キヅタの片付け
クネクネとからまって、片付けはとてもやっかいです。
少しずつ切断しながら・・・
これだけ苦労したのだから、何かに利用したいものです。
伐採した新しい竹を、新しい竹割りナタで・・・
厨子を作ろうと思います。
細い釘を差し込んで・・・完成です。
〒586-0062 河内長野市天見1405-2
問い合わせ sav-amami@i-next.ne.jp
とうとうキヅタ(木蔦)を伐採しました
竹を伐採しても倒すことができないのは、上の方にキヅタが巻きついていて・・・
巻きついていた木もろとも、チェーンソウで切り倒しました。
まるで大きな鳥の巣のような状態で・・・なんと、茶色い動物が驚いて這い出してきました。
最初はイタチかなと思いましたが、もう少し大きくてタヌキのようにも見えました。
しかし、意外と動きはゆっくりで・・・わきの下などの皮のたるみ具合も観察できました。
たぶん「ムササビ」だと思います。
■ムササビは日本の固有種であり、本州、四国、九州に生息し、日本国外には生息していない。夜行性で、主に樹上で生活し、種子、果実などを食べる。地上で採食はしない。大木の樹洞、人家の屋根裏などに巣を作る。メスは1ヘクタール程度の同性間のなわばりをもつ。オスは2ヘクタール程度の行動圏をもつが、特になわばりをもたず、同性同士の行動圏は互いに重なりあっている。
さて、これからがたいへんです。ボチボチ枝葉をはらいながら、片付けていくことにします。
藍のスクモづくりは、順調です。
30度前後で、毎日一回は混ぜています。
すっかり粘土状になってきました。
この調子で大切に熟成させていきたいと思います。
積雪・・・
ようやくの雪景色です。
SAVはなかなか雪解けしないので・・・
南天に雪が・・・よく似合います。
赤い実を山中で発見しました。
■サネカズラ(実葛、学名:Kadsura japonica)
マツブサ科サネカズラ属の常緑つる性木本。別名、ビナンカズラ(美男葛)。葉は長さ数cmでつやがあり互生する。ふつう雌雄異株で、8月頃開く花は径1cmほど、10枚前後の白い花被に包まれ、中央におしべ、めしべがそれぞれ多数らせん状に集まる。雌花の花床は結実とともにふくらみ、キイチゴを大きくしたような真っ赤な丸い集合果をつくる。花は葉の陰に咲くが、果実の柄は伸びて7cmになることもあり、より目につくようになる。単果は径1cmほどで、全体では5cmほどになる。果実は個々に落ちてあとにはやはり真っ赤なふくらんだ花床が残り、冬までよく目立つ。
ビナンカズラともいうが、これは昔つるから粘液をとって整髪料に使ったためである。盆栽として栽培もされる。果実を漢方薬の五味子(チョウセンゴミシ)の代わりに使うこともある。
古歌にもしばしば「さねかづら」「さなかづら」として詠まれ、「さ寝」の掛詞として使われる。
名にし負はば 逢坂山のさねかづら人に知られで くるよしもがな
(藤原定方、百人一首25/後撰和歌集)
実を集めて竹筒に生けました。
予言(9)
漉返紙(すきがえしがみ)とは、使用済みの和紙(反古紙)を漉き直して作った中古の和紙のこと。
・・・なんだ、そういうことか。
宿紙(しゅくがみ)・薄墨紙(うすずみがみ)・綸旨紙(りんじがみ)・紙屋紙(こうやがみ)・熟紙(じゅくし)・反魂紙(はんこんし)・還魂紙(かんこんし)など多くの異称を持つ。
・・・「反魂紙・還魂紙」???ちょっと気になるなあ。
和紙の原料は貴重品であり、近世以前には保管を必要としない紙は使用後に裏紙部分に再度筆記(紙背文書)したり、漉き直したりして再利用するのが一般的であった。ところが、漉き直しをした際に元の紙に付着していた墨を完全に取り除くことは不可能であるために、結果的に墨が溶け出して紙全体に付着して全体が薄墨色とも言える薄黒い鼠色に染まることが多かった。そのため、その色より薄墨紙と呼ばれたり、旧・久の意味を持つ「宿」や古の意味を持つ「熟」を冠して宿紙・熟紙とも呼ばれた。こうした中古の紙は新品の紙に比べて色黒で質が落ちるように見られていたため、光沢を出すために雁皮などを混ぜて高級感を演出した。
・・・そうそう、リサイクルは昔から行われてきた「文化」なのだ。
