『晋書』『宋書』『梁書』等に記される

倭の五王=讃(賛)・珍(彌・弥)・済(斎)・興・武のうち、

興=安康天皇、武=雄略天皇の二人はほぼ定説になっていますが、

讃(賛)は応神、仁徳、履中説、

珍(彌・弥)と済(斎)に関しては履中、反正、允恭説などが錯綜しています。

今回はこの問題にスポットを当ててみましょう。

 

 

上図; 倭の五王についてじっくり検証するスレより借用させて頂きました。

 

先ず、実際に中国史書『晋書』『宋書』『梁書』にはどのように記されているのか?

Wikipedia、れんだいこ氏の【新邪馬台国論】、その他Web情報を参考に纏めてみます。

 

倭の五王 外交年表

 

西暦        中国王朝           中国元号              倭王  

 

413年      東晋          義熙9         (讃?)      

 

「安帝の義熙9年、是の歳、高句麗、倭国および西南の夷の銅頭大師、並べて方物を献ず」

(晋書安帝紀)

晋の安帝の時、倭王賛(讃)有り。賛死し、弟彌(珍)立つ。彌死し、子、済(斎)立つ。

済死し、子興立つ。興死し、弟武立つ。」(梁書列伝倭条)。

上記『梁書』の記載で、黄色は信憑性の有る記載ピンクは怪しい記載

 

421年       宋             永初2                    

 

「倭国は高麗の東南大海中にあり。世に貢職を修む。高祖永初二年、倭(王)讃万里を修めて貢ぐ。遠きの誠を宜しく甄(あきら)かにし、除授を賜う可(べ)き。」(宋書列伝倭国伝)。

 

425年       宋                 元嘉2                    

 

太祖の元嘉二年、讚は又司馬曹達を遣わし表を奉じて方物を獻ず」(宋書列伝-倭国伝)

 

これ等の史書を見ると解ることだが、オリジナルの記事は主に『宋書』、一部『晋書』にあり、

『梁書』はAD502の記事のみがオリジナルで、その他は先代史書のコピー、

『南史』に至っては、全てが先代史書のコピーである。

即ち、『梁書』『南史』の先代史のコピー部分には、明らかに『梁書』著者の姚思廉、

『南史』著者の李延寿の思想が混入しているものと思われる。

 

そんな中AD413の東晋への貢献の項は、オリジナルの『晋書』に倭王「讃」の名は無い。

『梁書』は『宋書』の知識から、AD413貢献時の倭王も「讃」としたのではないか?

即ち、AD413東晋に貢献した倭王は「讃」ではない可能性が高い。

それに対し、AD421、AD425の宋への貢献時の倭王は、「讃」で間違いなかろう。

 

430年    宋               元嘉7           讃?      

 

「元嘉七年の春正月、是月、倭國王使を遣わして、万物を献ず。」(宋書本紀-文帝記)。

 

この時も貢献倭王の名前は無いが、讃の可能性が高い。

 

438年      宋            元嘉15                  

 

倭王讃没し、弟珍立つこの年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。(『宋書』夷蛮伝)

4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。(宋書文帝紀)。

この年、珍が宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める(宋書倭国伝)。

元嘉十五年、夏四月己巳、以倭国王珍為安東将軍」(宋書本紀文帝紀)。

 

443年       宋             元嘉20               

 

元嘉二十年、倭國王使を遣わして献を奉ずる。復以て安東将軍・倭國王と為す。」

(宋書列伝倭国条、宋書倭国伝)。

 

451年       宋             元嘉28                          

 

宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。安東将軍はもとのまま(宋書倭国伝)。

「元嘉28年秋7月甲辰、安東将軍の倭国王済安東大将軍に進号する。(宋書文帝紀)。

上った23人は宋朝から軍・郡に関する称号を与えられる(宋書倭国伝)


460年       宋             大明4             興?       

