借りぐらしのアリエッティ その2 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

映画は彼が心臓病でありその手術を数日後に控えていると設定する。また母や祖母の記憶として小人たちを既にオブラートに包んでいる。美しいドールハウスはその記憶の象徴としてある。またアリエッティはとても美しい。
さらに人間たちの負の感情はお手伝いの婆さんがすべて背負っている。

これはちょっと狡い。つまらない。
婆さんの負の感情は作為的だし、映画の前半が持つ繊細な品格を損ねている。心臓病はただのアリバイでしかない。
しかし宮崎も米林もこの狡さをわかっている。これは映画の作劇なのだ。そういうものだと。
だから、美しいドールハウスを小人たちのために用意しながら、それは彼らを破滅に導くのだし、少年は滅んでいく民族と無神経にアリエッティに語りかけ、死にいく自分と小人たちを重ね合わせる。きれいごとではない二面性を負わせること。

しかし、少年は死にどう対峙したのかと思う。死を予期しながら庭の片隅で眠る少年はどんな目で世界を見つめていたのかと思う。心臓病という設定は小人たちに向かうだけで、少年自体に向かうことはない。つまり彼が小人たちに示す優しさの本当の後ろ側は示されていない。

それは演出の仕事である。シナリオが表していないコトやシナリオが残した余地を画面に描き出すこと、シナリオの不備を補うこと。
時に米林宏昌はシナリオを撮ることに汲々としているように思う。
もう少し人間側に魅力があればと思う。惜しい。もう少しだけ何とかしてほしかったと思う。


最後にちょっと恥ずかしいことを書くが、私には1歳7ヶ月になる娘がいる。映画を観ている間、彼女と一緒にこの映画を観たいとずっと思っていた。成長したら是非この映画を観せてあげたい、そしてダンゴムシの可愛さに、床下の小さなモノたちの健気に、命の尊さとそれを感じられる優しさを学んでほしいと思う。

もちろんこの映画は何かを教えようという啓蒙映画ではない。
あくまでも子供の目を通じて、観客と同じ目線で、映画が共に学んでいくのだ。
だからこそ、娘と一緒に観たかったのだ。娘の目線で、娘と共に成長するように映画を観る。そんな素晴らしい無茶をこの映画は許してくれると思う。