また、当時は親しい家族や友人が亡くなると、その人が書いた手紙などを紙背文書にしたり、漉き直しを行ってそこに写経を行うことで個人の供養を行う風習があった。こうした故人の文章が書かれた紙には故人の魂が込められていると信じられていたため、その上で写経を行うことで故人の魂が救われると考えられていた。そのために、反魂紙・還魂紙などの呼称が生まれたと考えられている。
・・・なるほどなあ、なかなか良いネーミングですよね。
更に、朝廷においては大量の不要な公文書が発生したために再利用のために和紙を製造する図書寮紙屋院で大量の漉き直しが行われていた。このため、紙屋紙という呼称が生まれた。紙屋院で再生された紙は再度朝廷において利用されたが、天皇の命令でも略式の命令であった綸旨や口宣案には貴重な新品の紙は利用できず、このため、漉返紙を代替品として用いた。ところが、それがいつしか有職故実となって定着し、逆に綸旨には漉返しされた紙を使用して作成するものとし、新品の紙を用いることは作法に反すると考えられるようになった。このために綸旨紙とも呼ばれた。なお、紙屋院のある京都から切り離された吉野朝廷(南朝)では、綸旨の書式に違わない為に新品の紙を作る際にわざわざ墨を混ぜて薄墨色にしたと言われている。なお、前代よりも和紙の大量生産が可能となった江戸時代に入ると、漉き直しの風習が衰えて墨を混ぜて染めた用紙を薄墨紙とか宿紙と呼ぶケースが一般的となっていった。
・・・わざわざ墨を混ぜるなんて、人間のやることっておもしろいなあ。
■萩原朔太郎(1886-1942)
光る地面に竹が生え、
竹、竹、竹が生え。
鮮烈なイメージと言葉のリズムで、日本語の詩の可能性を切り拓いた詩人。青年時代、朔太郎は近代の新しいメディアと西洋文化の奔流のなかで、立体写真や映画、マンドリン演奏などに傾倒。多彩な表現活動を行ないました。第一詩集『月に吠える』は、詩の革新性はもちろん、版画家・田中恭吉と恩地孝四郎との共同作業による画文一体になった美しい書物としても、近代詩において画期的な詩集です。
第二詩集の『青猫』以後、実生活での苦しい経験を経て、朔太郎の想像力は次第に日本の風景を荒れ果てた「地方」として眺めていきます。晩年の『氷島』では、帰るべき場所や未来への希望を見出せない自己の喪失感と、それを正面から受け止める力強い意志を漢文調の文体に込めて詠いました。
恭吉は絶対安静をつづけながらも「月映」にときおり死への緊迫感にみちたすぐれた作品の何点かを発表しつづけたが、その間、特筆すべきことは、のちに高名となるも、当時は全くの無名詩人であった荻原朔太郎からの処女詩集「月に吠える」のための挿画の制作の依頼であった。このもとめに対し生前の恭吉はこたえることは出来なかったが、死後恩地孝四郎の献身的な努力によってあつめられた遺作のなかから、恩地の選んだ数枚の挿画が「月に吠える」をかざった。詩集の発行されたのは一九一七(大正六)年二月十五日のことである。発行所は感情詩社と白日社で、初版五〇〇部、朔太郎による自費出版であった。
・・・「月映」
版画、詩雑誌。大正3(1914)年9月~4(1915)年11月恩地孝四郎、田中恭吉、藤森静雄が同人。自刻木版画と詩のコラボレーションとも言える、すべて手作りの製本。田中は創刊直前に病んで郷里和歌山に臥し、大正4年8月病没するので運営はほかの二者による。彼らと親しい萩原朔太郎、室生犀星に通う人生派的象徴主義の傾向がみられる。
予言(8)
田中恭吉「焦心」1914(大正3)年/木版、紙/20.9×10.0/和歌山県立近代美術館蔵
田中恭吉さんのTシャツがあったはず・・・と探してみると、少しヨレヨレになっていましたがありました。ずいぶんと昔になりますが、和歌山近美に行った時、妙にひかれて購入したのでした。「五月の呪い」というタイトルです。
■寺山修司10代の遺作集「われに五月を」後記「僕のノート」より
この作品集に収められた作品たちは
全て僕の青年の所産である。
言葉を更えて言えば
この作品集を発行すると同時に
僕の内で死んだ独りの青年の葬いの花束とも言っていいだろう
しかし青年は死んだがその意識は僕の内に保たれる
「大人になった僕」を想像することは僕の日日にとっては
なるほど最も許しがたく思われたものだ。
■五月の詩・序詞 に
ひとりの空ではひとつの季節だけが必要だったのだ。
■「われに五月を」の表紙をめくると
五月に咲いた 花だった のに
散ったのも 五月でした 母
とある。「五月」って・・・何なのだろうか?
