2006年12月27日

2006年を振り返ってみよう 短編小説編

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ちょっと前から、佐和のブログでは2006年に流行った言葉を多用してきました。

(サイレントマジョリティとか、ジャーナリスト宣言とか、そういえば……など)


そこで言葉だけではなく、今年、佐和の心に響いた小説や映画を紹介しようかなと思います。


ということで、まずは短編小説。


これは文句なく、光原百合の短編小説集である「十八の夏」です。


光原 百合
十八の夏





これは2002年に出版されたものなので、今さら紹介かよ、と思われるかもしれませんが、非常に素晴らしい作品です。


ちなみに、「十八の夏」は日本推理作家協会賞を受賞した作品ですが、佐和としては、「十八の夏」に収録されている他の小説「イノセント・デイズ」が好きです。


この短編小説集に収められている作品は、どれも話の構成がよくできています。つまり、しっかりと複線を張り、それを読者がわかるように話の最後に明らかにします。ミステリにおいては、トリックや複線が現実的かどうかがいつも問題になりますが、そんなことを忘れて読むことができます。


ということで、お勧めなので、ぜひ読んでみた下さいな。





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2006年11月09日

ヤングジャンプが凄ぇ!!!

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アメリカの中間選挙、民主党が勝利しましたね。

民主党に入れる人が多い地区の票が消えるといった偶然が、きっと今回もあったと思うので、それを考えると、この結果って凄い気がします。



佐和が思っているほど、アメリカ人ってバカじゃなかったんですね。

ホント、今までバカばかりだと思っていて、すみませんでした。

(__)


ちなみに、上記のアメリカ人という単語が指している人々は、選挙に行っている人のなので、おそらく、アメリカ人で正しいはず。

日本の場合だと、日本人でもないのに、「選挙権よこせ!!!」って騒いでいる某国の人々がいるし、どっかの自治体では選挙権も与えていたような気がするんで、日本の選挙だから日本人だっていえなかったりするんだけどね。


そういえば、ラムズフェルドが辞任するそうですね。彼って「北朝鮮の核開発に協力した」とかって話がなかったっけ?

実は、アメリカが北朝鮮に攻め込む準備のために、こいつの首を切ったんじゃ……

って、どうみてもイラク戦争の失敗が原因だろうけど。

(けど、ブッシュならやりかねんって思うのは佐和だけじゃないはず。ちなみに、佐和は癒ウヨじゃないよ)


ところで、今日は木曜日で、週刊ヤングジャンプの発売日なんです。そんなわけで、今日、佐和はコンビニで立ち読みをしたわけです。


ヤングジャンプといえば、文字通りナウなヤングに読まれているマンガです。

もともと団塊の世代たちの子供によって急成長した少年ジャンプという雑誌があったんです。少年ジャンプの説明は不要ですかね。一番多いときで、確か600万部くらい発行してたんじゃなかったっけ? 一週間に、600万部ってなんじゃそりゃって感じなんですが。

それで少年ジャンプを読んでいた少年もやがて大人になるわけです。そこで、そんな子供の読むものなど読んでられねぇといったジャンプから離れた人に向けて、発行されたのがヤングジャンプです。


だから、ヤングマガジンほどじゃないけど、セックス描写の比率が多いです。

エロ本が欲しいけど、エロ本を買う勇気がない人が、一度は手にする雑誌でもあります。

このことは、断言できるぞ!!!


そんなヤングジャンプなんだけど、今日のグラビアになんと「蒼井そら」が出てるんですよ。


しかも、真ん中くらいに、彼女の袋とじもある。


ちなみに、「蒼井そら」という人は女優です。

女の子がいろいろしちゃうぞ、って感じのビデオの女優です。

お世話になっている性少年が多い女優さんです。


さすが、ナウなヤングに向けた雑誌です。

しかも、グラビアのページにでかでかと、

「避妊」という文字を。


集英社さん、あんた本気だね。


ということで、今からその雑誌を買おうか、買うまいか、迷っているところです。


けどなぁ、その袋とじを開いて、絶対、がっかりする姿が目に浮かぶんだけどなぁ。

(Web YOUNG JUMP -ヤングジャンプ公式サイト- で確認したら、袋とじは別人みたいでした。ということで、買わないわ。まぁ、朝だったんで学校行く前の女子高生がたくさんいるなかで、グラビアを凝視する勇気は佐和にはなかったんで、しょうがないといえばしょうがない、と自己弁護)


