チェロも6ヶ月

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 になる。そろそろ。楽しくて楽しくて仕方がないため、練習に時間を使い過ぎないようにするのが大変なくらいだ。1人でも十分楽しいけど他の楽器と合わせたり、オーケストラに入ったりするのもさぞ楽しいんだろうなあ。ま、当面無理だけど。
 実は前回Leeという人が書いた練習曲で引っかかって、初めて「もう1回」を申し渡された。ベストを尽くした上で停滞を余儀なくされる状況にはかなりストレスが付きまとう。ともあれルーポ〔ギーギー言う音。安物のチェロだと弓の位置を下げる程に酷い音がする。〕を気にせず、全体的な姿勢とか指の使い方、弓の軌跡などを見直す忍耐の1週間を過ごした。そのお陰か今回はなかなかいい感じに。注意されたことに意識的に取り組んだ跡が見られるとかで、お互いに笑顔が多かった。
 今回ようやくmano largaとかいう左人差し指を若干移動する練習が始まった。1年目は基本を定着させるために、これ以上新しいポジションは習わないらしい。早く上手くなりたいけど、成果を実感する前に帰国になりそう。残念。「近所にコンチェルティスタのマエストロがいて、楽器はタダでレンタル。」なんて日本ではあり得ないだろうなあ。
 面白いことにチェロの練習をしているとスロヴェニア語などのマイナー言語の勉強とか筋トレがしたくなってくる。同じ脳の部位を使う作業なのか…。「複雑なことは考えない」で、指導者に「言われた通り」、体の一部分を集中的に虐めて、小さな達成感を断続的に味わう繰り返し。勿論その先には創造性とか知性を働かせる段階が待ち受けているわけだけど、そこに辿り着く以前にも楽しく楽観的にやれる忍耐力を〔なるべく若い内に〕培うことの重要性を頻繁に感じる。
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体調不良

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 でまたしても病院へ。昨日の朝、取り敢えず雨の中ホームドクターのところへ行き、そこから市民病院へ。ちょうどルームメートがジムに行くところだったので、車に乗せてもらった。
 「科」の予約を取りに行ったら、ホームドクターが「緊急」と書いていないから1月半ば(!?)まで待ってもらうと言われた。結局コネに頼るしかないのか?と思いつつ、一応自助努力をしておこうと科の窓口で直接交渉したら、ちょうどキャンセルが出たとかで5分も経たずに診てもらうことができた。僥倖僥倖。先生の意見は想像していた通りだった。処方された薬を薬局でもらって帰宅。翌朝(つまり今朝)7時半にまた血液検査をしてもらったら、36ユーロ(5000円くらい)かかった。今風邪まで引いていて、気分は満身創痍だ。
 これまでイタリアの病院について色々文句を書いたけれど、一旦医者のところに辿り着けば、結構きっちりやってくれるし、説明も明快だし、薬はタダだし、そんなに悪いものでもないのかも。
 昨夜、ウーディネでメディアセットのお笑い番組の収録があると誘われていたけど断った。薬をきっちり飲んでしばらく大人しくしていよう。
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雨の日曜日

 なんて久し振りのような気がする。コートが必要ないくらい気温が高く特に予定もなかったので、朝っぱらから城山にあるモーダ博物館のカタログを買いに行くことにした。何度も足を運んでいるのに、町の主要な博物館のカタログを持っていないというのはちょっと問題があるかもしれない。数年この町に住み資料収集に対する貪欲さが失われてきたのか、「また来たときに買えばいいや」とか「帰国前にお金が余っていたら買えばいいや」が多くなった。やっぱり本のために食事を犠牲にするくらいでないとダメなんだろうな~。
 さて、ゴリツィアの城山には3つの博物館がある。1つは城自体で、残りは城のボルゴ〔城壁に囲まれた小さな町〕にあるモーダ・応用美術博物館と第1次大戦博物館。どれもなかなか充実していて半日くらい時間が空いたときにぶらぶらするのにちょうどいい。
城や博物館についてはまた改めて書くつもりだけど、取り敢えず雨の中撮影した城山の麓から城門、美術館までの風景を残しておく。
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(ドゥオーモ並びに警察署前のダヌンツィオ通り)
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(ダヌンツィオ通りから城山へ上っていく。ポルティチが残る地区。)
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(ゴリツィア最古、14世紀に舗装されたラステッロ通り。)
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(ダヌンツィオ通りに残る古い建物)
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(ダヌンツィオ通りからドゥオーモの鐘楼を眺める)
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(レオポルディーナ門が見えてきた)
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(17世紀初頭に建造されたレオポルディーナ門)
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(14世紀末に建造されたゴシックのサント・スピリト教会。煉瓦で囲まれたバラ窓が可愛い。日曜9時半からミサがあるので、その前後で内部の見学ができる。)
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(ボルゴにある2つの博物館)
 日曜朝にゴリツィアにやってきた観光客はあまりの人気のなさにびっくりするかもしれない。目抜き通りのお店もほとんど全て閉まっているし、特にこういうどんよりした日にはかなりの寂寥感がある。どうしても人が見たかったら教会のミサとかお菓子屋さんに行ってみるといい。あいているバールもかなり人が入っているし、中欧風郷土料理の食べられるトラットリアもオススメ。午後はまた博物館や貴族の邸宅などを見学したり、イゾンツォ公園の方まで足をのばすのもいいかも。ともあれ買い物さえ諦めれば日曜のゴリツィアでも色々楽しめると思う。
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チョコ祭り

