インビクタス その1 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

例えば何でもいいのだがフェルナンド・メイレレスの「キプロスの蜂」に、裕福な白人がゴルフに興じていて、その光景からカメラがパンするとスラム街が広がっている、というショットがあった。この映画はアフリカの小国での大資本の搾取ぶりが描かれていて、このショットは白人と現地人の対立、その支配構造を端的に示すというわけだ。

このショット、あるいはこの映画が醜いのは、混沌としているはずの世界の有り様を、あるテーゼに基づいて整然と図式化して良しとする、その傲慢さであり、その狭小な世界観にある。

イーストウッドの新作は同様のショットではじまる。
美しいグラウンドでラグビーの練習をする白人と、整備されていない土の上で汚い格好で同じくラグビーに興じる黒人が、一つのクレーンショットで連結され、さらに両者は金網で仕切られ、その間には道路が横切っていることが示される。

もちろん、このショットが顕す黒人と白人の対比(と予測される融和)は、後の物語を要約しているのだろうし、これから展開される物語のテーマを象徴するショットでもあるだろう。
ところが、このショットは決して前述したような硬直した図式性にとらわれてはいないし、物語を予測させるが故の退屈ともほど遠い。

一つはこれがフェルナンド某などとは格の違う、イーストウッド兄の映画であるという思い込みがあるからだが、これは決して理由にはならない。
イーストウッドはいとも簡単に図式的な対立構造を造り上げてしまうからで、つまり悪い奴は悪い、ブレジネフ書記長はそのそっくりさんのまま憎々しげだし、ブロンコ・ビリーを脅す保安官は多分、イーストウッド史上、最高に悪い奴だった。

近年のイーストウッド作品の悪い奴には何らかの陰影が与えられ、容易にわるもんええもんの構図に収まることはないとはいえ、「チェンジリング」の刑事や精神病院の医師や看護婦はただ単に悪かった。
「グラントリノ」でイーストウッド老が辿る物語もずいぶん図式的ではないか。

では、なぜ「インビクタス」のファーストショットは醜くないのか。

なぜなら、それは世界の有り様をそのまま捉えたものだからだ。
もちろん世界はこんなに容易に捉えられ、再構成され、明確に提示されるわけではない。しかし、時に世界はこうとしかあり得ない様相を呈する。それをイーストウッドは捉えたわけだし、あるいは逆に、イーストウッドがカメラを向けたとき、世界はこうとしかあり得ない。

さらに、白人と黒人の間をマンデラが乗る車が通過する。黒人たちはその車に歓声を送り、白人たちはただ怪訝な表情を浮かべる。
この時、対立していたと思しき両者は、通過する車を介するものとなる。両者は車に対する反応の差異でしかなく、決して観念としての対比に陥ることはない。

あるいは、マンデラの大統領就任に向けた辛らつな言葉を父親は息子に投げかける。黒人の家政婦は台所仕事をしたまま、それを聞いているのか聞いていないのか、あるいはことさらに無視しているのか、まったくの無表情で仕事を続ける。

イーストウッドはあくまでも、その光景を、ただそこにあるものとしてのみ描く。黒人家政婦のアップショットなどは当然なく、父と息子を捉えたフルショットが続くのみだ。さらに、今後の物語で重要な役割を演じる息子が何を考えているのかもわからない。
黒人に偏見を抱いた台詞を喋る父親、というシーンが展開されるだけのことだ。そしてそれはこの世界のある一つの光景であり、それについて映画は是も非もない。

世界を簡潔に捉えること、世界を単純に捉えて良しとされる資質。
あるいは、世界を観念としてではなく、「観る」ものとして捉えること。こうなってこうなるのは世界がそれを定めている、こうしかならない、という感覚。

だからそれはあまりに普通、あまりに簡潔、スピーディー、あまりに軽くみえる。特権的なるショットなし。
しかし、それこそが真にイーストウッドの面白さではなかったか。

マンデラの透明性をイーストウッドの畸形性として捉えるのではなく、マンデラというのはこういう人なのだから仕方ないやと納得させること。
傷や復讐や幽霊や被虐性をあげつらうのではなく、あるいはジョン・フォード的記憶と共にイーストウッドを語るのではなく、ただイーストウッド映画の面白さに痺れる快感をとりもどそうと思う。