景初三年銘の三角縁神獣鏡 島根県加茂町出土
中国社会科学院考古研究所前所長の王仲殊氏は、
「三角縁神獣鏡は魏王朝から賜与されたものではなく、
当時日本に渡来した呉の工人によって、日本で製作されたものである。」
との説を唱えています。
その説によると、三角縁神獣鏡のデザインは如何にも呉的であり、鏡に使われている銅の成分も呉のものだから、呉人が倭国内で作った鏡だろうと云うわけです。
では、卑弥呼・台与の時代に実際に呉人が倭国に到来した記録はあるのでしょうか?
『魏志倭人伝』=『三国志』【魏書】「東夷伝倭人条」の何処にもそんな話は書いてありません。
日本人は『魏志倭人伝』しか読まないから、呉人の倭国到来の話は知らないのです。
だが、私はその答えが『三国志』【呉書】の「黄龍二年の条」に有ると考えています。
その記載は以下の通りです。
黄龍2年(230年)春、呉侯・孫権は武将の衛温と諸葛直に武装兵1万を率いさせ、
軍船団を連ねて、夷州及び亶州へ向かわせたらしい。
このとき、将軍の陸遜(関羽を倒した勇将)と全琮が反対したが、
皇帝の孫権が強く主張したため、計画は実行に移されたと云う。
黄龍2年(230年)は卑弥呼が魏に朝献する八年前のことです。
呉も魏と同様に東方にあるらしい一応大国に目を向けていたとしてもおかしくありません。
当時の倭国は公孫氏に遮られて、魏への朝献は困難でしたが、
呉への朝献を遮っていたのは広大な海だけであり、邪魔な勢力はありませんでした。
この間に呉が倭国を味方に付けたら、魏との闘争は様子が変わっていたかも知れません。
約1年後、衛温と諸葛直は夷州から帰国したようだが、
亶州は遠すぎて、行き着くことができなかったらしい。
また、呉軍は兵の八割から九割を疫病で失い(『呉主伝』)、
成果は夷州の現地民を数千人連れ帰っただけであった。
その後、衛温と諸葛直は、詔に背いて目的が果たせなかったとして、
二人とも獄に繋がれ、誅殺されたとある。
ところが本来、衛温も諸葛直も呉候・孫権の命令で行かされたのに、
(証に背いて?)渡航し、失敗したから殺されたと云うのでは如何にも浮かばれません。
此処で私は夷州とは、言われているような台湾や済州島ではなく、九州だと考えています。
たぶん、亶州とは、本州のことなのでしょう。
何故ならこの記述の後に、倭に渡来した徐福の話が記されているからです。
此処で陳寿が唐突に徐福の話に繋げたのは、夷州と亶州が倭国であることを、
後世の読者に密かに伝えたかったからでしょう。
長老伝えて曰く、秦始皇帝は方士徐福を遣わして、童男童女数千人と共に入海し、
蓬莱神山及び仙薬を求むも、洲に留まりて還らず。世、相継いで、(現在)数万戸有。
すなわち、衛温と諸葛直は夷州(九州)迄は辿り着くことが出来たが、
亶州(本州)は何処にあるかよく解らなかったので、行き着くことが出来なかったのだろう。
そして実際のところ、兵たちは疫病で死んだのはなく、
兵の多くが船から脱走し、倭国に亡命したのであろう。
この際、呉軍は倭国軍と戦って、多くの兵が殺されたとする説を説く人がいますが、
多数の船で倭国僻地の海岸にゲリラ的に侵入してくる百戦錬磨の呉軍に対し、
戦闘力の虚弱な倭国が一致団結して軍を構えて戦い、しかも一万の兵の8-9割、
即ち8-9千人を殺したなどとは、本当に考えられるのでしょうか?
