ペルメッソ!

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 更新したPermesso di soggiorno(滞在許可証)の出来上がりが5月(!)になると聞いて、今日はクエストゥーラまで直談判に出かけた。知り合いに手を回してもらうことも考えたけど、今回が最後の更新になると思うし、自分で出来るところまでやってみることにした。数日後に連絡をくれると言っていたけど、どうなることか…。
 夕方に大家さんから電話があり、夏から空く部屋の新しい住人に心当たりはないか訊ねられた。私の友人達は「君が一軒借りちゃえよ」と暢気なもの。確かに色んなリスクは軽減できるけど、1人で住むには高すぎるし、広すぎるし、無駄だと思う。ADSLもそろそろ決めないと。
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花見

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 今日は朝からトリエステで事務的な手続きを済ませてきた。雨が降ってはやみ、時々晴れ間も見える不安定な天気で、気温は15℃前後。桜の花は七分咲きで、春はもうそこまで来ている。
 お昼に少しトリエステ在住の日本人の方にお会いし、博士課程で頑張っているという話を聞いた。こういう話には単純に励まされる。イタリアの研究生活なんて端から見れば暢気に思えるのかもしれないけど、どこに住んでいたって基本的にやることは変わらないと思う。イタリアでは公的諸機関の対応の悪さで消耗する余計なエネルギーを、美味しい食事や良好な自然・文化環境で相殺している感じ。
 そういえばトリエステでは週末にお花見の話が出ているそうで、コッリオ(ブルダ)の桜の開花状況を追って連絡すると約束した。コッリオの桜の木の下で地ワイン片手に、ポトラック・パーティーなんてちょっとステキ。まあ晴れたらの話だけど。
 ゴリツィアに戻ってから週末にブルダで芸術関係のパーティーがあると誘われたけど、permesso di soggiorno(滞在許可証)更新中のため今ボーダーを越えるわけにはいかないのだ。そうでなくとも誘ってくれたスロヴェニア人とイタリア人の友達が冷戦状態で、どちらかと一緒にいるときにもう一方に出会うシチュエーションは極力避けたい。これまで自分は自分、というスタンスを維持してきたのだけれど、最近そういう訳には行かなくなってきた。面倒だけれど双方の気質の違いをじっくり観察できるのは面白い。
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コルモーンスとコッリオ2

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道ばたの花。大勢の気のいいチクリスタとすれ違う。
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Plessivaのワイン畑。ワインの瓶詰めや箱詰めをする人々を見かけた。
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コッリオの中に入っていくと「ワイン御殿」が目につく。成功しているワイン生産者はぎらぎらした野心をもち、とにかくよく働く。
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気がつけばPlessivaのイタリア・スロヴェニア国境。ここはEU市民以外は越えられないので要注意。
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Monte Quarinの頂上へ!夕方になってコルモーンスのエノテカにワインを買いに来た友達から電話があり、Monte Quarinへの上り坂で待ち合わせた。もう10km以上歩いたと言っているのに、「眺めがいいから」と説得されて山登り。
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頂上付近の教会からはコルモーンスやメダーナなどを見渡せる。
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コルモーンスとコッリオ