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 グラディスカ・ディゾンツォというゴリツィアの隣町でチョコレート祭りがあると誘われ、出かけてきた。祭りは地域の歴史と関わりがあるわけでもなさそうで、トリエステやペルージアなどイタリア中の色んな町で似たような試みがあるらしい。出店は近場のメーカーを中心に、イタリア各地のものが集められていた。ともあれ祭りはチョコレートの洪水。「あらゆる」モノを模ったチョコレートに感心させられた。
 今回は同世代の友達5人と一緒だったんだけど、その中でゴリツィアーノは1人だけだった。たまにはこういうのも新鮮でいいなあと思った。みんなが次々に馬鹿話を披露しあい、とにかく笑って笑って2時頃帰宅した。外は雨で、気温は15度前後あった。
(縫い目が破けてホッチキスで応急処置を施された友達のスカートを縫合するS)
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寿司

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 を作った。といっても簡単な手巻き寿司。ゴリツィアのように小さな町に住んでいると未だに寿司未経験なんていう人が結構いて、ことある毎にリクエストされるのだ。1年前にリュブリャナで作ったときには、さすがに一国の首都だけあって、色んな種類の生魚が簡単に手に入った。今回はゴリツィアの限られたネタで、いかに本物らしくできるかが問題だった。まず生魚2種類と朝獲れた新鮮な海老をメインに決定。貝割れ大根のぴりっとした感じをすったカブ〔?皮は黒かったけど…。〕で代替し、生魚がダメな人用に甘辛煮の牛肉を今回も用意した。後はキュウリと甘い卵焼き、生姜など。大したことはやっていないけど、テーブルの上はなんとなく賑やかな雰囲気になった。
結果、どうしても海苔に心理的抵抗を覚えるという人が結構いることが分かった。多分「慣れ」の問題だとは思うけど。次回は無理に「手巻き」スタイルに固執せず、「ちらし」にして海苔は好みでかけてもらおうと考えている。多分来週半ば、食欲のありそうな若い人ばかり4、5人集まる予定。こっちの魚って高くつくから不安。
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サン・マルティーノ!

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 今年のサン・マルティーノは友達とカルソのオスミツァに行ってきた。期待していたほど晴れてはいなかったけど、気温は16、17度はあったと思う。
 取り敢えずアウリジーナやプロセッコをうろうろして、トリエステに至り、ムッジャのオスミツァを新規開拓してみよう!ということになった。町中をぶらぶらしながら、オスミツァ好きそうなおじいさんに聞いたら「今日はプロセッコで市がある」ということで、高速に乗り、行きに素通りしたプロセッコに戻った。
 プロセッコはミラマーレ城に近いスロヴェニア系の小さな町で、ここのサン・マルティーノ市はトリエステ住民にはよく知られているらしい。内容はゴリツィアで12月に開かれるサンタンドレア市とほとんど一緒。周辺の農民が農産物を売りに集まったところに起源はあれども、現在はイタリア中の市や祭りを渡り歩く人々が似通った品物を売っているいるだけで、あまり地方色は感じられないのが残念だ。アフリカの置物、ペルーの飾り物、イタリア南部や中部の食肉加工品、漬け物など。中国製の衣料品、靴、鞄には当然偽ブランドも混じっているけど警官は気にもしていない様子。 食べ物はポルケッタの屋台が2,3出ていた位かな。後は移動遊園地とか小さな飲み屋が開設されて、結構賑わっていた。ここでお腹を満たすのはちょっともったいない、と考えてプレポットのシュケルクに行ってみたら、時間が早すぎたのかまだ開いていなかった。
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(プロセッコの教会の鐘楼)
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(プロセッコの出店)
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(臨時の飲み屋。結構賑わっていた。)
 近くでオスミツァの印(月桂樹の枝の束)を幾つか見かけたので、一番近かったJožkoという店に入ることにした。店の門にもこの通り印が。結構寒いのに、庭で飲み食いする人も結構いた。店の中はとても温かく、学生やグループ、子供連れの家族、カップルなどで大にぎわいだった。学生が誕生日を祝う歌を歌い始めると、店の客みんなが盛り上がるという具合。
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 私たちはテラン(土地の酸味の強い赤ワイン)にポルケッタ(プロシュット・アッロスト)、ソーセージ入りパニーノを頼んで乾杯。勿論全て自家製。生姜の乗ったポルケッタがすごく柔らかくて絶品!だった。普段ほとんど酔わない私たちもすぐに顔が赤くなった。多分まわりの雰囲気に酔ったんだと思う。オスミツァ、というのは独特な空間で、あらゆる社会階層の人が集まる非常に地方力の強い場所だ。ここではみな気軽に言葉やグラスを交わし合う。温かく気取らない雰囲気に誰もが周りを気にすることなく酔っぱらってご機嫌になれる。
 最後にリンゴのシュトゥルーデルと微炭酸のヌーボーワインを頼んで店を出た。ゆっくり楽しく飲んで食べて1人9ユーロくらい。みんなに愛されているのも納得だ。すっかりカルソのオスミツァ・ファンになってしまった。あのポルケッタを食べにまたすぐにでも行きたいな。

