シャッターアイランド その1 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

デニス・ルヘイン作品の多くで、当初、探偵に与えられる課題は、物語が進行するにつれて雲散霧消する。
これまでに映画化された二本を見ても、『ミスティック・リバー』の愛娘の死は、それに対する復讐劇へ、過去の幼児誘拐事件へと焦点がうつっていくのだし、『ゴーン・ベイビー・ゴーン』の幼児誘拐事件では、身代金の要求すらないまま、異なる物語へ移行していく。

「シャッターアイランド」においても、失踪した女性の捜索という物語の前提が守られることはない。密室から消えた女性、謎の暗号、嵐の孤島と、本格ミステリーのガジェットをこれでもかとならべたてながら、それらはすべて反古にされる。件の女性はいとも簡単に姿をみせ、探偵の過去の事件や精神病院の謎へと物語は移行する。
だから決して、この映画は「逃げ去る女をおいかける物語」ではないし、同様に、探偵の内に潜む不在の女性を巡る物語でもない。

不在の女性を巡る物語、つまり「めまい」であり加藤泰の「炎のごとく」なのだが、これらの映画と異なるのは、ディカプリオにとって彼女は愛のイコンでも、愛の不可能性の象徴でもなく、強制収容所の大量死と併置される、自身のトラウマに過ぎないからだ。

むしろこの映画は既に死んでしまった女性を拠り所とする、探偵のアイデンティティの物語であり、その喪失の物語であるだろう。またそれ以上に(ディカプリオがうける驚愕以上に)、終幕におけるどんでん返しは、観客の立ち位置の喪失、信ずべきものはスクリーンのどこにもないかのような崩壊感をねらったものだろう。
アクションつなぎの意図的なまちがい、急激なパンショットやスクリーンプロセス風な背景処理は物語上の伏線でもあり、メタ映画的な崩壊感覚を演出する。全然、崩壊しないが。