tassinaro
 ローマのタクシー運転手達の人情味に溢れた「日常」(!?)を描く作品。ストに参加したり、テキサス人客をローマ観光に連れ出した挙げ句喧嘩になったり、ワケありな若い女性客を乗せて世話を焼いたり、女優を乗せて怒らせたり、息子と衝突した挙げ句、客の大物政治家(アンドレオッティ本人!)に相談したり、日本人客が多い〔でました!〕という売春婦を乗せたり、毎日毎日大変だ。数ある「タクシー映画」の中でもなかなかの出来だと思う。思わぬ収穫だった。
 筋を離れたところでは、82年に製作されたこの作品に溢れる当時のローマの空気がとても好き。私が初めてローマを訪れたのは90年代初頭だけど、その頃にもまだ映画の雰囲気が残っていたような気がする。リラだった当時、食べるにも見るにも負担が軽く心も軽かった。遺跡は真っ黒で、駅は危険、見所付近にはキッチュな土産物が溢れ、タクシー運転手、ウェイター、商店主らは垢抜けず、粗暴だけど人情味のある人が多かったような気がする。
 主人公らのタクシーは、コロッセオを初めとする代表的な遺跡のそばやテヴェレ川沿い、高級住宅地や町外れまで、1日中ローマの町を走りまくる。フェッリーニの『ローマ』の「80年代労働組合版」みたいだな、と思っていたら、なんと最後には客役でフェッリーニが登場!!!台詞だか自由な会話だか分からないような調子で、運転手とフェッリーニはしゃべりまくりチネチッタに到着!映画はここで終了。
 この映画を見た後でil Tassinaroの10年前に作られたフェッリーニの『ローマ』を思わず見直し、この天才の創造性、スケール、感受性はやっぱり隔絶しているしているな~と改めて感心した。
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ルームメート再び

テーマ:
 結局2月を待たずに新しいルームメートが2人決まってしまった。ウディネーゼとポルデノネーゼ(州内の人)だから、そう毎日家にいるわけではないらしい。それはつまりこれからも私が家の責任を持たされるということを意味する。
 入院前、家で高熱に苦しんでいたときから、入院中、退院後の療養期間にかけて、一体何回この件で大家さんからの電話を受けたことか。熱と吐き気で苦しんでいる私に、「見学者の案内」、「部屋の模様替え」、「鍵の受け渡し」をしろ、なんて無茶過ぎる。退院が決まったと連絡したら、「あなたのためにも嬉しいけど、私のためにも嬉しい。」だって。これで心おきなく面倒を押しつけられるようになる、というワケ。
 新しくやってくる2人はいつもゴリツィアにいるわけじゃないから、と既に水道、電気、ガス代の分担比率に傾斜をかけることを要求しているらしい。これで家賃の徴収とか、家具や電化製品の修理に来る人への対応、家の共同スペースの掃除、ガスや電気メーターの数字の記録など、あれこれやらされるんだとしたら割が合わない。例え1週間に3日しかいないのだとしても、光熱費を余計に払わされるのは断固拒否しなければ。
 ちなみにポルデノネーゼのジュリアは30歳近い女性で、ドイツ語の翻訳などで日銭を稼いでいるらしい。ゴリツィアでは音楽学校と6ヶ月の契約を結んで、オーストリアとコンサートの共同企画を手伝うそうだ。この彼女とはどうもsensibilitàの乖離を感じる。私が食事している間でもキッチンに洗剤を撒いて掃除したり、付きが悪いといってライターを捨てちゃったり(彼女が次に来る木曜日までガスが使えない!私が買えってことか?)、私のものまで好きなように片付けたりする。映画もテレビも好みが合わな過ぎる。初日から婚約者が泊まっていって、シャワーには大量の毛が…。大人同士、ある程度の距離を保った付き合いをしたい感じだ。
 今週末にはスペチャリッツァツィオーネ〔大学3年を終えた後のコース。マスターの前段階。〕をやっているという若いウディネーゼもやって来る。き、きつい…。
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復活(ブルダのヴェンデンミア)

