さらば、愛の言葉よ | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

私は「ゴダール・ソシアリスム」を観ていないので、10年ぶりにゴダールを観た。
んだが、変わんないすね、ゴダール。やってること、喋ってることは1ミクロンも理解できないのだが、なぜかわかっちゃったよ感、そしてだんだんと盛り上がっていく感は一体、なんだろうね、と思う。
ゴダールの才能としか言いようがないのだが、いちいちショットが決まってるとか、「ノンというためだけに生きてきた」とか「犬のように見る」とかメタ映画的な台詞(かどうかすら理解できないわけだが)のいちいちに感動する。

それに今回はなぜか3D。ゴダールのケレンに微苦笑をうかべる観客もいたのだが、それはどうでもいいとして、そもそもハリウッドの3Dは、あのキャメロンのあのつまらない「アバター」でお目見えして以降、「飛出さない」「暗い」「カット割れ割れ」で、つまり全く存在価値のないものとして、しかしシネコンの目玉商品として君臨してきた(させようとしてきた)わけだ。
しかし、ゴダールの3Dは、まず「飛出す」、なぜか「明るい」、あるいはあらかじめ「暗い」、そして当然カットは割らないわけで、存分に3Dを楽しめるというか、舐め構図やカメラを意識した構図がやけにかっちょいい。そしてハリウッドの3Dが目指してるのであろう、しかしカット割れ割れで全く意味のない、圧倒的に現実的な質感がまた凄い。蓮實せんせーが仰ってた映画の「触覚性」をこれまでの映画とは異なる意味で、まさに体感できる。

オリヴェイラ師は、亡くなる最後まで、これがしたい、こういうことが言いたい、って思っていた(しかしその思惑はずれまくっていた)気がするのだが、多分、ゴダールって自分の言いたいこと、やりたいことなんて1ミクロンもなく、観客のコトしか考えてない。あるいは、最早ナニ撮るかなんてもういいす、現場に行くの面倒す、素材くれよ、適当につなげるさかいに、みたいな。
こういう人がもう一人いて、そ、イーストウッドな、同い年な。