ゴリツィアへ

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 今回のリュブリャナ滞在でやるべきことを、なんとか最低ラインで終えることができた。これは本当に友達のおかげ。10月には寿司でも作って、みんなを招待しようと思う。
 今日はついについにずっと会いたかった某教授とリュブリャナ大学で会うことができた。思った通り、関心を共有することができて、非常によい関係を築くことができる「予感」。トリエステでも会えるらしいので、9月の段階から話を詰めて、1月にイタリアに帰ってからもコンタクトをとりつつ、論文の執筆を進めて行きたい。あとは9月中にゴリツィアで聖職者、中央銀行関係者、研究者、トリエステでアルキヴィスタ、研究者数名に会う予定。本のコピーを取りまくって、リュブリャナに出発だ。15日にはVendemmia(ブドウの収穫)が待っている!食欲が戻らなくて困っているんだけど、まあ、元気を出して頑張ろう!
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もうこれ以上はないだろう!

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 昨日夕方に友人宅を訪れる前にどうやらスリにあってしまったらしい。人生初の経験でかなりショックだった一方で、いまいち現実感がわかない。一応心当たりの場所を探して、警察へ行き、外国語が下手で高圧的な担当官に状況を説明して所定の手続きを終えた。
 その前の晩には、友達の下宿の同居人いわく「ここにはもう4人も住んでいるんだから友達を泊めてはだめ」なのだそうで、その家を出ることになり、今晩中に重たい荷物を別の場所に移動しなければならない。研究関係でもやるべきことがまだ終わっていない。読むべき論文も読み終わっておらず、問題が山積み。コンピューターの動作は未だによくないし、月末には大嫌いな「引っ越し」が待ち構えている。
 ただでさえ厳しい状況におかれていたのに加え、免許証や身分証明書、カード類、9月の家賃や引っ越し代金に充てる予定だった400euroが入ったお財布をなくしてしまった心理的ダメージは大きい。もはや悲しいというより、笑えてきて「これ以上ひどいことはもうないだろう!」とかえって清々しい気分になったかも。警察から戻り、スロヴェニアの新聞Deloのジャーナリストのアーヴィン宅で夕食をごちそうになり、別の友達にはお財布探しを手伝ってもらい、さらに夜にはティヴォリ公園そばに住むカーティヤのところに泊めてもらうことになった。
 彼女の家に行くのは初めてだったのだけれど、緑が溢れるティヴォリ公園のそばの高層アパートに1人で住んでいて、ようやく落ち着くことができた。お茶を飲みながらここ最近のできごとをど~っと話してすっきり。10月からよかったら部屋を共有しない?というお誘いも受け、一安心。これで「やらなきゃいけないことリスト」の少なくとも1項目は消去することができた。その後でクロアチアやボスニアの観光地の写真を見せてもらい、家族や将来のことを話しあった。
 今朝は彼女の手作り「黒すぐり」ジャムをトーストに塗った朝食をとり、大学に行きがてらチヴォリ公園そばの生活に必要な店なんかを教えてもらった。近くになかなかよさそうなワイン屋を発見し、1つ楽しみが増えた。巨大でよく手入れされたチヴォリ公園を歩きながら、それぞれが抱える問題について話し合った。
 実は先日トリエステ大学で知り合ったルーマニア人の友人リリからメールをもらい、彼女はすでにミラノから近い町の会計事務所で会計士ragioniereとして働いていると知った。彼女はイタリアに来たばかりの頃、言葉もだめ、奨学金もごくごく小額で、故郷にはインターネットのアクセスもなく、「人生に絶望している」というようなことをよく言っていた。奨学金が切れた後、スキーリゾートで住み込みのアルバイトをして貯金をし、なんとかイタリアで研究を続行できる環境を自分で作り出したのだ。カーティアにリリの話をしたら「問題があるっていうのは生きているってことだよね。実現したいことがあって、努力をしているっていうことだと思う。」と彼女は言った。私はそれに完全に同意できるし、自分の状況を肯定的に考え始めた、と答えた。
 午後はマンツァの家に遊びに行って久々におしゃべりした。マンツァの家族には7月に本当に親切にしてもらったので、また是非お会いして感謝したいと思う。その後センターでダミャーナという、旅行会社で働く子に会った。25歳だといっていたけど、どうみても18歳くらいにしかみえない。フランス語が堪能で、日本語も少し話すKranj出身の優秀な女性だった。エノロジー観光をしよう!とか冬にスキーに行こう!といろんなプランを話しあって、再会を約束した。
 夜には荷物を残して出た友人宅に戻って、カーティヤの家に移動した。大荷物を抱えた移動中、「大丈夫?」と声をかけてくれる人がいた。スロヴェニア人は基本的に親切で、外国人1人でいても「孤独」とか「不安」に悩まされることはほとんどない。ともあれ、1時間くらいで移動は終了し、カーティヤの家で友達の卒業論文の修正とコメントの続きを終えた。今は何より、困ったときに電話をすれば助けようと動いてくれる友達がここリュブリャナにもできたことが嬉しい。
 明日の朝にはリュブリャナ大学の教授と会ってゴリツィアに戻る。イタリアに帰ったらやるべきことが沢山待ち構えている。元気をだして乗り越え、1日も早く研究だけに集中できる環境を作り出さなければ!
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リュブリャナ再び