なにしろ倭国は卑弥呼が死んだ後の男王への反乱の時でさえ、
千人を殺しただけでも『魏志倭人伝』はさも大事の如く書いてあるのです。
私には倭人と呉軍との間に戦闘があったとはとても考えられません。
もしあっていたら、呉軍を苦しめた倭国として『魏志倭人伝』にも記されていた筈です。
陳寿は魏の後釜となった晋の官なので、倭国が呉を叩いていたら喜んで記したでしょう。
それに対し、呉兵が倭国に亡命したことは十分に考えられます。
なにしろ呉軍は少ない兵力で連戦に次ぐ連戦を強いられていたからです。
この時の兵たちも連戦を掻い潜って、生き延びた兵を寄せ集めた軍だったのでしょう。
だから如何にも逃げ出しそうな予感がして、陸遜と全琮は反対したのだと思われます。
呉の兵達が、大陸に比べて比較的平和な倭国に辿り着いた時、
「逃げ出したい」と云う気持ちを持たなかった方がおかしいと思えます。
唯、このような話は倭国が魏の同盟国であることを強調せざる得ない陳寿にとって、
魏の後継国である晋国の人たちに決して知られてはならない話ですから、
陳寿はわざと倭国の名を伏せて、夷州・亶州などと書いたのでしょう。
しかももし、兵が脱走して倭国に亡命したことが孫権に知れたらヤバいので、
衛温と諸葛直は兵たちが疾病で死んだことにしたようであります。
因みに夷州の現地人捕虜とされる人々も、実際は倭人の呉への亡命者だと思われます。
倭人たちは呉が激しい戦争の最中にあることを知らされていなかったのでしょう。
たぶん、衛温と諸葛直は甘い言葉で倭人を騙して、亡命を唆したのだろう。
なにしろ一万の兵で出立したのに、九千人が脱走して、僅か千人しか還らなかったら、
衛温と諸葛直の首が飛ぶことは、火を見るよりも明らかだからである。
だが、数千人の捕虜を得たにも関わらず、結局二人の首は飛んでしまった。
つまり、九千人の兵が脱走したことが孫権にばれたのが致命的だったのだろう。
そしてこのとき倭国に亡命した呉の兵士たちは、何か仕事を貰う為に
彼らの得意な鏡造りを始めたのだが、それが三角縁神獣鏡だったのであろう。
呉の兵士たちは倭国に来てから、卑弥呼が魏から鏡を貰ったことを知ったようだから、
卑弥呼が鏡を貰った時の年号である、正始元年鏡を真っ先に作ったらしい。
そして鏡が作られた時の年号である景初三年も知り、その年の鏡も作ったのである。
その他、景初四年鏡があるのも、呉の兵士たちが魏の事情に疎かったせいである。
すると卑弥呼が魏から貰った鏡の方も三角縁神獣鏡だったと考えたいところだが、
卑弥呼が貰った鏡はたったの百枚であり、しかもどのような鏡を貰ったのか、
呉人の工人も含めて一般民の知る所ではなかったのである。
しかも中国国内からは三角縁神獣鏡は一枚も出土していないのだから、
やはり卑弥呼が魏から貰った鏡は三角縁神獣鏡ではなかったのだろう。
卑弥呼が貰った鏡は比較的三角縁神獣鏡に似た鏡、
この鏡なら、三角縁神獣鏡と違って、中国国内からも出土している。
つまり、衛温と諸葛直が辿り着いた夷州とは、夷国(九州)の中でも、
狗奴国ではなくて、倭国=女王国連合だったことになる。
その後、倭国の後継者たちは神武東征を果たして、日本全国を統一し、
倭国=女王国連合が、配下となった国々に三角縁神獣鏡を広めたわけである。
元、呉の兵士の子孫たちは九州の倭国に留まった後、神武東征と同時に、
倭国勢力と共に畿内に東遷したのだから、畿内が鏡の本場となったのだろう。
神武東征に伴い、芦原中国先住民の祭器であった銅鐸はすべて破壊・破棄された。
銅鐸文化圏だった日本は神武東征後、元九州に有った銅鏡文化国に様変わりしたのである。
なによりも鏡は、倭王であった卑弥呼=天照大御神を彷彿とさせる、
太陽を信仰する祭祀を行っていたと思われる宝物なのである。
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