占星術殺人事件

テーマ:
島田 荘司
占星術殺人事件

株は悲惨なことになっているので、気分を変えて本の紹介でもしましょう。

明日も安いところがあれば買います。安いところはあるでしょう。もちろん寄付きから高く、そのまま上、という可能性もありますが、考えにくいでしょうねー。


この本は、たぶん、かなり多くの人が読んだことがあるのではないかとは思いますが、日々の生活や人脈作りや銘柄の研究に忙しく、この本まで辿り着いていないという人もいるのではないかと考え、あえて紹介します。


ざっくり言ってしまえば、この本は推理小説というジャンルの中では最高峰でしょう。「金田一少年の事件簿」が占星術殺人事件のトリックをパクって問題になったこともありました。こんな有名なトリックをパクってはいけませんね。


もしあなたが「風の谷のナウシカ」を見たことがない、なんていう人に出会ったとしたらどう思います?

「ナウシカを見たことがないの?いやー、うらやましいよ。あの感動を最初から味わうことができるのだから」

占星術殺人事件にも同じことが当てはまります。少しでも推理小説に興味があるひとが、この本を読まずに死ねば、それは人生の損失です。まだ読んだことがないという人がいれば、ぜひ一読を。

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ホイジンガ「中世の秋」

テーマ:
ホイジンガ, 堀米 庸三
世界の名著 55 ホイジンガ (55)

株に関する本でも紹介したいのですが、私、ほとんど株の本なんていうのを読んだことがないので。


この資本主義の世界にどっぷりつかっていると、人間にとって何が普通で何が普通でないのか、わからなくなるんですよね。常識だと思っている事柄でも、この世界のみにしか通用しないものであったりするわけです。えらそうなことを喋ってみても、結局は資本主義の手のひらの中でのたわごとだったりします。


自分のことを知りたいと思う人は、自分の所属する世界とは違う世界を知る必要があると思います。

「中世の秋」の舞台は15世紀のブルゴーニュ候国です。このブルゴーニュ候国というものは当時、フランス王家をもしのぐ勢力があり、後のフランス絶対王権の確立のために乗り越えなければならないものであり、ヨーロッパ中世最後のあだ花です。


このブルゴーニュ候国における世界のありよう、そこに暮らす人々の考え方、感じ方は、現代とはまったく異なっていて、「中世の秋」を読むものが開かれた別世界への門の前に立っているような感覚にさせます。「世界がまだ若く、五世紀ほども前のころには、人生の出来事は、いまよりもっとくっきりしたかたちをみせていた」に始まる、ホイジンガの中世解釈は、18世紀ロシア文学の根源をも感じさせ、読むものを圧倒します。



カフカの「変身」を読んだ方は多いと思います。カフカという文学史上に残る偉大な作家の代表作があの薄さで読めてしまうわけですから。実際、一時間もあれば読めてしまいます。


読んでみてどうだったでしょうか? おもしろかったでしょうか? ま、はっきり言って、面白くともなんともない、カフカっていうのはこんなもんなのかな、そういう印象だったのではないでしょうか。


疑問なのは、主人公のザムザが毒虫に変身してしまうこと。なぜ毒虫に変身したのかという解説は本文中には一切ありません。

毒虫についての説明としてよく言われるのが、

 毒虫は後のナチス、ヒットラーを表していてる。

 人間がある日突然毒虫になるという表現は、のちの実存主義の先駆けである。

などです。私、カフカ全集を書簡集まですべて読みましたけど、カフカという人物は多少変わった思考をするとは思いますが、普通の青年ですよ。ヒットラーの出現を予言しようなんていう誇大妄想癖なんてないです。


では「変身」とは何なのか。


私はファンタジーだと思います。


ファンタジーには冒頭、これからファンタジーが始まるよ、という予兆みたいなものがあります。

 「カリオストロの城」では、ルパンが札びらを橋からばら撒き捨てます。

 「ハリーポッター」では、ハリーが蛇と会話をします。

 「変身」では、ザムザが毒虫に変身します。


ファンタジーはファンタジーの門をくぐることによって始まります。

 「カリオストロの城」では、ルパンと次元がカリオストロ公国の門をくぐります。

 「ハリーポッター」では、ハリーが駅のホームにある柱を通り抜けます。

 「変身」では、ザムザの家を訪ねてきたザムザの上司が、毒虫をみて驚き、ザムザの家から逃げ出す時、玄関のドアが閉められます


現実世界と交わらないことによって、ファンタジー世界は維持されます。


ファンタジーは闖入者によって終わります。

 「カリオストロの城」では、ICPOが飛行機によって大量の兵員をカリオストロ公国に送り込みました。

 「ハリーポッター」はまだ終わっていないですね。

 「変身」では、ザムザの家に三人の下宿人がやってきます。


「変身」はファンタジーの枠組みを持っているのです。しかし、ファンタジーにおいて大事なことはその枠組みの中に何を入れるかということです。冒険でも愛でも魔法でも何でもいいのです。ところが「変身」を読んで不思議なのは、一番ファンタジーの核であるその中身がないのです。


