三宮のホームで | 大東キリストチャペル 伝道者のつぶやき

大東キリストチャペル 伝道者のつぶやき

クリスチャンのつぶやきブログです。2013年から集会所を寝屋川市から大東市にうつし、それに伴って名称も寝屋川キリスト福音館から大東キリストチャペルに変更しました。

毎週、2回は神戸の神学校に行っています。夜学ですし、寝屋川からは1時間半の道のりです。帰りは日付が変わることもしばしば、一昨日、私は三宮の駅のホームにつったって携帯電話で妻に帰りの時間をメールしていました。打ち終わって送信した時、私はびっくりしました。えっ
なんと、私の後ろには20人ほどの人が並んでいるのです。しかし、私の前は別に電車の乗車口でもなんでもありません。誰かが私が立っていたところを勝手に電車の乗降場所だと思って、私の後ろについて、それをみた次の人が、人が並んでいるから、正しい乗降場所だと思ってまた、憶測で並んで…そうこうしているうちに20人もの人が並んでしまったのです。

調度その時、ホームに電車が入ってきました。私は、そっと、乗降口の前に並んでいる行列に移動しました。私の後ろについて並んでいた人はどうなったでしょうか?恐ろしくって、後ろを振り向くこともできませんでしたが、きっと、寒空のもと、電車の来るずっと前から待っていたのに電車の椅子に座ることはできなかったと思います。夜の10時を過ぎても神戸から大阪に向かう特急の車内は混雑していますから…

恐ろしいですね。叫びみんなが並んでいるからと言って正しいというものでもないのです。

聖書の話もそうです。意外に思われるかも知れませんが、私が日曜日お話しようとするとき、いつも気を付けていることは「私の確信ををはなさない」ということなんです。
他の宗教なら、偉い宗教指導者が自らの霊験あらたかな宗教体験を他の人達に披歴することが説教なのかもしれませんが、教会は宗教体験を継承する場所ではありません。教会のパブリックコメントとして発せられるメッセージは個人の思い込みではいけないと思うのです。私の後ろに並んだ人が、根拠なく並んだがために、割りを食ったようなようなことは教会のメッセージにおいては決してあってはなりません。
その聖書メッセージは歴史的に過去の先達たちも同様の解釈をしてきたか?
その聖書メッセージは教理的に他の聖書個所も同じ内容を指示するか?
その聖書メッセージは釈義的に(原典であるギリシャ語・ヘブル語文法からみて)無理がないか?

それらを検証したうえで話されなければなりません。
もっとも、忙しくて、いつも入念にと上述の作業ができているかと言われれば私も人間ですから不十分なことがあります。しかし、そのことを認める姿勢もまた大切だと思うのです。自分のメッセージはどこまで行っても、神様が私たちに与えて下さった誤まりなき聖書をできるだけ誤りのないように解釈した出来得る限り、神様の御心に近い「近似値」であって「絶対」ではないのです。

日々謙虚に謙虚に

私はいつも、私の前に主を置いた。
主が私の右におられるので
私は揺るぐことがない。
(詩篇16篇8節)

あなたの教会のメッセージは
個人の「絶対的確信」が語られていますか?
それとも、歴史的、教理的、釈義的解釈に基づいた人が話しうる謙虚な「近似値」が語られていますか?