【反時計回り連続説】(その15)

 

今回は③伊邪国⑤彌奴国⑥好古都国⑦不呼国の四国です。

 

此れ迄に【反時計回り連続説】を用いて、連続する二十一国中13国を比定完了しましたが、

残り8国は地名の類似から比定することが、次第に困難となってきました。

しかし、ここからが【反時計回り連続説】の真価がいよいよ発揮されるときです。

今後は、既に埋めた国の隙間に残りの国を当て嵌めていく作業を始めねばなりません。

そこでもう一度、既に比定が終わった倭国地図を表示してみます。

 

 

上記倭国地図を見ると、肥前国南西部(長崎県南部~佐賀県西部)にかけて、

②巳百支国④郡支国、及び⑧姐奴国との間に広大な未比定領域が在ることが解ります。

過去の国名比定論者はこの未比定領域に何の関心も抱いていませんでしたが、

もし『魏志倭人伝』に倭の構成国=女王国連合の全ての国が網羅されているとしたら、

倭国地図に未比定領域が存在するのは極めて拙いことになります。

安本美典氏の二十一国の比定国、及び橋本増吉の二十一国の比定国の図参照。】

即ち、今回の4国は【反時計回り連続説】から考えて、この地域に当て嵌まると思います。

すると③伊邪国は、このうちの②巳百支国④郡支国との間に入ることになり、

⑤彌奴国⑥好古都国⑦不呼国の三国は④郡支国⑧姐奴国の間に入るはずです。

 

③伊邪(いや)国

 

先ずは③伊邪国です。

このブログでいつも説を引用させて頂いている慶応義塾大学教授を務めた橋本増吉は、

東京帝国大学白鳥庫吉教室出身であり、生粋の邪馬台国九州説派でありますが、

肥後国内に偏った教授の比定国は、これ迄あまり同意できないものが多かったわけです。

しかし橋本増吉教授は、今回の③伊邪(いや)国をご自身の生まれ故郷の

肥前国北高来郡伊佐早(いさはや)、現在の長崎県諫早市に比定されています。

 

因みに安本美典氏は③伊邪国を伊予(いよ)国と読んで、四国愛媛県に比定されますが、

この説は何度も言いますように、奴国が「女王の境界尽きる所」とされる、

『魏志倭人伝』の記載を完全に無視したものです。

安本美典氏はそのせいで、倭国=女王国連合の範囲がまるで分らなくなられています。

 

諫早市③伊邪国として、十分に位置が【反時計回り連続説】に適合していることと、

名称の類似からも私は今回、橋本増吉説に合意して、

③伊邪(いや)国肥前国伊佐早(長崎県諫早市)に比定したいと思います。

 

さて、当地は弥生時代から元々(いさはや)だったのが郡使には(いや)に聞こえたのか、

弥生時代に(いや)だったものが、後の世で(いさはや)に変化したかのどちらでしょうか?

私は弥生時代から既に当地は(いさはや)と呼ばれていたと想像しています。

三方向から入り込む湾の奥に佇むこの国は、潮の流れが速い(磯速=いそはや)國だったものが、伊佐早(いさはや)國に訛ったのではないでしょうか?

現在では国の悪政のせいで、一方の諫早湾が潰されてしまったのが実に残念です。

 

⑤彌奴(みな)国

 

次は⑤彌奴国ですが、類似する地名は特に肥前国内にはなかなか見つかりません。

安本美典氏は、北九州全体から彌(み)の音のある国を探したらしく、

筑後国御井(みい)郡三瀦(みずま)郡、又は肥前国三根(みね)郡に比定されています。

比定地が三か所にも及びますが、結局は現在の久留米市鳥栖市辺りと云うことでしょう。

だがこの比定は、安本氏が⑧姐奴国に比定した竹野郡⑨都蘇国とも被っています。

橋本増吉は安本美典氏同様⑤彌奴国三根郡現在の三養基郡に比定されます。

ですが私は、鳥栖市近辺は既に⑨都蘇国に比定していますのでもう使えません。

 

このように過去の研究者は、

⑤彌奴国を名称の類似だけから比定しようとして、かなり苦しんでいます。

実際地名と云うものは、やはり時代と共に全く違うものに変わってしまうこともありますから、

名称の類似からだけでは、二十一国全てを比定するのは無理ではないかと思います。

 

ところが国の位置的情報を得ることが可能となる【反時計回り連続説】を利用すると、

例え名称の類似が使用できないときでも、かなり国の位置を絞り込むことが出来ます。

そうやって考えたところ、長崎彌奴では名称の類似は殆ど認められませんが、

どうやら⑤彌奴国の位置は現在の長崎県長崎市辺りになりそうです。

国の範囲は肥前国旧西彼杵郡、即ち現在の長崎半島から西彼杵半島にかけて、

長崎市西海市及び西彼杵郡長与町、時津町を含んだ地域になると考えられます。


此処で、弥生時代に長崎彌奴国だった理由を、別の方面から考えてみたいと思います。

先ずは、彌奴国の付く国、つまり港を持つ国であること。

確かに長崎市はその位置からして、現在も海運業の重要な拠点となっています。

 