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2006年10月28日

Amazonギフト券があるんで。

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Amazonの500円分のギフト券があるんですけど、

その期限が、

10月31日なんで、

ちょっと気になっている本を買うことにしました。



一つは、これ。


若杉 公徳
デトロイト・メタル・シティ 2 (2)

 

 

まぁ、説明は不要でしょう。

世界初のデスメタルギャグマンガです。

クラウザーさんのために、小金を貢がせてもらいますww



そして、もう一つは、これ。

前川 梓
ようちゃんの夜




ダヴィンチっていう本の雑誌があるんですけど、その雑誌が主催した文学賞で、賞をとった作品。正直、面白いのかどうなのかわからないんだけど、気になるんで、買おうと思います。まぁ、Amazonで買うのは周囲の本屋で売っていないからなんだけどね。




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2006年05月12日

数学者は頭がいい!!!

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天才というものをイメージしたとき、もっともそのイメージに近い職業の人は、何か?

って考えると、佐和は数学者だと思うんです。


じゃ、何故、数学者を天才だと思うかというと、数学者は天才だから変なことを少しくらいしても問題ないという認識が佐和の中にあるからです。


例えば、数学者のピーター・フランクルはジャグリングの名手ですし、同じく秋山仁は幼少の頃、あまりに変な行動をしていたので、両親に医者に連れていかれたということを講演で言っていました(ちなみに片方が思いついた数学的な実験を。もう一方が無断でテレビでやったために両者は仲が悪いという噂。真偽は不明)。他にも、いい発想を思いつくために、トランポリンで後方宙返りをしながら考える数学者も確かいました。


そういえば、晩年は錬金術に関して研究していたことで有名な万有引力の法則を見つけたニュートンは、ゆで卵をつくろうとしたとき、考え事に夢中で、間違って時計を茹でてしまったという話もありましたね。


つまり、天才の必要条件は、「変」である、ということです。


だから、佐和も天才の必要条件は満たしているんです!!!


まぁ、十分条件じゃないけどね。


ちなみに、変という必要条件を満たしながら、才能が伴わない人のことを一般に

変人。あるいは、ただのバカっていう気がしますが、そこら辺はあまり考えない方向で……。


それで、本のタイトルは忘れたけど、日本の大変面白い数学者について、書かれていたことを思い出したので、今日はそのことを書こうかなぁ。


その数学者の名は岡潔(おか きよし)


この人、本当に天才だったらしいです。


Wikipediaからの引用ですと、

京都帝国大学卒業後、講師などを転々とするうちにフランスに留学。ここで生涯の研究テーマである多変数解析函数論に出会うことになる。当時まだまだ発展途上であった多変数解析函数論において大きな業績を残した。周知のように一変数複素関数論は現代数学の雛型であり、そこでは幾何、代数、解析が三位一体となった美しい理論が展開される。現代数学はこれを多次元化する試みであるということもできよう。解析の立場から眺めると一変数複素関数論の自然な一般化は多変数複素関数論であるが、多変数複素関数論には一変数の時にはなかったような本質的な困難がともなう。これらの困難を一人で乗り越えて荒野を開拓した人物こそ岡潔である。

具体的には三つの大問題の解決が有名だが、特に当時の重要な未解決問題であったハルトークの逆問題(および関連する諸問題)に挑み、約二十年の歳月をかけてそれを(内分岐しない有限領域において)解決した。岡はその過程で不定域イデアルという概念を考案したが、Cartanを始めとするフランスの数学者達がこのアイデアをもとに層という現代の数学において極めて重要な概念を定義した。また、(解析関数に関する)クザンの第2問題が解けるためには、それを連続関数の問題に置き換えた命題がとければよいとする「岡の原理」も著名である。

というくらい凄い人だったらしいです。

もうね、この説明を読んだだけで、凄い人だって、わかっちゃいますね。佐和なんて、引用部の文章が何を言っているのか、わかりません。

??(ДД)??

