SPACE BATTLESHIP ヤマト | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

私は小学校6年生の時「ハイジ」を観ずに「宇宙戦艦ヤマト」を観ていた派に属していて、ただ、ハイジの山への帰還にパトラッシュ(×→○ヨーゼフ)がいち早く気づき、猛ダッシュでハイジに飛びつく、ああいつもはあんなにおとなしい犬がぁ、って感動的なシーンをはじめ、いくつかのシーンははなぜか同時代的に観ている。つまり、ハイジとヤマトのいいとこどりをしていた卑劣な人間なのだが、記憶はおぼろげであり、またその後の映画版でのヤマトブームには明らかにひいていた。観たけど。

何が言いたいかと言うと、「ヤマト」への何がしかの想いとかこだわりとかそんなもんはまるで関係ないし、そんなもんで映画を観る奴の気が知れない。あの素晴らしい戦闘空母がでてこねぇじゃないか、とか、沖田が死ぬショットは艦長室からがーっとズームで大ロングだろう、とか、古代守死んでんのかよ、とか、気持ちはわからんでもないが、そういうこと言うな。
第一、この映画の原作は松本零士ではなく、西崎何がしであり、「宇宙戦艦」ではなく「Space Battle Ship」じゃないか。

そんなことで映画を語るな、であるし、そんなことを言う以前に、聞きしにまさる酷さ、うれしいくらいに糞映画じゃないか。

愁嘆場がえんえんえんえん続くシナリオを撮ろうとする時点ですでに糞なのだが、演出は手の施しようもなく、芝居は学芸会。キムタクはいつものキムタクで、オレは自然体のいい芝居してる勘違い、笑えるのはギバちゃん、いつも以上の堅い表情がちょっと凄く、いつほっぺ膨らませるのかと。緒形直人も素晴らしく、黒木メイサを抱えるシーンでははらはらした。
艦橋やら休息室やらにいるメンツを観てるとサークルの部室みたいだし、特にピザハットのお父さんが歓声挙げたり、泣いたりするのが艦橋のロングになるといちいち画面の片隅に入ってるのもポイントが高い。

しかし、そんな後ろ向きな話はどうでもよくって、私が言いたいのは、得意であるはずのヤマトの飛行シーンにまるで力がないことだ。

多くの外人が指摘するであろう疑問、あるいは、当時「ハイジ」派の奴らからの指摘にもあったのだが、なぜ大昔の戦艦を改造してわざわざ宇宙に飛ばさねばならないのか、この実に真っ当な指摘に、私はこう答えてきた。

ヤマトのごちゃごちゃごちゃごちゃした造形と、大小さまざまな大砲やら機関銃やらが一斉に火を吹く様、あの小さな砲座群の愛しさ、さらにヤマトがぼろぼろに破壊され、なぜか煙を吹き出しながら宇宙空間を進む様がその答えであると。この景観こそが原作アニメの見どころであったし、この荒唐無稽なアニメーションをSFと呼ぶにふさわしい何かに換えるもの、つまりsence of wonderなのだ。

ところが、この映画では意外なほど淡白に、短いショットしか重ねてくれない。CGも軽い。重厚感に欠ける。ヤマトを捉えるショットが説明でしかない。
CGの限界、天下の白組をもってしても駄目なのか、という技術力の話ではない。

まず第一に山崎貴にモノフェティッシュな感覚が希薄であり、演出力に乏しいこと。
例えば、ヤマトが波動砲でいろんなものを吹き飛ばして宇宙へと旅立つ。狭くちゃちな管制センターのセットでは橋爪功らがヤマトの安否を気遣っている。彼らはヤマトの姿を探し、探査モニター画面をスクロールするのだが、このスクロールがまず説明でしかない。じっくりと煙を見つめる、やがてヤマトが徐々に姿を現す、その間(ま)こそが演出なのだが、山崎は「探している」ことの説明しかしようとはしない。
そしてヤマトが姿を現す。悲しいことに、その姿もまた「姿を現した」「無事であった」との説明でしかない。爆発による様々な欠片や岩石片がヤマトにかんこんかんとぶつかる中を進む、とか、煙により太陽光が遮られ、進むヤマトに微妙な光が推移するだとか、そういう演出がまるでない。描写がなく、説明しかない。

第二にそもそもCGという方法論が持つ限界なのかもしれない。
例えば、1979年の「スターウォーズ」の冒頭ショットと比較してもそうだし、比べんなよ、と言われそうだが、あえて言うと、天文学的に予算規模の小さい高橋洋の「狂気の海」に登場する、紙コップ式人工衛星ビームの方が表現として明らかに優れていた。
ごちゃごちゃごちゃしていて、それぞれに陰影がつき、立体感があり、埃やら微細な傷がついていて、という表現は、精巧なモデルでのコマ撮りこそがふさわしいのかもしれぬ。
何でもかんでもCGが実現してくれると過信するのではなく、演出として手法の選択が問われるのはこういう時なのかもしれぬ。と、緒形直人の満面の笑みを観ながら思う昨今であった。