春が来た

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 と友達と話し合っている。サン・マルティーノ(11月11日からヌーヴォーワインの解禁を祝い、1週間、踊って、歌って、飲みまくるお祭り)の少し前になると、この地方は毎年春のように温かく明るい日差しに溢れる。去年も書いたと思うけど「サン・マルティーノの夏」というやつだ。面白いことにサン・マルティーノが終わると途端に冬に戻り、後はひたすらパスクワまでじっと寒さに耐えていくことになる。
 明日、土曜日と明後日、日曜日も素晴らしい天気が期待できそう。冬を前にアウトドアを満喫できる最後のチャンスとばかりに、計画を練っている人が多い。私も朝からどこかに出かける予定。

甘いモノ

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 10月、11月と、あちこちで農産物の収穫祭が開かれ、スーパーにはカボチャや栗、など秋の味覚がずらりと並んでいる。めっきり寒くなったせいもあり、異様に甘いモノが食べたい今日この頃。日本にいればコンビニだってカボチャプリン、マロンケーキ、となんでも食べられるのに、この町にいる限り自分で作るしかない。というわけでケーキやクッキー、スフレなどに秋の味覚を練り込む実験が続いている。カボチャは何に入れても美味しいけど皮むきがちょっと大変。この辺でよく見る栗castagneはmarroniに比べると小さくて、皮むきが面倒なのでもう見るのもイヤ。ともあれこんな私を見て、ルームメート達は私が「とっても家庭的な人」だと勘違いしている。
 食べモノついでに。何人かの友達に寿司パーティを催促され、10月末に幾つかの材料を日本から送ってもらった。荷物は1週間で着く予定で日本を出発し、実際1週間後にマルペンサ近くの税関に到着。数日後、「配送を依頼」する書類が我が家に送られてきた。これまで何度も日本、その他の国から荷物を受け取っているけど、こんなの初めて!改めて、内容やその価値、税務番号などを書き込み、FAXで送ってから既に5日が経過した。昨日、荷物はどうなっているのか、と電話をしたら「書類を返送してから1週間はみて下さい」とのこと。日本からマルペンサまで1週間、マルペンサからゴリツィアまで1週間かかるらしい…。
 来週にはヌーヴォー・ワインが解禁になるし、月末にはsmaialata豚の解体と、それに伴うサラミやハム作りが行われる。12月になればスキーシーズン到来、と結局秋や冬にも楽しい行事が沢山待っている。「年末どうするの?」と聞かれることも多くなってきた。「論文書くから家にいる。」というと悲劇的な反応をされるので、「まだ分からない」と言うことにしている。
 火曜日、トレヴィーゾの「20世紀ヴェネツィア絵画展」に行ってきた。
 行きにユーゴ爆撃の際に使用されたRivolto(Codroipo、マニン邸のそば)の空軍基地を通ったら、ちょうど3機がアクロバット飛行の訓練中だったので、基地に面したトラットリアでパスタ・シュッタを食べながら見学した。ここのアクロバット飛行Frecce Tricoloriフレッチェ・トリコローリのレベルは世界でも有数だとかで、一年中あちこちでデモンストレーションを行っている。現在パイロットは10名ほど。比較的若い彼らは空軍パイロットの最高峰だが、実戦には参加しないらしい。以前「フレッチェ・トリコローリとサッカーとフェッラーリを見ているときだけイタリア人としての誇りを感じる」と言った友達がいた。テレビでチームのメンバーが出てくるときには決まって映画「トップ・ガン」の音楽が流れてきて、笑える。興味のある方はFrecce Tricoloriのホームページへ行ってください。http://www.aeronautica.difesa.it/sitoam/default.asp?idente=246
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 国道を通ってトレヴィーゾへ向かっていると家具工場や家具の大型アウトレットを幾つも通り過ぎる。いくつかの経済指標からみると今年の州経済は全体的に上向きで、特に輸出の伸びが顕著だった。デザイン、品質にこだわった家具生産はこの地域の持ち味だから、この国道を通っていると州経済の底力を実感できるような気がする。
 トレヴィーゾの町は何だかすごいことになっていた。通りという通りの宙をイルカが舞い、テラスにはペンギンや熊が…。広場やちょっとしたスペースには巨大な赤い犬や金の羊が置かれていた。
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 トレヴィーゾのCasa dei Carraresiで10月末から4月8日まで開かれているヴェネツィア現代絵画展は想像していた通りとても充実していた。「20世紀のヴェネツィア」でどういう画家の間に交流があったか、とか、彼らが何を見ていたのかが分かる構成になっている。http://www.venezia900.it/
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(Casa dei Carraresiのロビーから)
 帰り道、サン・ミケレ山近くのGabriaガブリア城麓のトラットリアで軽く食事した。ここのお城は今改修中で、今後アグリツーリズムに力を入れていくらしい。私が入った店も数年前に城の現在の所有者が出資してきれいにしたのだそうだ。城は小規模ながらワイナリーも持っていて、夏場には既に結構な数の観光客が訪れていると言っていた。

