『読書の腕前』(光文社新書・岡崎武志)は日頃より後ろ指をさされている積ん読派への応援歌である。岡崎さんは「ツン読」を避けようとする者は「読書の腕前」は上がらないと云いきっている。気持ちいいねぇ。


まともに本とつきあって、コクのある読書生活を送ろうと思ったら、「ツン読」は避けられない。と、いうより、それしかありえないのだ。「ツン読」を恐れて、まともな読書なんぞできやしない。そのことはここではっきり申し上げておく。読んでいないなら、「死蔵」である。持っていないのと同じ、と思う人もいるかもしれない。ところが、現物があるとないとでは、月と地球ほどの距離の開きがあるのだ。だいたい「本を買ったら直ぐ読まないと損だ、というような根性は捨てなければいけない」と、清水幾太郎『本はどう読むか』(講談社現代新書)で言っている。そして「ツン読」についても、「買っておくと、不思議なもので、やがて読むようになるものである。気にかかる本が新しく身近に置かれるのは、環境に新しい要素が現れることである。私たちの心に新しい刺激が加えられるということである」と。


さらに井上ひさし『本の運命』(文春文庫)も引用して「ツン読」の効用についてこう続ける。


買ってすぐに読まないでも、机の横に置いておけばいいんです。不思議なことに、ツンドクをしておくと、自然にわかってくるんです。「これは読まなくていいや」とか、「これは急いで読まなきゃいけない」とか。二日三日経つと「アッこれは読まなくても済むな」という感じが起きる本もあれば、いつまでも残ってて「読め読め、読め読め」といってくる本もあるんですね(笑)


そうなのだ、読書の腕前を上げるためには、どんどん積ん読に限るのだ。


電車の中でばったりと何十年ぶりかに中学の同級生と再会した。彼は中学時代から優秀で勉強もかなりできた。ガリ勉タイプというよりも、よく見知らぬ本を読み、誰も知らぬようなことを人一倍知っているような少年だった。その友人に普段週末は何しているのかと聞かれた。こちらは当然の如く、読書と古書漁りであると答えた。すると直ぐさま怪訝な顔をして、「暗いね」と云われた。はじめそれがどういう意味なのか理解しかねたが、今の彼の日常において読書や古本を買いをするという行為が、いい歳をした大人のすることとは想像できなかったようだ。恐らく、一人黙々と本と戯れる姿を想像したとき、野外の明るい太陽が降り注ぐ元でのレジャーや、煌びやかな服飾が並ぶ百貨店での買い物などと比べてみて、見劣りする行為と思われたに違いない。あえて否定も肯定もしなかった。ただ、大人になって読書を忘れた彼が気の毒で仕方なかった。


読書は孤独な行為である。ただし本との対話は孤独を感じる暇もない。本書には次のようなことが書かれてある。


基本的に読書は、ひとりでするものだ。その意味で読書は、「自分が感じる『楽しさ』をちゃんと見つめる」ことにもっとも適した行為だと思う。そして読書を通して、孤独のなかで楽しみを知る能力を鍛えることができる。だからこそ、読書の習慣のある人は、他人の孤独も理解することができるのだ。孤独なんかこわくない。「読書の楽しみ」を知っている者なら、いつだって胸を張って言えるはずだ。


最近の新刊書店の棚には必ずと云っていいほど「あらすじ」本が蔓延っている。そんなに急いでどうするの、なのである。結論急いであらすじの面白さだけを求めるのって何だか勿体ないのである。この点も本著に賛同する。「本というのはもともと不便なもの」なのである。まさに「本というのはじわじわ効いてくる」もので、本に効率や利便性を求めるとしたら、大きな間違いなのである。


天体の運行も、この地球上のすべての時計の針も止め、ひとところにじっとして、ただ本のなかを流れる時間だけに身を委ねる。


まさに読書に伴う束縛や苦痛とひきかえにしても、これほど幸福なときは、そうそう出会えるものでもない。



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