説明で周知のように、って全然、わかりません。普段の生活の中での物理法則と、マクロやミクロの世界の物理法則が異なるように、現世とは異なる世界で生きる。それくらい凄い人なのでしょう(


低俗なる現実世界で、何故、佐和はこんなにもモテないんだぁ!!

という悩みを抱えるここの凡人は引用部を見て、

日本語で話せ!!!!!

って、脳味噌から苦悶の呻き声が漏れてきます。


ちなみに、何故、この数学者のことを思い出したかというと、「国家の品格」という本の中で、著者が言っていた考えと

岡自身によれば、岡は「純粋な日本人」であり、日本人として持っている「情緒」に基づいて、その数学的世界を創造した。

という岡潔の主張が同じものだったからです。



それで、話は逸れたんですが、戻しますが、この岡潔は物凄く変だったらしいです。



例えば、この人、散歩など歩くときは、晴れていてもゴムの長靴を履いていたらしいです。


何故かって?


それは普通の靴や草履だと、歩いているときの衝撃が脳を揺らすから。


ちょうどゴムの長靴だと、その衝撃を吸収するので良かったらしいです。


(・∀・)

お、面白っ!!!!


また、周囲の迷惑も顧みず、道に数式を書き、通行の邪魔をしたこともあったらしいです。

(大学の教え子に質問されてか、突然定理を思いついたかだった気がしますが、よく覚えてないです)

(・∀・)

お、面白っ!!!!


ということで、佐和は、こういう天才を保護すべく、政策として、数学者を保護すべきだと思います。




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2006年02月07日

小説の中での家族像の変化③

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では、家族小説として括れない、その他の小説に登場する家族像は、どうだろうか?

そこで、佐藤友哉「子どもたち怒る怒る怒る」(2005)に収録されている短編小説「大洪水の小さな家」を取り上げたい。


(佐藤友哉「大洪水の小さな家」というタイトルを聞いて、NHK教育で放送している海外ドラマ「大草原の小さな家」を思い浮かべる人もいると思う。「大草原の小さな家」は開拓時代の家族像を描いているドラマである。そういう点から言って、佐藤友哉「大洪水の小さな家」を家族小説として読むことも可能だろう。しかし、この小説は最近の小説の中での家族像をよく表していると考え、家族小説として括れない、その他の小説として取り上げた)




この話は不意に洪水に襲われた家に取り残された三兄妹(11歳、弟8歳、妹は幼稚園児)の話である。一読して、すぐに気がつくのは兄妹が兄妹だけで完結していることを幾度も宣言していることだ。


「僕たちは僕たち以外を必要としない」


「僕たちは僕たち以外を求めてはいない」


「僕たちが完結していることに、外部に興味を持っていないことに、他人を気にしていないことに、他人を愛していないことに、両親を求めていないことに、それを勘づかれてはならないと思って幸福な家庭の子どもを演じていたことに」気づかれてはならないと、何度も何度も繰り返し、兄妹だけで完結しているという宣言がある。しかし、突然の洪水で兄妹の完結した関係は壊れてしまう。なぜなら、妹が洪水で死んでしまったからだ。しかし、語り手である一番上の兄は、死んだ妹を見つけ、完結している兄妹の共同体が壊れたことを知っても、ほとんど何とも思わない。

そして、以下のように続ける。


断言できた。

悲しくない。

え?

えっ?

なぜだ?

どうして?


僕は何も必要としていなかった。


僕は、僕が存在していればそれだけで良かったのだ。


僕は僕だけで満足している。

それ以外に何もいらない。


この主張は、私はとても強く共感する。私だけではなく、私と同世代のある感性を持っているものは、とても強く共感すると思う。私が共感する理由は、おそらく私のひきこもり的な部分が反応するからだろう。

この小説で描かれている主人公は、他者と交流することがない。社会的でない。外に出る必要はない。外へと出るきっかけもなく、それを得る必要もない。小学校へと行っているが、小学校へも行く必要がない、と語っている。ひきこもりと同じように描かれている。