Torviscosaトルヴィスコーザ

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(工場(Caffaro)正面)
 先週トルヴィスコーザという下フリウーリ地方の小さな町に行ってきた。建築を学んでいる人の間ではかなり有名な町らしく、経済史的観点からも見るべきモノがあるのでは?という友人の助言があったからだ。
 この町は30年代の経済危機を乗り越えるため、政府が産業振興策の一貫として推進した「葦を原料とする合成繊維セルロース」生産の拠点として誕生した。まず「葦」を原料にするというのが当時の化学工業では革新的なことだったらしい。セルロースの原料と聞いてすぐに思い浮かぶのはイタリアより緯度の高い地域、あるいはバルカンの山地などに生えている高木だ。「葦」を原料にすることでイタリアでも、セルロースが生産できるようになったわけだ。特に豊富な労働力を抱えるフリウーリ地方の湿地にあり、直ぐそばを幹線道路やヴェネツィアートリエステ線が通るTorre di Zuinoがこの国家的事業の拠点として選ばれた。1937年10月には工場などの建設が開始され、翌年9月に完成。ムッソリーニら出席のもと完成式典が執り行われた。イタリアが参戦する2年後、工場の生産能力は2倍になり、40年10月、コムーネ、トルヴィスコーザが誕生した。
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(市役所)
 トルヴィスコーザ誕生の経緯を見れば分かるように、この地域は広大な沼地で近場に町や他の工場などがなかったため、敷地内で完全に労働力を再生産できる施設が求められていた。従って工場の正面にLa casa a chi lavora労働者用住宅、バール、娯楽施設、幼稚園、学校、劇場、プールなど一通りの生活スペースが確保された。特にここで重要視されたのはミラーノやトリーノの支社から招聘された技術者などを取り込んだ「新しい労働者階級」を作り出すことにあった。労働者にこうした生活スペースを提供することで、会社との協調ムードを作り出すことに成功したと言われている。
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(La casa a chi lavora)
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(工場正面にあるバール。フェッリーニの映画に出てきそうな雰囲気。)
 戦後、工場の修復、拡張を経て、トレヴィスコーザは新技術が開発、輸出される一大産業拠点となった。ここから多くの技術者がブラジル、インド、イギリス、メキシコ、ロシア、スペイン、南アフリカなど多くの国に新しいトレヴィスコーザを建設するために旅立っていった。60年代には近くに発電所や専門学校、貯水池などが作られ、SniaやLILIONといった新しい繊維の他、近くに沢山生えているポプラなどの広葉樹を原料にした多様な紙の生産が始められた。
 63年には葦の生産が終わり、周辺で酪農やポプラ栽培、穀物、飼料、果物、植木などの生産が始まった。合成繊維の生産は年々先細りとなり、80年代には医薬品や化粧品の生産も行われるようになった。90年代には国際市場におけるセルロース供給の過剰により、価格が大幅に下落。65年には2000を超えていたトルヴィスコーザの従業員数も、現在はおよそ450に過ぎない。
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(教会の正面には…)
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(工場の煙突が。)