■田中恭吉(明治25年(1892年)4月9 日~大正4年(1915年)10月23日)
明治25年(1892年)、現在の和歌山市に生まれた。明治43年(1910年)に和歌山県立徳義中学校を卒業すると上京し、約1年間、白馬会原町洋画研究所に通う間に恩地孝四郎と知り合った。翌年に東京美術学校の彫刻科に入学すると、藤森静雄、大槻憲二、土岡泉、竹久夢二、香山小鳥などと交流を深める中で独自の表現を模索。初めて木版画を制作したのは大正2年(1913年)12月頃だと考えられている。藤森や大槻、土岡などと同人雑誌「ホクト」を手掛けたり、雑誌「少年界」や「少女界」に寄稿したり、回覧雑誌「密室」にペン画や、自刻による木版画いわゆる創作版画を発表するなど、美術と文芸の両方で才能を発揮した。その後、恩地との間で自刻版画集を刊行しようと計画し、藤森も巻き込んで大正3年(1914年)4月に私輯「月映」を刊行した。しかし大正2年頃に肺結核を発病しており、療養のために和歌山に帰郷。版画への熱意もむなしく仲間と別れる無念さは『焦心』に表れている。その作品はムンクの影響からか、結核を病む作者の心情を映してか、一種の病的な冴えた神経を示していた。負担のかかる版画ではなく詩歌を中心に創作活動を続け、大正3年9月には公刊『月映』が刊行されたが、大正4年(1915年)10月23日、和歌山市内の自宅で23歳にして逝去。大正6年(1917年)には萩原朔太郎の詩集「月に吠える」で恭吉の作品が取り上げられた。恭吉の作品や資料の多くは和歌山県立近代美術館に所蔵されている。
■『田中恭吉―生命の詩画―』著:上野芳久
「田中恭吉は、主観の高揚を形象化するといった象徴主義を、大正初期の日本において極限的につきつめていった数少ない表現者の一人である。その意味において、大正初期の美術界においても象徴的な意味として、存在として浮き出ている。思想的には恩地とともに、白樺派ヒューマニズムの影響下にあったと思われるが、真に共鳴を示したのは朔太郎らに見られる内部意識の緊迫とした世界に対してであり、その意味では表現主義に近いといえる。(略)二十三歳という、あまりにも若い歳で夭折したこの表現者が、時代を越えて心を撃つのは、『生命感覚』ともいうべき、芸術の尊大な要素を深く捉えかえしていたからに他ならない。恭吉の場合、それが生々しく画像に出たために、衝撃を与えつづけているのだろう。」(72~73P)
「(略)出会いは、朔太郎が恩地を介して、恭吉に自分の詩集の装幀を依頼するというように発展していった。とはいえ恭吉は、当時すでに和歌山に療養のため帰っており、直接に出会うことはついになく、恭吉は自らの装画による詩集を手にすることもなく去ったのであった。朔太郎にとって、恭吉との出会いは、ひとつの事件であったにちがいない。」(92P)
「詩と絵の、不気味なまでの対応は、この詩人と画家の出会いが、底知れぬ交換と対応をもった関係であることをうかがわせる。(略)朔太郎が恭吉の絵を、恭吉が朔太郎の詩を、多分に意識して書いたのかと、おしはかってみたくなるほどだが、内部必然的に描かれるひとりひとりの世界が、共鳴されていく人間の精神の営みの深さに、あらためておどろくのである。」(94P)
「詩と版画、もしくは絵画が相乗的にその創作を高めあい、刺激しあって、明治から大正期にかけてのひとつの時代的な現象ともなったことは忘れられないことである。そのなかには西洋的な美意識の流入や、装本という作業のなかで、美術家も詩人も、そこにひとつの芸術的な所産を共有しようとしていたのである。いずれのジャンルをも超えて、詩、もしくは詩的というものが、美意識の希求において究極的なものとして渇望されていたと言うこともできる。」(161~162P)
■『和歌山県立近代美術館ニュース』67号(2011年9月)より
和歌山県近代美術館学芸員の井上芳子さんは「還魂紙のこと/誕生120年記念、恩地孝四郎・藤森静雄」と題して、田中恭吉が藤森静雄に贈ったペン画『そがれゆくぬくみ』の紙や、『月映』4号の『死によりて挙げらるる生』の表紙について書いておられます。漉返(すきがえし)という和紙とのかかわりを示唆する興味深い内容です。
・・・「漉返(すきがえし)」という和紙???
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