イノセント・ガーデン | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

イノセントガーデン

ヒッチコックの「疑惑の影」は少女が大好きなチャーリー叔父さんを大嫌いになる話だったのだが、パク・チャヌクのこの映画はチャーリー叔父さんが大好きになる話だ。
大嫌いになるためには、チャーリー叔父さんがとても悪い人だとか、叔父さんに悪いことをされるとか、そういうエピソードが必要だし、大好きになるためには、叔父さんに窮地を救われるとか、嫌いな叔父さんとの心温まるエピソードが何かしら必要なのだが、もちろん、この映画はそういう「大好き」とは異なる。困った。どうやれば彼女は叔父さんのコトが好きになるんだろう。

なぜなら叔父さんも少女も異常な人だからで、だから観客にとって「悪いこと」「異常なこと」を彼女にとって「いいこと」「心温まること」に変換しなければならない。

そのための一つは彼女の異常性を強調すること。こういう異常な人なのだから、ああいう異常な人が好きになるわな、と。ところが彼女は叔父さんの正体を探ろうとしたり、母親との関係に嫉妬とかなんとか常識的な反応を返すばかりで、全然異常な娘には見えない。

では、普通の(ちょっと変な能力があるけれど)娘が徐々に悪い叔父さんに感化されていく物語なのか。
パク・チャヌクがとったのは、その感化の過程や、感化するに相当するエピソードをちゃんと見せない、という方法だ。
地下のアイスボックスの中に死体を発見するものの、彼女がそれにどう対処したかはよくわからぬ。チャヌクは時制を入れ替え、審美的な絵づくりでそれを誤摩化す。なんで警察にすぐ行かぬ、と常識的な私たちは思う

二人で男の子を殺すシーンさえある。仲が良い。しかし、決定的に仲が良いとか、好きになりました、とかいうショットをチャヌクは見せてくれない。死体を処理した風にみせる、それに戸惑いつつ、殺人シーンを思い浮かべオナニーをしたりする。何だか変な娘だなとは思うが、相変わらず叔父さんの正体に驚愕したりしてるので、何を考えてんだかさっぱりわからぬ。私が観たいのはもっと具体的なショットだ。
二人はピアノの連弾をしたりもする。互いの感情が高まってきてキスの一つでもするのかと思いきや、ふと気づくと叔父さんはおらず、なんだ、これは幻想シーンなのかと思う。

具体的なショットもある。
いつの間にか仲良くなった二人の姿を母親がみるシーンだ。階段の上、柱の影から顔を出す母親、はっとする二人。母親は、仲良くなった二人にとって決定的な邪魔者であることが顕在化する。ここ一番のショットである。

「疑惑の影」とも対応する。未亡人殺しの容疑者が事故死し、ジョセフ・コットンの容疑がはれる。ふと彼が振り返ると、階段の上で彼の秘密を唯一知っているテレサ・ライトが立っている。こいつがいたかぁぁぁとのコットンの驚愕、そして、その後を予感させるサスペンスに観客の誰もが興奮し、私や双葉先生はつい泣いてしまうショット。

それなのに、それなのに、ちゃんとしてくんないわけよ。まるで盛り上がらん。ちゃんとしてくんないとは、母親が覗く、二人が母親に気づく、その視線の結びつきがおざなりだからで、叔父さんが少女にプレゼントしたハイヒールといった心理的な小道具のアップなんか入れてしまうからで、つまり、ここにいたっても具体的なアクションではなく、心理的な絵づくりに意匠を凝らしてしまうからだ。

確かにいろいろ演出が凝ってるし楽しめる映画ではある。少女を中央に配して母親と叔父さんが語るシーンや二人が初めて階段上で話すシーン(「なぜなら君が下にいるからだろう」との台詞がいい、もろ「疑惑の影」)、こだわりの絵づくりが功を奏していると思う。功を奏しているというのは、なぜなら彼ら彼女らが何を考えているのかはよくわからぬなりに、ちゃんと視覚化しようとしているからで、それが審美の罠に陥るぎりぎりにあるからだ。

というわけで、単なる変な話であった。何がしたいのかよくわからぬ。

怪物の誕生を具体的なショットで観せてくれよと。「エスター」のような下世話なホラーこそこの題材にふさわしい演出なのだが、パク・チャヌクは作家さん、そういう下品なことはせぬ。
そして、パク・チャヌクは今後のハリウッドで作家としてそれなりに遇され、シャウム・コレット・セラなどはいかにいい仕事をしようとも、ああホラーのあれねとそれなりの仕事しか来ないのだな。そう考えれば、チャヌクの戦略にぶれはない。しかし、それは私たちにまるで関係はない。