三十年ぶりの真実
テーマ:佐藤広也高校の放送部の顧問が退職した。昨日はその集まりで京王プラザだった。他の送別や激励の会ともブッキングしていたので、ちょっとだけ顔を出すことにした。今あるのはこの恩師のおかげであるからだ。モンタ先生は、フランス人のような顔立ちで背が高い。尺八の師範である。シャンソンを歌い、今年は二十年ぶりにシャンソンの大会で東京に行くという。ホテルでお会いしたモンタ先生は、開口一番、「君に会いたかったんだよ!」と握った手を離さない。そして次々と思い出を語ったのだ。この会ではどうやら私が一番古い人間で出席していた。その前後の人間で私の知る人が誰もいないというのも不思議なことではあったが。突然、「あのときは残念だったよねえ。」そうですね。NHKの全国コンクールですか。そう七分のラジオ番組に懸命だったわれわれ。公立高校受験に落ちて、まさか行くまいと思った私立男子校へ入学した。劣等感の固まりであった。地区大会では公立進学校の北高校に優勝をさらわれたのだが、道大会では逆転。福岡での大会の切符を手にした。番組名は「生きる」であった。同じ高校生で聾唖の子が授業を受ける。友だちのノートを借り、唇を読む。そして病魔。星の光になってしまった。そこまでしてなぜ彼は学ぼうとしたのか。霊前に福岡みやげを供えに行った。そして三十年後、先生が用意された思い出を書いた冊子には、冒頭から紛れもなくこの私が登場していた。あまたの教え子の中からなぜ・・・一つは、演劇部の顧問であったときに、放送部を兼務。やがて放送部だけにされてしまう彼に、ラジオドラマの脚本を見てほしいと頼んだのだった。「誰か故郷を思はざる」という傷痍軍人をテーマにした26分もの。これは知事賞と脚本賞などをとり、実際にラジオ放送になった。そして・・・「三十年前、初めて全国大会の切符を手にした時実は大変なことがあった」と書いてある。待てど暮らせど審査結果が届かない。そこで電話をしてみたら何と、北海道大会の事務局からのオープンリールのテープが届いていない。遅れて届いたので審査されていない、というオマケであったという。善処を申し入れたが、一応再審査で「選外」ということになったという。そんなバカな!三十年前には一度もそんなことを聴いてなかったぞ!何と彼は尺八の師匠。童山の名を持つ。その名は「兎の眼」からとったというのだ。おまえのために尺八を吹く。そういって吹いてくれたのが「二十四の瞳」の中で使われた「瞳」という曲であった。乾杯の音頭を頼まれた。この会はモンタ先生のためにあったはずだが、「私」のためにあったのだった。こうしたちょびっとした出会いが人生を支える。そんな教師でありたい。




