女王蜂の欲情 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

女王蜂の欲情
1966年/大蔵映画/白黒/74分
■監督:小川欽也/脚本:前原昭児/撮影:岩橋秀光/美術:宮坂勝己/音楽:長瀬貞夫
■出演:内田高子、美矢かほる、鶴岡八郎、森公、大原百代、清水世津、曽根成男

基本的にピンク映画ってのはつまらないものであって、しかもそのつまらなさというのは、監督や脚本家、カメラマンの才能や努力いかんによるものではない、ピンク映画のシステムそのものが持つつまらなさであるに違いない。

金がなく撮影日数が極端に少ない。その中で何をするのか、何ができるのか、そう考えるピンク映画「作家」と、そうではなくシステムの中でルーティンをこなす監督たち。

この作品は明らかに後者で、とてつもなくつまらないのだが、その理由を記すことがこの文章の目的ではない。

高橋伴明や井筒が一般映画を撮ろうとしてた頃、住んでいた下宿(←死語)の近くにピンク映画専門館があり、やたら通ってた。そこにかかるのは、作家さんの映画ではなく、大蔵映画が主で、これはもぉ、とてつもなくつまらなかった。
1年間通い続けて、唯一、飯泉大の「襲って犯す」(今調べたら、佐藤靖、山地美貴、麻生うさぎ、大杉漣が出てて、なかなか豪華キャスト。大蔵にしては気張った作品だったのだろうか)
というのを今だに傑作と思っているのだが、それ以外は本気でクズ。
だから、ある意味、この作品はとても懐かしい映画だった。ああ、つまらんなぁ、というね。

今年はじめ、信頼すべき知人たちと飲みに行き、あなたは映画を貶しすぎる、リドリーも「地球が静止する日」も悪くないじゃん、と言われたのだが、
彼らは年間300本は映画を観ている人たちで、つまり糞やクズを年がら年中観てる、その中でリドリーやパッセンジャーズや何たらは、相対的にそう酷くはない、というわけだ。

なるほど。
リドリーや「地球が静止する日」やアン・ハサウェイは確かに酷かった、しかし、映画の大部分はつまらぬ映画なのだよ、と。
いや、つまらぬ映画をしいて観る、タイトル買いをして失敗する、カルト的に観る、というのではなく、日常的につまらぬ映画を観ること。つまらぬ映画はすぐ作れる。映画はつまらぬ。
それを体験として知る機会は失われていて、そんなもんいらん、というのもわかるのだが、そういうのもいいよね、と。