他に観た映画 その2 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

「それでも恋するバルセロナ」(ウッディ・アレン)
最近のウッディ・アレンは悪くない。いや、この人の最高傑作は「ハンナとその姉妹」だと思っているので、昔から、決して悪くないわけではないし、「悪くない」なんてやらしい上目線だと思うのだが、それはさておき、どうも最近は肩の力が抜けたというか、アレン独特の技巧だのオマージュだのをスルーできるようになった。

例えば、ハビエル・バルデムが最初に登場するシーン、バルデムのうわさ話を聞かされ、スカーレット・ヨハンソンの目が次第に一目惚れっぽくなってきて、やっとカメラがバルデムを捉えるというシーン。
この一方的な視点がいかにも狙ってます風でうざいのだが、どうもスルーできるのは、そのうわさ話のおばはんとヨハンソンのフォーカス送りによる対比がやけに面白いし、うわさ話おばはんのいかにもぶりが楽しいからで、このへんの気楽さ、というか狙ってなさげな楽しさが最近のアレン作品にはあふれていて、本作は実にそれだけで撮っている気さえする。

「3時10分、決断のとき」(ジェームズ・マンゴールド)
評判がやけいにいいのだが、すみません、それほどノレず。
ジャンル映画の優等生というには、今どきちゃんとしまくりすぎてるジェームズ・マンゴールドなわけで、そりゃ誉めるにやぶさかではないのだが、正直、ローレンス・カスダンの「シルバラード」みたいだった。
つまり、西部劇のある種のパターンを今どきに応じてやってみました、って意識だけが先行しちゃってる感じ。

皆が誉めるベン・フォスターの悪役ぶりも、実に今どきで、これ、誉めちゃいかんのじゃないか?アクション満載のクライマックスももっとやりようはなかったか。牛の暴走と駅との関係とか、けっこー下手だぜ。
ただし、ロングショットを多用しない絵づくりは、単に今どきのアクション映画だからなのか、今どきの(「許されざる者」以降の?)西部劇ゆえの戦略なのかはよくわからぬ。

ちなみにピーター・フォンダ、最後まで気づかなかったよ。出てるなら最初に言ってよ。タイトル・クレジットっていつからなくなったんだよ。