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 再びリュブリャナにやってきている。今回は完全に研究ばかりの滞在で、少し疲れた。そういえば学生の卒業論文のチェックをしているのだけれど、思いがけず面白いテーマで、結構真剣につき合っている。日本とスロヴェニアの教育制度を比較していて、特に「歴史教育」に焦点を絞っている。両国における歴史修正主義のあり方や、teaching methodにも踏み込んでいて、自分にとってもすごく勉強になっている。
 今日はこれからジャーナリストのアーヴィンと研究者のミリャムというカップルの家に遊びに行く。以前「私の国境」というドキュメンタリーフィルムをスロヴェニア系少数民族の研究所で借りて見て、非常に感銘を受けた話を書いたかもしれないが、彼らはそこでインタヴューを受けている。いろんな話を聞けそうで楽しみだ。

3本橋付近には面白いアートが!ドイツ人観光客への嫌み?案外ドイツ人アーティストの贖罪アートだったりして?
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Monte Santoモンテサント(聖なる山)

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 8月27日に念願のモンテサントへ行ってきた。

感謝の捧げもの(ex-voto)。印象的だったのは怪我の治癒を感謝して、参拝者が祭壇のまわりに置いていった大量の松葉杖。
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戦争中の弾痕が痛々しい教会の壁。
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そのすぐ前にはのどかな原っぱが。
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教会前のレストランでは結婚式の余興をやっていた。
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 やっと辿り着いたコバリド!コバリドというとあまりなじみがないかもしれないけれど、イタリア語名カポレットの方は通りがいいのでは?。イタリア軍がオーストリア軍にこっぴどくやられた「あの」カポレット会戦の舞台で、ヘミングウェイの「武器よさらば」にも出てくる地名。ちなみに私が住むゴリツィアにはイタリア軍の前線基地がおかれ、会戦直前には100万人もの若者が欧米から集合していたらしい。そこから兵士の足跡を追うようにしてイゾンツォ(ソチャ)川沿いに北上しコバリドやBovecボーヴェッツの辺りをうろうろしていると、東部戦線の凄まじさを実感することができる。博物館ではスロヴェニア語、イタリア語の他、英語でも簡潔によくまとめられたドキュメンタリーフィルムを流しているので、こちらもおススメ。
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ダンテの洞窟

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 Cerknoから今回の小旅行最大の目玉であるコバリドまでの道中にある、トルミンでピザを食べた。トルミンへは去年から何度か来たことがあるのだけれど、スロヴェニア/イタリア国境の町の中でも、かなり美しい町だと思う。ここまで北上するとカルソやコッリオ(ブルダ)に見られる、なだらかな丘のような山々とは一線を画する、雪冠をかぶった険しいアルプス山系が姿を現す。ただしこれ以上北上すると山脈の奥深くに入ってしまうので、感激が薄れてしまうのだ。ソチャ川(イゾンツォ川)もゴリツィアの辺りの濁ったようなエメラルド色から、トルミンの辺りでは透明度が高いそれに変化する。春先からに大挙して訪れるドイツ人やオーストリア人がラフティングやカヌーなどのスポーツを楽しむのは専らここより上流になるようだ。
 トリグラフ国立公園triglav narodni park (Triglav National Park)はトルミンからすぐだ。「神曲」の地獄編を彷彿させる、深い深い谷が口を開けている。
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実際ダンテがアクイレイア滞在中に、遊びにきて「神曲」の着想を得た、という話が残っているらしい。真偽のほどは?下に流れる川まで200mくらいのものらしいが、川が見えないポイントでは谷が本当に地獄の底まで続いているようで恐ろしかった。
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実は川辺まで下っていく小道があって、ちょっとしたトレッキングを楽しめる。エメラルドグリーンの水は透き通り、とても冷たい。
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Cerkno(ツェルクノ)のパルチザン病院

