我が民主党が、圧倒的に勝利した。
これにより日本国は、悪しき官僚主義体制から、脱却する糸口をつかんだのである。
今まさに、三流政治家であった、吉田茂の呪縛から、解き放たれるのである。
しかし、戦いはこれからである。戦いは今から始まるのである。
日本国憲法:前文、抜粋
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
ご覧のとおり、日本国憲法には、我々国民の代表が官僚であることなど微塵もない。つまり、官僚自体が与党政治家と一体となり、或いは、貪欲な与党政治家を操り、許認可権に関する法律を策定及び立法化せしめ、国政を運営するという官僚支配体制は、三権分立を踏みにじった、憲法違反であることは明白なのである。
では、この官僚主義体制を誰が敷いたのかというと、自らも外務官僚であった吉田茂以外の何者でもないのである。
吉田茂は、1878年9月22日、神田駿河台で出生した。1881年8月、横浜のジャーディン・マセソン商会(元はアヘン商人)横浜支店長の武器商人吉田健三の養子となる。1888年、養父が他界し、莫大な遺産を相続する。当時約50万円(現在の金額では、約38億7,150万円、当時の米価と2008年の物価から算定)であり、自らを吉田財閥と名乗っていた。
1896年9月、東京物理学校(現東京理科大)に入学するが、1897年10月、学習院高等学科に転校し卒業後、1901年9月、学習院大学科に入学する。しかし、1904年7月、大学科が翌年廃止されるため、同年9月、東京帝国大学法科大学政治学科に転校し、1906年7月卒業後、外交官・領事官試験に合格し、外務官僚となった。
幼少の頃から、莫大な遺産を相続し、元々気位が高い性格であったものが、学習院時代に人格形成期を過ごし、校風自体がなおさら気位の高さを植えつけてしまったとも言われている。
外務官僚時代に、ロンドンに3回通算して約7年間赴任し、親英米外交官と成り果て、アングロサクソンに従属する行動を取ることとなる。そして、大東亜戦争開戦前には、グルー駐日大使に接近し、我国の最高指導者たちの動向を、逐一報告するということまでやってのけていた。
つまり、吉田茂の過度の気位の高さは、元々一般国民のことなど眼中にはなく、民主主義の根幹である政党政治を踏みにじり、国民を侮蔑した独善的な政治を行い、我国を官僚主義体制に導いてきたのである。また、アングロサクソンに対する従属思想が、対米隷属一辺倒の政策を展開させてきたのである。
吉田茂の大罪は、
1.日本国憲法改正の千載一隅の好機を逸し、独立後のアジア各国を無視した対米隷属政策により、我国は米国の属国と成り下がり、戦後64年が経過しているにも係わらず、未だに名を変えた占領軍が駐留している。
2.憲法違反にあたる官僚主義体制を継続してきた結果もたらされたものは、債務残高1,085兆4,250億という膨大な借金である。
つまり、吉田茂は、将来を見据えた民主主義体制における政党政治及び国民を見据えた政策を行わず、米国の隷属国家として、我国の真の独立を阻んだのである。
また、官僚主義体制を成立させ、以後吉田学校出身者による官僚政治家と無能な高級官僚たちの手により、国民の血税を湯水のようにムダに垂れ流し、無尽蔵な国家的借金体制を作り出させてしまったのである。
故に、吉田茂は三流政治家であった、と結論付けられるのである。
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