「変身」を読んでつまらない、意味がわからない、と思うのは、「変身」が中身のないファンタジーというちょっと考えられない構造を持っているからです。


本当に中身がないのでしょうか。


そこで私は「変身」を原文で読んでみることにしました。

フランツ.カフカは20世紀初頭の人で、チェコスロバキア生まれのドイツ語作家、ユダヤ人です。「変身」の原文はドイツ語です。私、一年間カフカを読むためだけにドイツ語を独学しました。今でも結構読めますよ。でもヒヤリングとか会話とかはできません。私のドイツ語はカフカを読むためだけのドイツ語ですから。


原文における「変身」の文章は、一文一文が長文で、なおかつ非常になめらかなドイツ語で書かれていました。このドイツ語の長い一文を日本語に訳すという作業に少し無理があるのではないでしょうか。「変身」の日本語訳では原文のなめらかさが表現できてないです。


中身ありました。


それは小さな詩でした。

暗く静かな部屋。机の下にうずくまる毒虫。窓からさしこむ月の光。

読む私の目の前に浮かび上がるような、それは美しい詩、美しい情景でした。


カフカは生前、「変身」を出版するのをかたくなに拒み、「変身」を親しい人たちの前でのみ語り聞かせることを好んだらしいです。それはそうでしょう。「変身」とはささやかなファンタジーなんですから。カフカのドイツ語をカフカが朗読する、それを聞けた人は最高に幸せだよ。黄金の時間だ。

資本主義とはなにか、

そんなこと考えたことあります?


辞書を引けば、資本主義とは資本家がお金を儲けるところの社会制度、みたいなことが書いてあるのではないでしょうか。そんな答えはつまらんね。


お前の答えはつまらん。


海とは何かという質問に潮の満ち引きするところと答えるのと大して変わらんレベルの答えですよ。


資本主義の本質とは何か。これは難しい問題ですよ。なぜなら、資本主義は我々の周りに空気のように存在し、我々の身のうちに染み込み、我々そのものを動機付けるそのものだからです。当たり前のことを説明するのが難しいのと同じです。


ハイデガーやニーチェを読んでも、資本主義というものをある種の前提として書かれていて、失望した記憶があります。私は15年前6畳一間の名古屋の下宿で、時代を遡りながらヨーロッパ哲学を読みふけっていた時がありました。遡って試行錯誤して、そして、ヘーゲルにたどり着きました。


資本主義とは何か、という問題は、現代とは何か、という問題となり、結局近代とは何かという問題に行き着きます。近代とは何かを知るためには、ヨーロッパ中世とは何かを知らなくてはなりません。中世と近代とは「光と影」みたいなものだからです。


その中世と近代との関係を明確に意識し表現したのがヘーゲルです。ヘーゲルの精神現象学概論の中にこのような文章がありました。


「かつてこの世のすべての事物は金色の糸で天の事象とつながれていた。しかし、人間はこの糸を一本一本切る事を始めた。これは歴史の流れの中の出来事であり、もう後戻りすることはできないのだ」


資本主義とは結局、現世に吹くさわやかな風である。そう私は理解しました。


本の紹介

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綾辻 行人 (著)

現代において文学はその力を失いつつある。日常の瑣末なことを書くことが主流になり、人生とは小さな幸せの積み重ね、といわんばかりの文章ばかり。しかし、かつて文学は芸術の中の芸術として、すべてを描ききるというマクロ芸術として、君臨していた。 

                                                                                                               

文学史上最高峰の作品のひとつは? と聞かれれば、ドストエフスキーの「罪と罰」と答えるしかない。この罪と罰こそが文学がマクロ芸術であった時代の最高の作者により書かれた最高の作品であるだろう。

 

主人公のラスコーリニコフがキリーロフという人物の下宿を訪ねたとき、キリーロフはろうそくも灯さないまま部屋の中を歩き回っているらしく、こつこつという足音が部屋の外にまで聞こえてくる。、ドアを開けて入ったラスコーリニコフにキリーロフがしゃべりかけた最初の言葉というのが、

「よお、元気だった」

てもなく、

「ひさしぶり」

でもなく、

 

「人はなぜ自殺しないのだろうか」

 

だったという。

 

罪と罰のなかで登場人物は、ぎりぎりの生を生き、ぎりぎりの判断をし、ぎりぎりの死を死ぬ。このことこそがかつて文学を偉大たらしめた一つの要素だったのでは、と考える。この思想を現代に引き継いでいる文学ジャンルこそが、推理小説のなかの本格派であるのではないか。この畸形の文学こそが、じつは文学の本流であるとひそかに考えている。密室殺人、最後のどんでん返し、全知全能の探偵、読者への挑戦。これぐらいしないと19世紀文学には対抗できないだろう。

 

綾辻 行人の文章はもちろんドストエフスキーにはおよばない。しかし、もしドストエフスキーを読みつくし、現代日本版におけるドストエフスキー的なものをと渇望されるのならば、この館シリーズを読むことをお勧めする。