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 「パルチザン病院partizanska bolnišnica」というからには、とてつもなくアクセスが困難な場所にあるだろう、ということは予想していた。それでも衝撃を受けるほどの凄まじく険しい山間に、それは姿を現した。よくここまで建材や薬品、負傷兵を運んだな~と、感心してしまった。夏場でもひんやりと肌寒く、冬の積雪量は半端ではないらしい。初代(3代)院長はフラニアさんという女性。実際に病院として使用されたのは43年の12月から45年の5月まで。
 ゴリツィアの友達のおじさんはオーストリア帝国支配下のフリウーリ地方に生まれた。その後フランスで化学を学び製薬会社で働いた後、Cerknoで薬局を開いたという。パルチザン病院に薬品を提供していた彼は、ドイツ人による追求を受けて最後は殺害されたらしい。

こんな道を通って病院に辿り着く。
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こうやって山間に病院が点在している。レントゲン室や発電室、食堂や浴室もある。
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それぞれの棟は岩場に木材で築いた基礎の上に建てられている。
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ポストイナへ

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 8月5日(金)、午後に少しゴリツィアの友達と会って、夜にはノヴァゴリツァのバス停からポストイナに向かって出発した。ところが途中で渋滞に遭遇。運転手が機転を利かせ、カルソの山道をくねくねと通り抜け、予定より2時間くらい遅れて到着した。バス停まで友達とそのおばさんが迎えにきて、彼らが住む村の隣村Koče(コチェ)のコレラ絶滅150周年記念祭につれていってもらった。司祭館ではカルソのTeranテラン(カルソの人々が愛する非常に酸味の強い赤ワイン)を振る舞ってもらい、手作りケーキやクッキーなんかを頂いた。村の人々はすでに私の到着を聞いて知っていたそうで、司祭は「日本人がやってきたと日誌に書かなくちゃ」と言っていた。非常に新鮮な経験だった。
 もう夜の11時を回っていたけれど、近所にリュブリャナのアーカイヴで働く女性がいると聞き、車を回してもらった。そこには50歳前後のアルキヴィスタと、その母親、かわいいシャオペイが住んでいた.彼女自身は化学が専門と言うことで、詳しい話は聞けなかったけど、リュブリャナでアーカイヴ通いをするときには力になってくれると言っていた。彼女のお母さんはゴリツィアのミッションスクールで学んだそうで、たどたどしいイタリア語で受け答えしてくれた。どっぷり疲れて辿り着いた家は、どっしりと、飾り気がなく、清潔な、いかにも「スロヴェニア風」だった。

8月のゴリツィアは空っぽ

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 8月4日のお昼過ぎにふと台所へ行くと蛇口が全開!一体何時間この状態だったのかと青ざめた。勿論我がルームメイトの仕業だったのだが、何度注意をしても一向に改善しない。いいタイミングで水道代と電気代の請求が来て、3ヶ月くらいで250euroだそうだ。その間私は殆どいなかったので、実質「自称エコロジスト」の彼1人でここまで消費したことになる。
 3日の夜にはマルティーナと、彼女の弟が働く「ヴィットリオ」というバールで久しぶりに再会。なつかしい。疲れていたけれど、彼女の温かい人柄に触れて少し元気になった。明後日にはスカウトを連れてBovecまでキャンプに出かけるのだという。そうなると本当に友達がみんなゴリツィアから居なくなる。一般的に8月のイタリアは、海辺のリゾートを除いて、空っぽになる。住民はみなヴァカンス中で、店やバールも閉まっている所が多い。町を歩くのは観光客ばかり。
 今年はゴリツィアも酷暑に悩まされている。日中の気温は35℃をゆうに超え、食欲が出ず、なかなか勉強にも集中できなくて困っている。
 クロアチア第2の工業都市リイェカのことはどうしても好きになれない。チトースタイルの「高層」アパートがにょきにょきしていて、それだけでも憂鬱な気分にさせられる。Susakからフェリーで戻った際に少しだけ町を歩いたりしたんだけど、なんというか落ち着けない。物価はイタリアに比べれば大分安いし、何かと便利ではあるんだけど、お金持ちは近くのオーストリア時代からの歴史ある保養地Opatija(Abbazia)に住むと聞いて納得した。
 町中にローマ時代の遺跡がみられるんだけど、保存状態は最悪。中世の建築も同様で、見ていて痛々しい。