テーマ:
 退院後も家でじっと大人しくしていたお陰か、もうかなり体調が戻ってきた。23日(土)「今日こそ思い切って外に出よう」と決めたところで、友達からツーリングの誘いがあったので一緒に出かけることにした。今回は長いことベッドの上で過ごしていた私のために、近場の美しい自然を見せようとしてくれたらしい。
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(モスト・ナ・ソーチ〔「ソチャ川に架かる橋」という意味〕の喫茶店)
 午後1時頃いつものエメラルド・トレイル(イゾンツォ川沿い)を北上し、1時間くらいかけてモスト・ナ・ソーチまで行き、美しい川を見ながらお茶を飲んだ。その後チェントロのレストランで時間をかけながら肉の盛り合わせを食べつつ、今回の入院について詳細を報告した。食後、コバリド(カポレット)に向かって北上。のんびりした農村を幾つも通り(写真)、大量に実をつけて重そうにしなるリンゴの木を沢山見かけた。マタユール山の近くでイタリア側に越境。チヴィダーレを通り、ヴェンコで再度スロヴェニア入りした。ここでドーブロヴォのワイン協同組合に寄り道することになった。
slo.campagna
この辺りももうヴェンデンミア(ブドウの収穫)を迎え、昼も夜も協同組合前には長い長いトラクターの列が出来ている。
brda.fila
除梗機に近づくと、ブドウの品種毎に列が分かれている。Rebula(イタリアで言うリボッラ・ジャッラ)が一番多いみたい。
rebula
brda.cantina.socia
赤はやっぱりMerlot。このカンティーナはドーブロヴォの城の麓にあって、カンティーナと城の間には葡萄畑とサクランボウ畑が広がっている。
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(ブドウの絞りかすをもらっているトラクター。これでグラッパを作る。)
 ドーブロヴォからノヴァ・ゴリツァに近づくと、ちょうど日が沈みそうだったので、標高600mくらいの山にある聖地スヴェタ・ゴーラ(モンテ・サント)に寄り道することにした。あと10分早かったらキレイな日没が見られたんだけど、もう暗過ぎて景色はイマイチだった。
monte santo
from.monte.santo
 最後にカザ・ロッサ国境でみんながワインを飲んでいるときも私はカップチーノを頼んだ。別に酒が病気の原因だったわけじゃないけど、しばらく肝臓に気を遣いながら生活しようと思う。今日は久し振りに外に出て、楽しかったけどすごく疲れた。
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高い!

okazu
 寝込んでいる間、何度か友達から色んな差し入れをしてもらった。その中にはスーパーのパック入り総菜もあったんだけど、そのまずさと値段の高さにびっくりした。そういえばゴリツィアに辿り着いた当初、スーパーの総菜に頼れないことがすぐに分かり、こまめに買い物に行き、料理をする習慣が身に付いたんだった。
 例えば写真右上から時計回りに、茹でた葉野菜、キノコのクレープ、カニ身入りフライで、合計12ユーロくらい。1800円オーバーだ。これで美味しければ救いもあるんだけど、すっごく不味い。サンドイッチ類も塩気が強過ぎたり、高かったりでイマイチ。
 こういう出来合いの総菜を買う人が少ないから、高くてまずいのか、高くてまずいから買おうとする人がいないのか。多分どっちもあるんだろう。のんびり豊かな生活のできるゴリツィアだけど、病気や忙しい時にささっとお腹を満たすファーストフードに関してはピザとケバブ以外の選択肢がない。絶望的だ。
 いざとなったら比較的カジュアルなレストランで電話注文して持ち帰り、という手もあるけど、最低10ユーロ(1500円)くらいはかかる。大学時代の京都には470円ランチというのがあったし、本郷あたりでも700円くらいから定食があったと思う。いつの間にかイタリアの方がなんでも高くなってしまったような気がしないでもない。

病院食みたい

テーマ:
 イタリアでもまずい食事をこう表現するのだと、ナポリ出身のヴェネツィアーニが教えてくれた。通常の食事から油と香辛料をある程度抜いたら、イタリア人が作ったってまずくならざるを得ないのだろう。
 病院のメニューには日本の病院でみられる多様性がなかった。パスタ各種、肉かチーズ、生野菜、果物(生か煮たやつ)から選べるようになっていて、肉はヨーグルト2つとトレードできたはずだ。
 パスタといっても、ツブツブパスタ入り無味無臭スープとかトマトソースと和えたブヨブヨパスタなど。チーズなんてモッツァレッラが袋のまま出てきたりした。気に入ったのは、オリーブ・オイル、塩、バルサミコ酢が付いてくる生野菜、ミネストローネ(緑色のどろどろスープ)、七面鳥ステーキ、野菜入りオルゾット。
 ともあれ、こっちの病院では各患者の病状にあわせてメニューを工夫してくれるようなことはないから、多くの人は家族や友達がもってくる食料を一緒に食べている様子だった。ま、入院費タダと知れば、こんなの当たり前だよなと思える。でも家族もお金もない人にはキツい制度だ。