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もう週末。あっという間に時間が過ぎていく。ゴリツィア周辺が一番美しい季節を迎えようとしている今、色んなものを積極的に記憶・記録しておきたい。金曜日は夕方からPečというスロヴェニア系の村に行く機会があり、小さな教会からゴリツィアの方を見渡した。
土曜日は丸1日コルモーンス周辺で過ごし、これまでなかなか車を降りて見る機会がなかった地域を歩いて見ることにした。朝は曇っていてゴリツィアを流れるイゾンツォもこの通りどんより。ちなみに左奥に見える煙突はストラッチス地区の繊維工場跡。
isonzo
コルモーンスに到着した辺りから晴れ間が見えてきた。駅前のバールは10時前からスプリッツァー(ワインの炭酸水割り)を飲むおじいさん達でにぎわっていた。
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コルモーンスの中心。コムーネがあるPiazza XXIV Maggio(5月24日広場)。
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同広場には比較的ちゃんとしたエノテカがあり、コッリオのワインを試飲できる。今回珍しくDrius Mauro2002, Maquas1999など、MerlotのBarriqueを中心に選んでもらった。FellugaやKeberもいいけれど、地域の良質のリストランテやエノテカの店主やソムリエから「値段の割にびっくりするほどおいしいワイン」情報を仕入れるのが楽しい。ちなみに今回5種類試飲して5euro。コルモーンスのエノテカはゴリツィアのように「気取った」ところがないから、と大勢のスロヴェニア人客が訪れる。
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コルモーンスを見下ろすMonte Quarinへ上る道。
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放置されたお屋敷。
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コムーネそばのフリウーリ系ロカンダAi due fratelliでカベルネ・ソースに和えた鹿を食べる。平ぺったいのはトウモロコシの粉で作ったポレンタ。この地方が貧しかった時代も今もパンに代替してよく食されている。
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飲み食いするのにコルモーンス周辺で一番おすすめなのはSubida地区。ここには田舎風トラットリア、池、レンタル・バイク、農場などがある。ちなみにすぐそばにSirk家が経営する高級トラットリアLa Subidaもある。高級と言ってもワインなしで予算50euroくらいから。
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スロヴェニア映画祭

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gravehopping
(写真はOdgobadogroba(Ditombaintomba/gravehopping))
 お昼前に少し目抜き通りのカフェでゴリツィア在住の日本人の方とお会いした。小さなお子さんのいる方で、トリエステでは学校や公園でアジア系に対する風当たりの強さを感じたらしい。トリエステに比べるとやはりゴリツィアは住みやすい、と聞き納得した。
 そう言えば今日、レガ・ノルドを支持する右翼なゴリツィアーノが「トリエステのファシストは“本当に”ファシストなんだよな~」というのを聞いた。サウナで。ホテル・インテルナツィオナーレのサウナはノヴァ・ゴリツァ(ペルラ)のそれと比べるとお客が少なくて、色んな話をじっくり聞くことができて面白い。閑話休題。
 今からちょうど25年前、1981年12月15から20日にかけてゴリツィアで初めてスロヴェニア映画が上映されたそうだ。今日はその記念祭で、ゴリツィアでは朝から映画の上映やシンポジウムがあちこちで行われていた。
夜9時頃からGregor BožičのMoji Materi(A mia madre, 2005)という短篇とJan CvitkovičのOdgobadogroba(Ditombaintomba, 2005)を見に行ったら、会場には知り合いのミノランツァが勢揃いしていた。県のassessoreやKinoatelje関係者、Moja Meja(Il mio confine)の監督などなど。
 前者はリュブリャナの学生の作品で、スロヴェニア語を話せないトリエステのミノランツァの記憶やアイデンティティを描いている。スロヴェニア語で悲しみを吐露する母親の隣でその言葉を理解できずに、「自分はイタリアで生まれ育ったイタリア人だと感じる」と語る主人公に共感するミノランツァも多いはずだ。
 後者は2001年のヴェネツィア映画祭でLeone del Futuroを受賞した監督の作品で、2005年、Cottbus、Torino、San Sebastinの映画祭で受賞履歴がある。弔辞を仕事にする若者の家族や友人の話で、ストーリーは軽妙に始まるも中盤からdepressiveな「スロヴェニア節」が絶好調で、最後にはがっくりと肩を落としてしまった。墓にまつわる話なのは分かるけれど、な~んで「ここまで」しなきゃいけないのか、私には理解できない。スロヴェニアに「めちゃくちゃ笑えるコメディ」というものが果たして存在するの?
ararat
 21日(火)は国境映画イヴェントの2日目。今日はゴリツィアのコムーネと県が協賛しDAMS(ウーディネ大映画科)の学生達が作ったmediometraggio(中篇映画)、Non c’è più nessuno(もう誰もいない)を一応チェックして、Ararat (A.Egoyan, Can/Fra, 2002)とIl muro (S.Bittan, Fra/Isr 2004)を見てきた。
 Non c’èはトランス・アルピーナ鉄道駅に日参して誰かを待つ老人の姿を中心に据えて、国境の町ゴリツィアのイメージを断片的に織り込むも、イマイチまとまりに欠けた。「ひょっとしたら面白い映画になるかもしれない」という予感を抱かせる辺りで終了するのは予算と時間の制約のせいか。学生の卒業制作のような性格のフィルムだったらしく、彼らの親類や友達が大挙してやって来たKinemaxは大混雑し映写は2回に分けて行われた。
 とっても楽しみにしていたAraratはトルコによるアルメニア人のジェノサイド(1915)を映画化する人々を通して歴史問題やトルコ側の見解、アルメニア人の心情などを上手に描き出している作品。単なるプロパガンダ映画に留まらないのは、練りに練られた台本のお陰かもしれない。監督サローヤン役の「(失われた領土や命以上に)ここまで憎まれたという記憶が心を苦しめる」という台詞が印象に残った。
 Il muro(壁)というのはイスラエルでパレスチナ人とイスラエル人居住区を仕切る壁のこと。映画の中で彼らの社会生活は相互依存の関係にあって、混血も相当進んでいるというような事実が淡々と綴られていく。このシチュエーションは47年に突如国境によって引き裂かれたゴリツィアのそれに酷似している。イスラエル人、パレスチナ人双方が「壁」について語る言葉はゴリツィアやその周辺の村落で聞いた「国境」に対するそれとほとんど一緒だった。
 壁(国境)が作り出す問題の普遍性、それを断ち切る難しさについて誰もが意識的になれば、世の中少しは変わっていくんじゃないかと思うけど。

