気まぐれ(8)
■ヴァン・ゴッホ全画集(全3冊揃)1978年
ヤン・フルスカー、坂崎乙郎(監修)講談社
久しぶりにゴッホの画集を眺めていて、ふと浮かんだ画家がいる。
■佐藤清三郎
洲之内さんが油絵の人ではなく、デッサンの人だと看破した佐藤清三郎の唯一の作品集。
佐藤は高等小学校を出て、ひたすらに独りで生涯描き続けただけである。画家としても社会人としても無名の標準的な市井の一庶民だった。終戦の年の1月に招集され4ヶ月後に戦病死している。
佐藤清三郎の遺作展は、新発田で2階、新潟と東京で一度ずつ開かれている。その作品(素描)の新鮮な魅力。自画像、手や足、路地、掘割、川岸の風景、市中で働く女たち、子供など、日々の生活のなかで、立ちどまり、見回しさえすればそこにあったという身近な題材ばかりを、誇張をまじえず、むしろ正確さを心がけ写しとったこれらのデッサンが、なにか不思議な力で見る者の心をとらえてしまうのはなぜだろう。
佐藤清三郎は職業画家ではなかった。高等小学校を卒業し、給仕として銀行に入り、第2次大戦末期、33歳で召集されるまでそこで働き続ける。油絵や素描は、この銀行員としての生活の合間や、通勤の道すがらに描かれたものである。油絵の作品が県展に何度か入選しているが、その場合も名を変えて出品するという工合に、画家としての自分を主張することはむしろ控え目であったようだ。しかし、考えてみるとそれは、アマチュア画家であることに、彼が必ずしも自足しなかったことの裏返しの表現だった。ととれなくもない。事実、残された作品、特に数多い素描が示す観察、描写への集中、持続力は通常の日曜画家の水準をはるかに凌ぐ。上京し、本格的に絵の勉強をしようかと思い迷った時期もあったらしく、また1935年(昭和10)頃には、東京に三芳悌吉を訪い、地方にいて独学で絵を学ぶ方法、心得などを尋ねたりもしている。絵画へ寄せる情熱に並々ならないものがあったことは間違いない。
佐藤清三郎の訪問を受けたとき、三芳氏は自らの経験を引いて、自画像、手、足などを繰り返し描くこと、路上でのタイムスケッチ(クロッキー)などを学習の方法として勧めた。結果からみると、佐藤はまさにそのとおりを実践したわけで、とするなら、これらの素描は、やがて画家としてひとり立ちするために自らに課したひとつの修練だったと解することもできる。残されたデッサンの数々は、佐藤がその課題に、実に真摯に取り組んだことを物語っている。佐藤の絵が、見る者の心を捉えるのは、なによりもまず、対象を見つめるまなざしのこの比類ない生真面目さ、ひたむきさによる、と言っていいだろう。が、彼のこのような没入の姿勢は、いわゆる文学青年タイプのそれとは異なる。文学的気質の人間であれば、対象を見つめる場合、否応なしに主観的連想の数々が侵入し、画面に自然ににじみでてきてしまうはずだが、極端な言い方をすれば、佐藤清三郎にはそれがない。少なくとも素描に関して言えば、主観的イメージの要請によって意志的に対象が歪形されることがなく、だから、画面が不思議に澄んでいる。描かれた対象が直にわれわれの視線に触れてくるように感じられるのはそのせいである。まなざしが冷たく即物的だと言うのではない。画家の眼はあくまでも熱いのだが、その熱は客体としての対象を、いわばそのもの自体として(夾雑物を介することなく)見つめることに注がれている。
この特徴は、佐藤清三郎の生来の性向に由来するところもあるようだ。死後、彼の蔵書を整理した友人は、それが絵についてのものと社会科学に関するものの二種類に限られ、それ以外の雑書がほとんど見られないことに気付いて驚く。絵画と社会科学、このふたつは、佐藤清三郎にとって、おそらく客観的現実の認識という共通する目的を有する、二様の手段であったのではないか。画を描く人間としての佐藤清三郎にとって、この客観的現実とは、地方都市で働く職業人、一市民としての生活の中で日常眼にすることのできた情景、人々、もの等であったわけで、そこには「客観的現実」という言葉が発する一種の観念臭は感じられない。社会科学に関心があるといっても、彼自身は観念や理論をもてあそぶ人間ではなかった。体質としては、彼は本来「視る人間」であった、と言っていいだろう。素描する佐藤清三郎のまなざしは、あくまでも孤独だった。が、この孤独な営みの底で、対象をいちずに見つめ、スケッチブックを鏡のようにとぎ澄ますことにより、個人の感情や主観を越えた次元で、「眼」と対象はひとつの共感によって結ばれる。佐藤の絵の画面が、不思議に明るく暖かいのは、おそらくそのためである。


