退院

テーマ:
 退院の手続きは簡単。担当医師に書類を1枚書いてもらい、点滴を引き抜いて終了だ。入院中に頂いたお菓子を看護士に残し、部屋の人達に挨拶して、久し振りに強い日差しの下に出た。友達の車で家まで送ってもらい、夜には別の友達がわざわざ様子を見に来てくれた。電話で様子を聞いて気にかけてくれる人達にもとても励まされた。
 月並みだけど、健康と人間関係を置き去りにしては何も出来ないってことを身を以て学んだ。研究計画は「大分」狂ってしまったけど、やれるだけやって後悔なく帰国できるようにしたい。
 老婆心ながらイタリアの大学に留学している(/する)人には、以下の点を強調しておきたい。

・保健証があり、救急の人々に認められれば医療費はタダ(任意の保健証は正規の大学生なら1年間150eruo程度で簡単に作成できる。ホームドクターも割り振られるし、オススメ。他州についてはよく分からない。)
・病院サービスの不徹底は「家族」がカバー(つまり家族がいない以上、それを代替する友人・知人の助けが必要不可欠)
・人脈=「マシ」な待遇

結局最後は「人脈」か

テーマ:
 最後の挨拶を終え、ようやく合点がいった。彼が全てを手配してくれたのだ。
 彼というのはイタリア銀行の支店長で、私がゴリツィアに来てから2年半ほど世話になっているPさん。彼の近所にすむ友人に入院の件を聞いて、その日の内に夫婦で様子を見に来てくれた。入院中夫婦揃って3日間、奥さんには更に色々助けてもらった。
 「全て」と書いたのは、身の回りのものや雑誌、新聞、食料などの差し入れのことではなく、「人脈」のこと。彼は某社交クラブ経由で病院関係者にくまなく連絡を取ってくれたらしいのだ。そういえば入院初日から任意の健康保健証を作った方がいいからと事務の人がやって来ては、必要書類への記入、郵便局での支払いを代行してくれたり、翌日にはもう出来上がった保健証を手渡され、「どうもイタリアっぽくないなあ???」と思ったのを覚えている。病院職員(事務を含む)の態度は一貫して親切で、入院2日目には他部局長が挨拶に来た。さらに最終日には課長、部局長、他部局長、友達の友達だという医師らが次々と担当医師を訪れたので、先生も「一体どうなってるんだ?」と不思議がっていた。
 このPさん、来週にはゴリツィアを後にしてピエモンテへ転任するそうで、退院の日には最後の挨拶をした。すると彼は途中経過を改めて説明するまでもなく、入院初日からの全過程をよく把握していた。保健証に必要な費用とか病院関係者の名前が次々彼の口から出るのを聞いて、どわ~っと感謝の気持ちが沸き上がってきた。考えてみればこの2年、「何かあっても大丈夫」という気持ちが心のどこかにあったような気がする。それは何より彼のアシストがあったからなのかもしれない。
 ちなみにPさんは3年後には定年退職を迎えるのだが、その内ゴリツィアにアパートを購入し老後はここで暮らすことを考えているそうだ。イタリア全国津々浦々で仕事をしてきた彼もゴリツィアの住みやすさを認めたということか。数年後にゴリツィアで再会することもあるかもしれない。