弥生時代当時の倭は漁業と海運業が主産業を為し、海人族が大活躍する国でした。

海人族には綿津見三神を崇拝する安曇族と、筒男三神を崇拝する住吉族

及び宗像三女神を崇拝する宗像族と大きく三つの部族に分かれていました。

 

各部族の本拠地は安曇族奴国住吉族不彌国宗像族宗像国だったと思われます。

三つの海人族は、それぞれの祭神を祀る神社を建て、航海の守り神としていました。

志賀島に在る志賀海神社は、奴国王だったと思われる安曇族の首長が、

港となる博多湾への船の出入り口となる志賀島に海神を祀ったものであり、

宗像大社は宗像市の辺津宮、大島の中津宮、沖ノ島の沖津宮の三社に分かれており、

住吉神社は当時の不彌国の範囲が現在の博多駅辺り迄伸びていたので、

博多駅前の地に住吉神社が建てられたのではないかと思われます。

 

これらの神社は極めて近い距離にあり、各海人族共に、博多湾沿岸とその周辺部が

大陸と倭の様々な地域とを結ぶ海運の拠点として重要視されていたようです。

そうなると九州西海岸を回る航海賂の重要な中継港となる長崎は、

住吉族や安曇族などの海人族にとって、欠かせない地点だったのでしょう。

 

即ち、福岡市(奴国)宇美町(不彌国)同様に長崎と云う航海上の重要な拠点に在り、

不彌国奴国を併せたような名を持つ彌奴国は、

住吉族と安曇族が共同で運営していた国で有る可能性が考えられるのです。

 

因みに倭国=女王国連合と一線を画す、芦原中国=大国主連合に含まれる海人族である宗像族はこの方面の港に拠点を持てなかったようです。

宗像族安曇族住吉族を管轄する倭国が経営する壱岐ー対馬ルートに対抗して、

独自に大島ー沖の島ルートを開発したようです。

 

 

⑥好古都(こうこつ)国

 

次に⑥好古都国です。

安本美典氏は好古都(おかた)国と読んで、筑前国遠賀郡岡田宮に比定していますが、

この比定も奴国が「女王の境界尽きる所」の記載を完全に無視したものです。

遠賀郡岡田宮辺りは宗像国の領域、即ち、大国主連合=芦原中国に入ると思われます。

橋本増吉は好古都(ここち)国と読んだらしく、又も肥後国菊池郡に比定していますが、

これは明らかに狗奴国の領域ですね。

 

私は⑥好古都国【反時計回り連続説】から肥前国高来郡(島原半島)に比定します。

高来郡(こうこ)郡とも読めます。昔は好古(こうこ)都(津)国だったのに、

後世高来(こうこ)の文字を当て嵌め、(たかく)と呼ばれるようになった可能性があります。

又、現在島原半島の南端部には、口之津(くちのつ)港があります。

口之津は(こうのつ)とも読め、元々は好古の津(こうこのつ)だったとも考えられます。

 

口之津港の位置

狗奴国の領域に近く、邪馬台国沿岸へ至る有明海への船の侵入は危険を伴っていたと思われる。

 

⑦不呼(ふこ)国

 

次は⑦不呼国です。

安本美典氏は筑後国浮羽(うきは)郡に比定されていますが、又もや、

筑後国御井(みい)郡竹野(たけの)郡と被る地域です。

安本氏の比定で、この辺りが非常に混雑してしまうのは、

安本美典氏による連続する二十一国の比定で示した通りです。

 

私は【反時計回り連続説】からいって、佐賀県西部に在ったと考えますが、

不呼(ふこ)の名称に適応する地名はなかなか見つかりません。

そこで色々調べたところ、肥前国杵島郡白石町須古と云う村が存在していました。

この須古(すこ)村が弥生時代にこの地域の中心部だったとしたら、

この地域が弥生時代に須古国と呼ばれていた可能性がある。

その須古(すこ)が、郡使には(ふこ)に聞こえ、不呼国と記した可能性が考えられます。

因みにこの地域には縄文~弥生時代の遺跡が多数見つかっています。

 

橋本増吉氏は肥前国伊福郷 佐賀県藤津郡太良町の伊福甲と云う地域に比定します。

この比定は私の比定した杵島郡白石町に比較的近いものです。

 

今回比定した、③伊邪国⑤彌奴国⑥好古都国⑦不呼国を倭国地図に挿入しました。

 

 

 

今回比定完了した、③伊邪国⑤彌奴国⑥好古都国⑦不呼国を赤丸で囲みました。

これで二十一国中、17国迄が比定完了し、残るは4国のみとなりました。

 

 

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