ブルダ:3つの城

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dobrovo
(写真はドブロヴォの城)
 72㎢に過ぎない小さなブルダだけれど、ここには3つも城がある。1つはここで散々書いたDobrovoの城で、17世紀初頭に元の形態をなるべく再現すべく立て直されたものだ。ほぼ正方形の城はそれぞれの角に塔が配置されている。壁は第2次ヴェネツィア戦争(1615-1617)の際に作られたと言われており、戦後柱廊に作り替えられたそうだ。塔の1つはSv.Anton Padovanskiパドヴァの聖アントニオに捧げられた聖堂になっており、プリモルスカ地方北部から持ち込まれたゴシックのフレスコ(オリジナル・複製)が残っている。最初の城主はColloredo伯と信じられており、18世紀末からゴリツィアのCatterini-Erzberg家に所有され、その後Montecuccoli家の公爵夫人の手に渡ったそうだ。1872年には婚姻によってBaguer家の手に渡った。現在城はブルダ市によって所有され、内部にはZoran Mušižの常設展、レストラン、エノテカなどがあり、ブルダ観光の拠点ともなっている。
 残る2つの城は質の良いカンティーナが集中しているVipolžeにある。北部にある比較的新しいものと、11世紀に端を発する東部のもので後者は狩猟の館などとしてゴリツィア伯に使用されていたらしい。その後Herberstein家、Della Torre家、Attems家、Teuffenbach家などの手に渡った。16、17世紀にはオーストリア・ヴェネツィア戦争に巻き込まれ、ヴェネツィア側の手に落ちると17世紀前半には修復が施されヴェネツィア様式の夏の領主邸に生まれ変わった。第1次大戦中は陸軍病院として使用され、48年の火災によって大きなダメージを受けたまま現在に至っているようだ。

国境・映画

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cinque della sera
 Patriziaと話した同じ夜、CONFINI, la mente, la separazione, oltre lo spazio e il tempo(国境:精神、離別、時空を越えて)と題された映画イヴェントに行ってきた。午後にはCinema come viaggio attraverso differenti culture(映画:様々な文化を越える旅)という円卓会議があったのだけれど、私は夜10時半からの映画Alle cinque della sera(S. Makhmalbaf Fra/Iran 2003)のみ、ヴァレやその友達と見に行くことにした。
 これはアフガニスタンで大統領を夢見る女性が性差別や貧困と闘う姿を描いた作品で、テロや仏兵との交流、生まれたばかりの甥の死と埋葬など、様々なエピソードが盛り込まれている。特に印象に残ったのは、黒い室内履きのような靴を白いハイヒールに履き替え、頭をすっぽり覆っている青いベールをまくり上げ、青い日傘を差して闊歩する主人公の姿だった。ちなみにタイトルは彼女を励ます詩人が彼女にプレゼントしたスペイン詩の題名。
 映画が終わった後、隣の部屋でCrashの試写をしていたので椅子に座って見ていたら、友達が慌てて映写室に入ってきた。彼女曰く映写室は既に鍵がかかり、映画館の人達はprova映写を途中で止めて帰ろうとしていたところだったらしい。全部見られるなら閉じこめられてもよかったけど。