このように、主人公を含む狭い世界観が小説を覆っている。具体的に言えば、この小説は、読めばわかるが、両親が登場しない。これだけ、兄妹の関係性にだけ述べていても、両親が登場しないのだ。もちろん、厳密な意味で、両親がいないと述べられているわけではない。主人公は、洪水に巻き込まれるまで、目を覚まさなかったが、その理由を母親に毒を盛られたからではないのかと疑っている。このように、文字としては登場する。しかし、現在形で語られる主人公の目の前に登場人物としては現れない。

これが最近の小説に登場する家族の傾向のように考えられる。

つまり、登場人物同士の組み合わせの完全さ、完結性を求めて、狭い世界観を形成し、社会や世間という外部を切り離す。社会化された共同体(家族)では描くことができない人物間の濃密な関係性を描き出している。その結果、家族が描かれていない。生活感がまったくない、という特徴がある。



例えば、

テレビドラマ化もした白石玄の「野ブタ。をプロデュース」

(けど、テレビドラマと内容が全然違う)


芥川受賞作、綿矢りさの「蹴りたい背中」

(これは前に、蹴りたい背中を異常に読む① で書いた)


同じく、芥川賞受賞作、金原ひとみの「蛇にピアス」

(存在の耐えられないくらい軽い自分という存在を、身体改造することによって変革していく物語であるが、神に近づきたい女性の物語としても読める。『蛇にピアス』には、人を殺したと思われる人物が二人、主人公の彼氏のアマとシバさんが登場する。アマは本文中で「アマデウスのアマ」だと語り、シバさんのシバからはヒンズー教の破壊の神、シバ神を簡単に連想できる。ピアスやタトゥーは成人への通過儀礼、あるいは神に近づく行為として昔は存在していたことと、本文中の会話で神に関する話を主人公らが何度も言及していたことから、本人は神に近づきたい女性の物語を意識して書いていると思われる。水曜wantedというラジオにゲスト出演したとき、イタリアでこの作品が翻訳され、日本の風俗小説として紹介されることについて、本人が違和感があると言っていたことからも、神に関する物語を読んで欲しいのかもしれない。なお、佐和はこの話を面白いとは思わなかった)


乙一や西尾維新の作品は、いま述べた特徴を含んでいる。

(この二人については、作品を読んでくれたほうがよくわかる。乙一に関してのお薦めは「しあわせは子猫のかたち」、西尾維新に関しては「きみとぼくの壊れた世界」。乙一に関して、この作家、最悪!!! と思いたければ、角川スニーカー文庫「きみにしか聞こえない―CALLING YOU」に収録されている「華歌」を薦めます。何故、最悪かというと、この作品をよく読めばわかります)




佐藤友哉の「大洪水の小さな家」は、「サザエさん」のように、兄や妹が集まり、その日常を描く。しかし、兄や妹といった家族を描いているのに両親を描かない。このように、家族小説ではない小説中の家族像は、両親について描かれず、小説の中から、家族像が消えていっている気がする。

しかし、小説の中で家族(主に両親)を描かないからといって、小説家が両親と仲が悪いかというとそうではない。例えば、金原ひとみは父親と二人三脚で「蛇にピアス」を執筆したのは有名であり、綿矢りさはストーカー騒ぎのときに家族ぐるみでガッチリとマスコミから守られていた。また、同人ゲームのシナリオを書き、現在、小説も執筆している竜騎士07は、家族の協力を得て、ゲームをつくっている。 (2005年の年末にNHKで放送していたドキュメンタリーによると、父親がマーケティングをやり、母親が経理、弟が絵を描いていた、と記憶している)

私は小説の中での家族が存在しないかのように振舞う姿と現実のべったりとした家族像のギャップに気持ち悪さを感じている。



ここまで、何作か作品をとりあげて見て来た、小説の中での「サザエさん」的な家族像からの変化は、大きく分けて、以下の三つに分類できる。


1. 毎日顔を合せる形態の家族を解散して家族のつながりを存続する。

2. 毎日顔を合せる家族を存続させ、家族が壊れる。

3. 家族の構成員はもはや必要なく、家族がいないかのよう家族像。


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