 

「大明四年(AD460)十二月丁未、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。」(宋書倭国伝)

「(時期非記載)済が死し、世子興遣使貢献」(宋書列伝倭国条)。

 

信頼できる『宋書』には、珍は讃の弟とある。

これに対し、珍の子が済と記されるのは『梁書』だけで、

『宋書』にはAD443、AD451に宋へ貢献した倭王済は珍の子とは書いていない。

先にも述べたように、『梁書』の場合、先代の史書を引用して書かれたものだから、

著者の思い込み(勘違い)が入り込む危険性が高い。

だから『梁書』の済が珍の子は勘違いで、済は珍の弟である可能性が出て来る。

すると、讃(賛)・珍(彌)・済が三兄弟であると考えられるようになる。

これは『日本書紀』の第17代履中、第18代反正、第19代允恭の三兄弟に適合する。

だが、讃の貢献年AD421、AD425、AD430、珍の貢献年AD438は計18年で

『日本書紀』による履中天皇在位6年、反正天皇在位5年の計11年に合わない。

ところが『日本書紀』には允恭天皇のみが在位42年とされる。

履中、反正、允恭の三兄弟中履中、反正は比較的ありがちな在位年数だが、

允恭の42年のみが当時としては異様に長すぎる。

これは履中・反正の在位年のうち幾らかが允恭に盛り込まれていてもおかしくなく、

そう考えることでのみ、

『宋書』の貢献年と、『日本書紀』の天皇の在位年の整合性が説明可能となる。

 

『梁書』に「讃」と記されるAD413に東晋に貢献した倭王はAD421の貢献より八年も前で、AD425、AD430の貢献も「讃」だとすれば、「讃」の在任期間が18年を超えてしまう。

これは『日本書紀』に履中天皇の在位期間が6年と書かれるのをかなり上回ることになる。

即ち、履中天皇=讃の貢献はAD421・AD425・AD430の三回のみと考えるべきで、

AD438の貢献のみが珍=反正天皇、

AD443、AD451、二回の貢献が済=允恭天皇と考えた方が合理的である。

 

AD413の貢献時の倭王は履中天皇の先代、第16代仁徳天皇である可能性が高い。

 

462年     宋            大明6                  

 

3月、宋・孝武帝が、済の世子の興を安東将軍倭国王とする。(宋書孝武帝紀、倭国伝)

 

477年     宋            昇明1            

 

興死、弟武立自称使持節、都督、百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国、

諸軍事、安東大将軍、倭国王

(宋書倭国伝、宋書列伝倭国条)

 

478年     宋            昇明2                 

 

「昇明二年五月戊午、倭国王武遣使献万物、以武為安東大将軍」(宋書本紀-順帝紀)

「順帝昇明二年五月戊午、遣使上表曰、詔除武、使持節、都督、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」(宋書列伝倭国条)

 

479年     南斉         建元1                 

 

南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍(征東将軍)に進号する。

(南斉書倭国伝)

「建元元年、進新徐、使持節、都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王武、号為鎮東大将軍」(南斉書列伝東夷・倭国条)

 

502年      梁           天監1                 

 

「4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。」(梁書武帝紀)

「高祖即位、進武号安東征東将軍」(梁書列伝-倭国条)。

「進安東将軍倭王武為征東大将軍」(南史本紀-武帝記)。
 

『梁書』に、「AD502に梁の武帝、王朝樹立に伴い倭王武を【征東大将軍】に進号する」

とあるのはAD479の武(雄略)の貢献から23年と、時間が経ちすぎており、

【征東大将軍】の号はAD479に既に南斎の高帝により進号されている。

即ち、武(雄略)の死後に、梁から名誉号として与えられたのではないかと推定される。

 

結論として、五世紀に中国王朝に貢献したのは、

倭の五王、讃・珍・斎・興・武ではなく、

倭の六王、即ち、

① 中国名不詳(仁徳)AD413、東晋に貢献、

② 讃(履中)AD421、AD425、AD430、宋に貢献、

③ 珍(反正)AD438、宋に貢献、

④ 斎(允恭)AD443、AD451、宋に貢献、

⑤ 興(安康)AD460、AD462、宋に貢献、

⑥ 武(雄略)AD477、AD478、宋に貢献、AD479、南斎に貢献、

以上が正しい倭の六王の貢献となる。

 

 

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