて、すぐマンツァに湾の方へ散歩に連れて行ってもらった。
pineta.wan
帰ったらお父さんが肉各種を準備し、バーベキューを作ってくれていた。色んな香辛料が入ったハンバーグpleskaviceがとても美味しかった。
 夜には近所の人々がやって来て、テラスでおしゃべりしながらシャンパーニュに果汁やヨーグルトを混ぜたソルベというお酒を飲んだ。1時近くまで頑張ったけど、それが私の限界だった。Lahko noč(おやすみなさい)。