病院の日常

テーマ:
 朝6時半頃から部屋に看護士や医者がやって来て、検温、採血、血圧測定などをする。その後部屋の掃除、シーツの交換などがあり、8時前後にはお茶かカフェラテにビスコッティという激烈に軽い朝食。この後ドクターが状況を説明したり、様子を聞きにやって来る。昼食は12時。食事介助はないから、最初は枕元に置かれたトレーから手でつかめるものを食べようと思ったけど、難しく、断念せざるを得なかった。若干の「食欲はあった」のに…(恨)。ともあれ食後は消化などの負担があるので、ゆっくり横になり、気がつけば午後6時の夕食だ。昼食、夕食時が面会のピークになるんだけど、その理由は「食事介助がないから」だと思う。夕食を終えると、後はやることもなく、翌朝6時半まで悶々としながら過ごすことになる。
 私と相部屋だったのは2人のおばあさんで、1人は退院直前のカザルサ。もう1人は呼吸機能に障害がある(と思いこんでいる)人だった。後者が異様な心配性で、15分ごとに緊急連絡ブザーを押すものだからたまらない。朝も昼も、ご機嫌斜めな看護士がやって来ては、「いい加減にしてよ!何でもないんだから。大丈夫なの。呼吸は出来てるんだから。もうブザーは押さないで!!!」と怒鳴り散らされるのだ。それでもおばあさんはブザーを鳴らし続け、同じことを繰り返し要求するのだった。ちなみに私がこのブザーにお世話になったのは点滴してた腕が痛くなった1回のみだった。
 入院中カザルサの友達や親戚を見ることは一度もなかった。彼女はグラディスカの老人ホームに住んでいるらしく、「私には帰る家もない」と言っていた。ポーレッツ出身の彼女はいつもティトーやパルティザンの暴虐について話していた。元気な彼女は部屋の内外を行ったり来たりして、夜も眠れないのか、いつまでもお菓子をぱりぱり食べていた。2日目からは一緒に食事をするようになり、廊下で椅子に座りお菓子を食べながら話しこんだりした。せっかく仲良くなったのに、彼女はその翌日には元気に退院して行った。
 カザルサの後、若い女性が2人来て、1晩で退院していった。その後極端に食事量が少なくて気絶したというおばあさんが運ばれてきた。

パデッラ!

テーマ:
 私は血圧が超低かったから入院させられたわけで、ベッドから起きてトイレに行くなんて無理だろうとドクターに言われた。尿瓶なんて恥ずかしいなあ、と躊躇していた私だけど、最後には看護士にお願いすることにした。このとき彼女が持ってきたのが「パデッラ」。どう見ても「ちりとり」なんだけど、コレにしろ、というワケ。これはヨーロッパの伝統なのか?こんなもの使ったらベッドは悲惨なことになって、看護士の仕事だって増えるのに…。
 覚悟を決めたものの心理的な拒絶は決定的で、結局点滴したままトイレに行くことにした。ダメ、と言う割に止める人もいないのが、なんとも。自己責任(放ったらかし)の国、イタリア。

入院

テーマ:
 土曜の朝、ベッドに横になったまま点滴を受け、4階の小部屋に運ばれた。1階の喧噪を逃れて辿り着いた4階の部屋は、古いけど1階よりは断然広くて明るかった。それになんと言っても看護士達の態度が格段にマシだった。
 看護士の1人に「あなた入院したんだけど、パジャマとか必要なものある?友達とかに電話してあげようか?」と言われ、ああ、人生初の入院をイタリアですることになったのだなあ、という実感がわいてきた。
 ここで何人かの友達に連絡を取ったところ、イタリアの病院事情をよく知っている近所の友達が家からパジャマや身の回りのもの、水などをすぐに持ってきてくれた。ゴリツィアの病院事情は日本のそれに比べると大分違いがあるので、それを承知していないと入院当初は少し大変な思いをする。その点、私は彼女のお陰で順調な入院生活のスタートを切れたし、その後も不自由なく過ごすことが出来た。感謝、感謝。

以下はイタリアで入院生活を送る可能性がある方に。参考まで。

・看護士や医者は頼まない限り基本的に何もしてくれない
・院内に知り合いがいないと放っておかれる可能性がある
・流動食の準備、食事介助、入浴、シャンプーなど「余計なサービス」は一切なし
・尿瓶はなく、あるのはパデッラという「ちりとり」のみ
・看護士も面会に来る関係者達も入院患者にお構いなく大声でしゃべりまくるので、ここで「休憩」するのはまず無理。
・同室の人にもよるのかもしれないけど、夜も昼も安眠不可能
・携帯は自由に使える(注意されたのは救急で1回のみ)
・プライヴァシーは一切なし