スペル その1 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

ホラーは楽しい、というのが「13金」シリーズをはじめとする80年代以降のホラーであって、だから黒沢清や高橋洋が「怖いホラー」と言い出したとき、もの凄い違和感があった。ホラーって楽しいじゃん、と。もちろん「エクソシスト」も「悪魔のいけにえ」も「悪魔の追跡」も「X線を持つ男」も「マタンゴ」ももの凄く怖かった。だけど、あれはオカルト映画だったり、怪奇映画だったり、恐怖映画なわけでしょう。
ようするに言葉と時代の問題なわけで、それは、どうでもいい。ちょっと言いたかっただけ。

では、楽しいホラーとは何か。
超常現象の主なり怪物なりが主人公によって倒されるまでを描いた映画のこと、としよう。だから「楽しいホラー」とは、倒す相手が異なるだけで、アクション映画と同義でもある。

ところが、相手が超常現象の主なり怪物だったりするので、必然的に映画はそれらを倒すためのルールを設けることとなる。
ゾンビの弱点は頭だし、ドラキュラの弱点はにんにくと太陽の光と胸に杭を打ち込むこと、フレディーは夢の中から誘い出せばとりあえず普通の殺人鬼だし、ジェイソンはとりあえず通常の武器で倒せる。

で、「楽しいホラー」の第一人者サム・ライミ(だから彼がホラーに戻ってきた!というのは正しくない。ライミはアクション映画の監督だ)なのだが、驚くことに彼はルールを作ったそばから、それを無視してかかる。「死霊のはらわた」シリーズで悪魔を解き放った「呪文」に意味はあったのだろうか?「キャプテン・スーパーマーケット」でブルース・キャンベルは大切な「呪文」をうろ覚えで大失敗するのだし、あともう一つくらい例を見つけられるといいのだが思い浮かばないので、ライミの作家的刻印(着替えること、とかな)をここに見いだすのは止めるが、とにかく特に今回は凄かった。