Majdaにて

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 20日月曜日、今年もpermesso di soggiornoの更新に行ってきた。決して愉快なことではないけれど慣れたもので、番号札のディストリビューションが一段落して人がいなくなった頃にさっと行って書類をもらい、時間を見計らってquesturaに戻ればストレスなく更新手続きを出来る。列を作っている人や担当官がイライラして声を荒げるのはもう出来るだけ見たくない。
 夜、友達が近所のレストランMajdaに来ているというので出かけたら、オーナーの長女Patriziaとしゃべっていた。彼女はミノランツァの中でもかなり浮いた存在だったそうで、イタリア人の彼氏がいたことやブランド品を身に付けていたことでミノランツァ仲間からはファシスト呼ばわりされ、かといってイタリア人グループにも入れず、幼い頃から苦労したと言っていた。私の知り合いのミノランツァはどっぷりコミュニティの中に使っているタイプが多いから、「ミノランツァの中のミノランツァ」である彼女に特別な関心をもった。
 ゴリツィアに女友達はいない、と言い切る彼女だけど、大学院の国境政策コースで授業を1つもっていた女教授とは20年来の友達だと言っていた。この教授はスロヴェニア系の祖母を持ち、ゴリツィアで大学を卒業したもののアフリカやアメリカに住んだりしていたそうで、2人で世界中を旅したと言っていた。
 ちなみにPatriziaが初めて差別的な視線から自由になれたのはサン・フランシスコに留学したとき。世界中からやってきた移民に助けられながら初めて「周囲から浮いている」という感覚をもたないで生活できたらしい。「私はゴリツィアではstronza(バカ女)で通ってるの」という彼女に「そんなことないだろ。君の気持ちもある程度分かるよ。」と私の友達は取り繕ったけれど、彼女がいないときに「彼女はあまりにもオープンなんだ。色んな意味でね。」と意地悪な感じで話していた。これがゴリツィア。
 彼女は今クルーズ船にワインを供給する倉庫を経営していてサン・マリーノのオフィスを拠点に世界中を旅している。スペッサ城主の愛人だったときにアメリカでここのワインのプレゼンテーションをした際、既にスペッサのファンだったシンディ・クロフォードがわざわざ挨拶に来たとか、話題は尽きなかった。世界中からセレブリティを連れてゴリツィアに帰ってくる彼女はこの町の旧弊な女性からは相手にされない。この町を理解するためにも「女性の友達」が欲しい、と言う私に彼女は一言Forgetと言った。

研究者

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日本人研究者の方々と行動を共にするのも今日が最後。午前はトリエステの古本屋を巡って木版画などを少し購入し、昼は中華料理店で済ませた。指導教官がプーラへ旅立つのをお見送りした後、みんなでミラ・マーレ城へ向かうことにした。城周辺のヨットハーバーや沿岸道をゆっくり散歩して駅に戻り、喫茶店やピザ屋で色んな話を聞いた。分野や方法論の枠組みを越えて「情熱や信念を共有できる同僚をもつこと」、「そういう人達と協力し合うこと」以上のエネルギー源はない。この日トリエステ駅でゴリツィアへ向かう電車がホームから滑り出すまでずっと手を振って見送ってくれた同輩や諸先輩方のためにも、多くを負っている「情熱を共有する同僚」のためにも、なんとかいい研究を出したいと思う。ゴリツィアへ向かう車内、Fabrizio de Andréを聴きながらうっすら孤独感を覚えた。