インシテミル | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

原作で最も面白かったのは、ミステリに多数決を導入したこと、民主主義の原理を導入したことであった。探偵がいくら論理的に謎を解明しようと、衆愚はそれに与しない。つまり本格ミステリが崩壊した上で、本格ミステリを構築しようとしたところにあった。

映画化された作品が原作に忠実でなければならない法はなく、この原作の面白さを無視してもまるで問題はない。
問題は、小説ではなく映画である所以を提示し、映画であることの面白さをどこに見いだすかを作者たちがまるで考えていない点だ。

中田秀夫は、原作にはないアル中の自殺志願者や自傷癖のある女性など、生と死とその狭間に生きる男女を登場させ、その上で、生きることの意味やら何やらを提示し、映画をなんとか映画として仕立て上げようとする。

そんなもんはミステリじゃなく、他の映画でやってくれよと思う。
この原作を映画化するにあたって、それでよかったのかと作者たちは自問しない。こんなもんでいいんじゃん、このテーマを見いだすことに汲々とし、この原作を映画にすることでもたらされるであろう面白さを求めようとはしない。知恵と努力がみられない。

いかにもな美術、ちゃちいロボットの造形、サスペンス演出の不出来、こんなもんでいいんじゃんという舐めた態度で映画を作っている。原作を与えられた時点ですべてが止まっている。
80年代の角川ミステリ映画は、面白いかどうかはともかくとして、もっと誠実だったと思う。これは糞だ。